孫娘たちのお供で 塾通いをしていると、
  もう 20年以上も前になってしまった 
   娘や 息子たちの
   塾通いの 送り迎えの生活を思い出しますね。

それより昔の 58年ほど昔
 新潟の田舎に暮らしていた 私には、
  父親の 転勤生活に伴う転校で、
  ひとりで遊んでいるか、弟と二人だけの遊びか、
塾に通う生活も、受験勉強も
  考えられなかった。

小学生高学年になって
   2年半の ソロバン教室と、
   2年間 書道教室とに 通わせてもらったが、
あまり熱心ではなく、

   日本商工会議所珠算検定三級と、
   北越書道会の初段止まりで終わってしまった。

中学受験は  問題集を買って
   6年生の秋から 毎夜  父親に面倒を見てもらった。

 新潟大学付属中学校を 目指すものだったが、
  練習問題ができなくて 植木算、つるかめ算などなど
        小学校で教えない算数問題には 苦労して
 毎晩泣きながら 解いていた。
だから
問題集は   涙と 鼻水の垂れたシミだらけとなった。

 参考書は 算数 国語 理科 社会 の
 「自由自在」シリーズだった。
  旗を立てて勇ましい騎馬騎士のマークが思い出される。

全部 10月から1月末の受験日までにやり終えた。
  教育のプロでもなく、
  早く 自分の父親を亡くして、母親に育てられたので
  息子の教育を 父親から受けたこともない 私の父親は
  毎晩 大変だったと 思う。


雪の降る 新潟の寒い日の
  付属中学受験は、母親が付き添いで来て
  終るまで 待っていて、 一緒に帰ったが
その後の 私には、不安な日々が続いた。

  不合格の通知が来るのが 心配であった。

なぜなら、「問題はできたか? 」と聞かれて
「うん できた。」と 答えられたが、心配があった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それは、受験当日の昼休み時間の出来事であった。
   お弁当を食べて、空き時間に、その事件が起こった。
 教室の暖房ストーブの排気煙突が
 教室上部の校舎の柱にうめこまれた排気室空間に繋がっていたが、
 その真下、屋上の煙突から出す排気室の部分
 教室の下部に スス取りの 鉄の四角のフタがあり、
       詰まって ススが溜まっていたのだろうか、
   海岸が近い 中学校校舎は 日本海の北風突風に、排気が逆流して
 突然 バタン と音がして、扉が開いて黒煙とススが
      教室内に 弾き出されたのだ。

受験番号の関係で 列の一番前、ススの出たところに一番近かった
  私は、びっくりして 一旦は逃げて
  恐る恐る 近ずいて、遠巻きにしていた他の受験生のうち、
  
  もう一人の男子と一緒に、
  ススの後始末をしようと、
  初めての教室で 掃除用具の場所も分からず、
                  ホウキも無く
  持っていた 問題集にはさんだ 白紙などを使って
     ススを集めて、
     二人で、開いた排気口掃除穴の口に
     押し込み始めた。
     なんども集めて 押し込んだ。二人の手のひらが真っ黒になった。

そのときに、後ろから
 大きな声がした。
 
    「お前達 何して んだあー」

大きな体のおっさんが 近寄って来て、私たち 二人の手を掴み
  問答無用という 怒った顔で
  職員室に  連れていったのです。  ただ 呆然!

    「なに ススを散らかして 遊んでいるんだ! バカモン。」

  小学生の受験生にとって 中学校のおっさんの
  受験会場を汚した 不届きな受験生と決めつけた態度は
とても 恐ろしくて

   「遊んで いたんではありません」と

   二人とも 小さな声で答えるのが精一杯だったのでした。

 満足に 私たちの話を 聞いてもくれないで、

    「よし もういい。 教室へ 戻れ!」

二人は トボトボと 教室に戻り、廊下で手を洗って
  次の受験に臨みました。

私の心配は、
  あのひとは、 自分たちのいうことを   ちゃんと分かってくれたのだろうか?
  受験結果に  影響はないのだろうか?
  弁明したけど、もっと大きな声で はっきり なんども
     主張すべきだったのではないだろうか?

結果は 不合格でした。

今でも そのときのことが 受験になると思い出されます。

それ以来、私は

  田舎者で 転校生で、仲間がいなくて 、
  ひとりぽっちで 声も小さい引っ込み思案な性格を がんばって
    やめたのです。

あのときのような 問答無用の教員にはならないと決め、
     子供達のいうことを聞いて、大人の横暴に 負けない子供に育てようと決めました。
 人生の生き方を変えた、いい教訓になった不合格事件でした。

不合格になって 付属中学に行かなくて 新潟市立寄居中学校に入ってからは
    私は 引っ込み思案は やめました。
        大きな声で はっきりいうことにしました。

生徒会の役員にも立候補して 当選して 仕事ができるように なりました。
    いい先生や いい友達にも恵まれました。
    中原先生、武藤先生、上村先生・・・、
    そして 養護教諭は伯母さんの加藤先生でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

中学三年生の時に、また 受験機会がありました。
    新潟県立新潟高校の公立高校受験の前に
     私立 明訓高校の 授業料全額免除特待生募集の試験でした。

    今度は 父親や母親に ガッカリさせないように
    自分で勉強しました。
    そのときに覚えた漢字に、 「成就」 、「衆生」とか 難しい漢字があるくらいに勉強しました。

今度は合格したのですが、辞退。 断ってから、
     新潟高校の試験にも合格して、新潟高校生になりました。

公立高校の合格発表のあと すぐに
 父親は  私を 伴って
  新潟高校の校長室へ出向きました。
  校長は 阿部藤作先生で、
  旧制巻中学に越後線を使って通学していた 私の父親の
  阿部先生にとって 新卒着任初の担任が、
  父親のクラスだったのでした。
  数十年ぶりの 担任訪問だったのでした。

  父親の うれしそうな話し方を見て、
  私は 新潟高校の校長室のソファーで、父親の隣で、
  「これで やっと 中学受験の不合格での 悲哀を 父親に与えたことが、少し 解消できた。」と
  思ったものでした。

私の中学受験 高校受験は こんなことでした。
   どんな教員を目指すかを 決定づけたのも 中学受験でした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今日 塾の待合室で まごむすめ達を待つ間、
   小学生の受験生を 多く見ていて
   昔のことを
   思い出して 
   これを iPadで 打ちました。

  外は 暑いね・・・・

今晩 車で 湯河原へ帰ります。



追記
  スス拾い事件の もう一人の男の子も 不合格でした。
  それは、後に、
  新潟市内中学校生徒会交流会で、他校の生徒会長になっていた彼と、
  宮浦中学校で 再開しました。
  お互い、中学生になって 言うべきことは 堂々 大きな声で言うということを
  実践するようになっていました。
  
  が、私と同じく この事件で、性格を変えたのかどうかは、
  その後 新潟高校で一緒になって、顔馴染みとなりましたが、
  じっくり 話したことが無いまま、
  先年 習志野で 亡くなりました。 




















スポンサーサイト
2017.08.09
コメント記入欄