おとといの夜、越後長岡市の花火を、BSTV中継で見ていました。

○この日、芭蕉と曾良は『おくの細道』の旅で、
山形県酒田市から日本海側の最北端の訪問地である象潟(きさがた)坩満寺(かんまんじ 秋田県にかほ市)を訪れて、船遊びを楽しんだ。8月2日のことでした。
今は小山の点在する水田になっている風景だが、それは地殻変動で地盤があがったためで、当時は、湖に小島が点在する松島と並ぶ風光明媚なところでありました。

○この暑い季節の水菓子は、
今では、ももやスイカやメロンだが、当時は、うり、スイカ、そして酒田・鶴岡地域なら
        「だだちゃ豆(枝豆)」であったろうか。新潟なら「黒埼茶豆」である。
メロンになる前のウリは、勿論「真桑(まくわ)うり」である。今の60代以上の日本人は、誰もがなつかしい
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     姿・味・名前だろうけど、最近はスーパー店頭にも、その姿が見えないのは残念ですね。

 江戸時代の様子はなかなか分からないのですが、
  国宝 久隅守景の『納涼図』には、ヒョウタンが描かれているが、
    もし 地面を描いたら、急度、マクワウリが描かれていたに違いないと思います。

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さて まだ、名古屋の城下町が成立しなかった昔、
  尾張第一の都市津島の天王祭の絵図が残っていますが、

そこ戦国時代の津島は「尾張の金銀はすべて津島を経由する」と言われるほどの、尾張最大の商業都市でした。
  勝幡城を拠点とする織田弾正忠家は津島の経済力を背景に勢力を伸張し、息子の信秀の頃から主家織田家を
  しのぐようになりました。そして、孫の織田信長は尾張国を統一し、全国制覇をめざせるようになりました。
 この夏の祭礼に 出店が出ていることが描かれていますが、お茶売り、餅売り、そしてウリ売り でした。

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津島天王祭の古記録『大祭筏場車記録』の弘治4年(1558)条には、
「かずさ殿(上総介信長)、橋の上に御座候て、御見物なされ候、女房達橋坊主のうらに
 桟敷を打ち、それに御座候…」
と記されています。
 信長も このまくわウリを、食べながら祭を見ていたかもしれません。
                 
奇しくも、津島天王社は織田家の産土神で 神紋は木瓜(もっこう)紋で、
    織田家も同じ、もっこう紋であったのですから。 
       織田木瓜

 ※また京都の八坂神社が木瓜のうち五瓜を神紋としているのをはじめとして、全国の祇園神社の多くが木瓜紋を神紋としている。
  キュウリは木瓜とも書き、輪切りにしたときの切り口が木瓜紋に似るという事から、京都や博多をはじめとして、祇園祭の期間中に
  キュウリを食べないことを慣習としている地域は、須佐之男命、祇園社、八坂神社に多い。これらの神社は、キュウリの上に降臨し
  たという伝説を持つ須佐之男命を祀っていることもキュウリを食べないことと関係しているのだろうか。

 
その信長が、天正10年(1582)、本能寺の変で死去すると、
  その年の津島天王祭は、飾り物を廃し、素車の車楽船を出し、大山車も取りやめるなどして、
   津島の庇護者でもあった信長・信忠親子に弔意を表したということです。

 

○さて、8月4日から 酒田へ戻って静養していた芭蕉は、
8月8日(旧暦7月23日)、酒田の富豪 近江屋三郎兵衛宅に招かれて、即興の句

   「初真桑 四にや断ン 輪に切ン」を 作っています。

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冷たく冷やした マクワウリが 包丁と 丸ごと2、3個出されて
さて どうやって、食べようかと 考えて
   縦に四つに切るか、 輪切りか   
   そのままの気持ちを
          即興の句として 挨拶句としたのだろうと思います。

きょう 私は 新潟市のデパートに 黒埼茶豆の配達を頼みました。
孫娘と 一緒に食べるのが 楽しみです。  弟に感謝します。


  芭蕉 曽良は 翌日 酒田を立って 鶴岡 温海 村上 新潟へ向かいました。



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2017.08.04
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