急に 図書館から連絡があって チラシ100枚作りました。
    この休み中に、講演のストーリーを作って、文章化(レジメに文章を起こして)のあと
    講師と連絡を取り合って完成と 講師の方や会長さんと決めていたら
    急に会場をお借りする図書館から 「小さなチラシ100ぐらい」という話があったらしく。ビックリ。

    昼に電話があって あわてて 他の仕事をおいて ストーリーづくりに取りかかる。
    聞く人のことを思うと、話は ダイナミックに作りたいし、分かりやすい展開にするため
    短時間の話し時間なら、なおのこと 正義か悪か、勝ちか負けか、いい人か悪い人かハッキリしておくと
    日本人は 理解しやすいということを実感しているので・・・

  以下のような話しを、まとめて、略図をも製作。電話をもらって2時間で完成。
    お昼も ゆっくり食べられない。
    続いて裏表100枚印刷。
    図書館へ持参。
    この連休は 実に忙しい。 自分のやりたいことが出来ない。    

  これに沿って 講師の方が 話してくれれば良いが・・・・
    申し訳ない。 そうしてもらうしかない。
    レジメを作って 週明けにご容赦してもらわなくては。
    会って話し合いをしないで準備を始めているのは 
    講演会や出陣祭は 私は 初めてだ。
  


表ちらしうらちらし


  裏面の創作図と文章は 私が こんな風に書きました。




  上杉謙信・織田信長・佐々成政・豊臣秀吉・前田利家と戦い続けた人々

立山地図

  今より837年前、鎌倉幕府創設に源頼朝を助けて力のあった、土肥郷・早川荘の領主の土肥実平・遠平が、安芸国沼田荘(広島県三原市)を新たに頼朝よりもらって転住したのち、孫の土肥維平は和田義盛の北条征伐に参加するものの敗れてこの領地を失い各地に散去した。維平の弟の維豊・倫平は、遠平の弟で養子に入った新開実重(深谷市)に担がれて北陸越中国に入り、地頭職を得た堀江郷・弓庄荘(富山県上市町・立山町)の経営にあたった。室町時代の中頃以降から600年前の戦国時代に入ると、領主の土肥政繁は弓庄城に依り、越後の上杉謙信と結んで、北上してきた織田信長の臣である佐々成政と戦い領地を守った。しかし謙信や信玄が死に、信長が本能寺で死ぬと、佐々成政が越中を手中にして土肥氏は窮地に陥った。天下統一をねらう豊臣秀吉は石田三成を派遣して、上杉景勝を頼った土肥政繁と連絡をとり、佐々成政を滅ぼしたが、越中も加賀と併せて前田利家に与えたため、今度は、土肥政繁は前田利家と対立することになった。後ろ盾の上杉景勝は、秀吉の命令により会津のち米沢へ配置換えになってしまった。万事休す。これまで大勢力激突の中で、立山のふもとの領国経営を続けて来た土肥政繁は、敵の優劣や時節の流れに合従連衡を図るも、やむなく前田家に家臣取り立てを条件として弓庄城を明け渡し、越後に去り家は断絶した。子息土肥正平は加賀藩士六百五十石、家老の有澤家は五百石に召し抱えとなる者や、一緒に戦った新開実重の子孫で旧領地上市・立山で帰農して土肥氏を復姓した家々と共に旧領地で地侍や村役人を務めて現代に至っている。何れも先祖の土肥実平や遠平を敬う志が強く、菩提寺の城願寺に昭和・平成になっても扁額の奉納や土肥祭供養に参列される子孫があり、湯河原町冨田町長も現地訪問したことがある縁の深い土地柄である。今回の講師は、土肥遠平の弟の新開実重の子孫で、土肥氏を担いで富山に入り、戦国の争乱を戦い抜き、江戸時代も加賀藩領立山で生き抜いた土肥氏25代目にあたる。
     
                       郷土の歴史講演会担当 理事 加藤雅喜





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2017.05.04
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