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今日は ジムで自転車をこぎながら 考えた・・・・・・
 

 旧暦8月15日の月を、「中秋の名月」といった。

すすきを飾って月見団子・里芋を盛り、御酒を供えて月を眺めた。
農村地帯では、この時期収穫の里芋を供えることから、十五夜の月を特に「芋名月(いもめいげつ)」と言う地域もあり、
仏教では豊作を祈る、感謝する法会を催すところもある。

町方では、さと芋でなく、町では団子をそなえるようになっていく。 
 
  先月の西日本豪雨の日 7月9日に
私たち夫婦は バス旅行で 松本ー白骨温泉から 豪雨で 高山へ出られず、松本へ戻って、高速道路で長野市・上越市廻りで富山へ向かっていた際に、
 久しぶりに 姥捨のサービスエリアに 休憩となった。

芭蕉の『更科紀行』での姥捨山の名月観賞は、元禄に元号が変わる年、貞享5年の8月15日、名古屋から木曾街道を通って、姥捨にやってきた。
 
 これよりさらに先、芭蕉は、平安の都人のあこがれた「須磨の月」にならって、暮らしていた江戸深川をたって、貞享4年8月14日、深川で参禅した仏頂和尚の住む鹿島根本寺に月見に出かけているのが、『鹿島紀行(鹿島詣)』であった。あいにくの雨天で、月を見ることができなくて、和尚より慰められている。

 姥捨の月は、まさに翌年のことであった。
 
 考えてみると  月を見ることは、『おくのほそ道』でも、芭蕉の関心事であった。
 姥捨の名月の翌年、
元禄2年8月15日には、芭蕉は越前国敦賀にいた。
前日の「待宵月」こと8月14日に到着した宿の主人が、「北陸の天気は、変わりやすいから、今夜のうちに月を見ておくほうがいい。」という勧めに従って気比の松並木に出かけた。待宵月を見ることができた。俳句も十五句作ることができた。
 宿の主人の言うように、翌日は雨天で、中秋の名月の月見はできなかった。

このように 芭蕉は違った場所で、毎年、中秋の名月を見ていたことになる。
翌年の元禄3年以降は、芭蕉は京・滋賀などにいて指導に当たっていたはずである。
   まだ、私へ年表で どこで見ていたのか調べていない。
いったい、芭蕉の名月好きはどこから来たのか? 芭蕉だけでなく、
   江戸時代の人は、みんなそんなに月見が好きだったのだろうか。これも  まだ、私は調べていない。

手元の資料を 表にしてみると・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ こうなる

●貞享4年(1685)8月15日 鹿島根本寺 当夜は雨天。 翌日、雲の間に見る。『鹿島詣』
●貞享5年(1686=元禄元年)8月15日 更科姨捨長楽寺、当夜見える。翌日・翌々日も付近で見る。『更科紀行』
●元禄2年(1687)8月15日 越前敦賀気比神社 前夜に見る。 当夜は雨で見えず。『おくのほそ道』

  この雨上がりの翌日8月16日は、
   敦賀にいた芭蕉は 小舟で 西行が行った砂浜へ行った。 可愛い名前である。「色の浜」へ行った。
   西行は ここで 貝を拾って
     「潮染むる  ますほの小貝 拾ふとて   色の浜とは 言うにや あるらん 」 圓位(西行のこと)
   芭蕉は
     『おくのほそ道』で 「ますほの小貝 ひろはんと いろの浜に 舟を走す」として
      「寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋」
      「浪の間や 小貝に交じる 萩のちり」 であった。

私は 明日16日は 三嶋大社へ行くが  331年前の芭蕉は 色が浜へ行っていたのだ。

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2018.08.15
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