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昨年の一月四日に 歩いて出かけた 
   真鶴半島の湯河原側付け根にある
  「尻掛け浦」=しっかけ うらの撮影してきた写真を、引っ張り出して
   墓石調査を 始めた。

尻掛浦1

 今は住んでいない 建物が しっかりした石垣の上に建っている。
   江戸時代に 和歌山県から 漁業技術をもって 移り住み、
   代々 この場所で ぼら漁 ぶり漁を、 「巻き網」かなあ 今でいうと 
   見張りを立てて   
   魚群が来たら  舟で魚の群れを 取り囲んで一網打尽にする漁を伝えたようで、
   季節になると 故郷の和歌山から漁師の応援を呼んで、大収穫をやっていて、
   その権利を 代々 踏襲して、小田原藩に税を払って営業していた網元である。
   昭和になって 廃業して東京へ転居したと聞いている。

田廣家

紀州のお殿様が 参勤交代で 江戸へ向かうため 東海道を上ってくると、小田原城中に宿泊するが
  そこへ ご挨拶にまかり出て、
  小田原藩主の前で 紀州藩主へ挨拶献上をして、小田原藩主に営業をミトメさせたという話も伝わっている。

伊能忠敬測量隊も
  真鶴半島の測量時に、田廣家に入り、昼食休みを取っている。
  その場所である。

田廣家墓

左

  家からあがった一角に このような墓地が整然と残っている。
   19個の墓石が並んでいて 刻字も 風化が少なく よめるものが多いので

   写真を撮っておいて 20ヶ月たったので よんでみた。

  文化12年12月19日に 城願寺土肥一族墓を参拝した 伊能忠敬測量隊の一行が
   その晩に 吉浜の向笠彦右衛門宅に泊まって 朝出発して 真鶴半島の測量を始めて
   この家に寄ったのは、12月20日の昼である。

  それでは この墓のどの人が この測量隊の接待をしたのであろうか?
   それを明確にしたかったのである。
   没年を手掛かりにすると・・・・

はい わかりました。
 



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2018.09.01
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