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◯昨日
小林さんの メールにこうありました・・・・・・・・・・・・

土地の名士のお別れ会に桑山(坂井)新八郎さんと参列。敦井栄一さん、富山修一さんとも会いました。ブルボン社長でドナルド・キーンセンター柏崎の館長の吉田さんにも挨拶。明日は館の訪問です❗私にとって2度目。キーンさんのニューヨークお住まいの移築再現に触れてきます🎵 八郎さんに尋ねること、伝えることありますか?
柏崎&三島郡越路町は、岩塚製菓、朝日山酒造、ヨネックスと著名な会社がそろっているんですねぇ‼️昨日は岩塚製菓のそして亀田製菓のトップも来場されていました。信越線沿線は、宝徳山(ほうとくさん)稲荷大社、北条(きたじょう)城・・・「米山さんから雲が出た」の米山・・  三波春夫、岸路吹雪、東洋大学創立者の井上円了・・・の出身地なんですねぇ🍀
なんと言っても東京電力の◯◯は市民含め県民の注目点です。         小林

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さて これを受けて わたしの記述です。

越路町地図

長岡市近くの北陸道・関越道のICから下りて、長岡駅へ向かう大手大橋を渡って、すぐに右折して、大ナイアガラ花火で有名な長生橋のたもとをさらに南下すると、南工業団地の「浪花屋かきのたね」の工場を過ぎて、信越線の反対側のサフラン酒と吉乃川酒造を中心とする摂田屋(せったや)の古い工場地区を抜けて、中越自動車学校・長岡免許センター方面へ、今度は西方向へ向かうと 信濃川にかかる「越路橋」を渡ることになる。長岡市に合併するまでは「越路町こしじまち」と言われた町でした。
 今年の11月1日に、新潟市の不動院での墓参りを終えて、北陸道に乗りこのコースを通り、長岡南越路スマートから、関越道小千谷方面へ向かって、野沢温泉をめざしたのですが・・・ その越路橋を渡って、二つの石碑を見ました。

①井上円了頌徳碑

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②義民岡村権左衛門碑 

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①井上円了
 越路橋を渡ったところが「浦」集落で、その交差点を右へ曲がって、少し行ったところにある「慈光寺」の長男として生まれたのが井上円了です。哲学こそすべての学問の根本と考え、研究を進めたのですが、支援者のなかには勝海舟があり、資金的にも精神上の師であったようです。1887(明治20)年に「哲学館」を創立しました。これが今の東洋大学です。また、井上円了は初代学長です。彼は世界を回り見聞した妖怪、新潟の昔ばなしに出る妖怪やこっくりさんの研究者であり、妖怪学研究会を設立し「妖怪学講義」等を出版するなど「妖怪博士」の異名をとり、仏教界、哲学学界など多岐にわたり活躍しました。
 1957(昭和32)年に碑が建立され、今も郷土学習の偉人として、越路小学校の6年生の修学旅行では、東洋大学の井上円了記念博物館などを訪問して、井上円了の研究交歓会を開いています。

②岡村権左衛門
寛政元年(1789)、越後国三島郡の信濃川の西方、川西組九ヶ村は、幕府の天領から牧野長岡藩領へと所替えになります。が、それは同時に年貢が収穫米の4割が相場という4斗2升から5割に近づく4斗7升と、1.119倍に増税となります。
 そこで、寛政3年(1791)、廻り連判状(=からかさ連判状)をつくって結束し、年貢減免を求めて代官所に訴状を提出しますが、徒党を組んでの「強訴ごうそ」した罪に問われ、他の参加者の罪の軽減を願いあげた、頭取の岡村権左衛門一人が打首獄門となり、結果として権左衛門一人の犠牲によって年貢の減免は実現されたため、地元では彼を「義民」として讃えて、明治時代に「義民岡村権左衛門碑」が建てられたということです。

◯私が訪問した江戸時代の有名な義民2人・・・・・・・・・・・・・・

佐倉惣五郎
(宗吾霊堂:千葉県成田市宗吾1-558)
堀田氏時代の公津村名寄帳によって「惣五郎」という富裕な農民が実在していたことは確認できる。1715年に成立した『総葉概録』(佐倉藩主稲葉正往の命により藩儒磯辺昌言が編纂)には、堀田氏時代に公津村の「総五」が何らかの罪によって処刑されたこと、「総五」が冤罪であると主張して城主を罵りながら死んだこと、堀田氏の改易(1660年)が「総五」の祟りとみなされたこと、このために「惣五宮」という祠が建てられたことが記されている。しかし、惣五郎が一揆や直訴を行ったということを確認できる史料はないが、江戸時代から明治にかけて、義民としての物語が広く流布した。

杉木 茂左衛門
(千日堂:みなかみ町月夜野491)(すぎき もざえもん、寛永11年(1634年)? - 貞享3年(1686年))
上野国の農民。代表越訴型一揆の人物。磔 茂左衛門(はりつけ もざえもん)とも呼ばれる。1662年、沼田藩主真田信利の悪政が始まり、大飢饉の発生により経済状況がより悪化したため、茂左衛門は、沼田領77村の農民のために直訴を決意。大老酒井忠清を訪ねるが門前払いにあう。茂左衛門は知恵をめぐらし、輪王寺の紋箱に入れた訴状をわざと茶屋に置き忘れ、茶屋の主人に届けさせた。主人は将軍徳川綱吉に訴状を届け、沼田藩主真田信利は改易となった。しかし1686年、茂左衛門は直訴の罪で妻子もろとも磔刑に処された。実は赦免の使者が出ていたのだが、使者が到着する前に刑が執行されてしまったと言われている。村人は千日堂を建立し、茂左衛門を祀った。明治期に紹介され、戯曲「磔茂左衛門」があらわされて人気が沸騰した。千日堂は杉木の死後、相当の期間が経過して忘れられていたが、1922年に再建、1971年には再々建された。群馬県の郷土かるた「上毛かるた」で、"て"の札「天下の義人 茂左衛門」として読み継がれている。
私も、その磔茂左衛門の史跡を見学した際に、絵本を購入したものでした。授業で使いました。

img_0_201811231000539a3.jpg 磔茂左衛門 考証









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2018.11.23
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