忘れていた 恋ダンスの 星野 源さん 
  彼の衣装ファッションで気づくことがあるかという 私の質問の
  回答が遅れていました。下のファッションですね。

  代官山のTUTAYAでは、 昔 その代官町・猿楽町にあった

   地元の名会社 ①「ヨット鉛筆」の大々的な復活(?)と 
   ②「ヘンミ 計算尺」の展示販売。 そして ③ もう一つは?
   星野さんのファッションに関係する③も あわせて大々的な復活を(?)させては?                                                        
      というのが 私の提案でしたが・・・ それはなんでしょうか?

    4988002717965.jpg
   それは コレです。
    私も 若い頃に 使っていた ③ サスペンダーです。
    とにかく 格好良くなりましたよね。
  
 156-street-beat-1.jpg 53385f50e867beaa5a13037e99d85b43.jpg imagesIK1WOES4.jpg  
    ph_01.jpg


 
「松直商店」 日本最初の本格的ズボン吊り(釣り)会社である

 
  松岡直次郎
   13歳で 新潟県上越市から、 浅草で空樽屋を営んでいた祖父を頼りにして上京。車の後押しを手伝う。
   手伝いを求めて、唐物屋へ小僧奉公に入ったが、店が破産してしまうも、二十円の高額金を手にする。
   これを資本として洋品雑貨の行商をする。
   そのモットーは、
    「健康と精勤が何よりの資本である。誠実と信用は元手である」
    「買った物は現金で払う」。  次第に 問屋から誠実さを認められることとなる。
    
    行商をしている中に、唐物のガーターやズボン釣り(サスペンダー)について色々な批評を耳にした。
    ①色が派手すぎる、②図柄が大まかだ、③デザインが悪い、④ズボン釣りの股の部分が破れやすい。
     これらは全て輸入品に頼っており、日本人向きのものはなかった。
    
    直治郎は、「日本人向きのものを考案し、製造すればきっと喜ばれるに違いない」。
     今こそ、日本人向けの製造をするべきだと思った。
   そこで 
    1906年(明治39)正月、浅草瓦町に小さな家を借り、今まで地道に貯めたお金でミシンを購入した。
    2、3人の男女工に、ガーターやズボン釣りの製造の手伝いをしてもらいつつ、自らも製造に加わり、
    材料の仕入れから製品の売り込みの全てを行った。
     商標は「谷渡り人物印」とした。 両端を吊ったその上を人が綱渡りしても大丈夫だとの意味であるという。 
           img_01_20170420205949f5c.jpg
   国内初のサスペンダーブランドとしてガーター(靴下止め)、裄吊り(アームクリップ)、腕輪(アームバンド)などにも
   使用され人気を博した。
  1914年(大正6年) 日本橋馬喰町に「松直商店」を設立。
   しかし、当時は世界大戦が勃発し、舶来品の途絶に、国産品の海外品に代わるものをという一般情勢を考え、
   今までの工場と設備だけでは、とても注文に応じきれないということで、ズボン釣りその他の部分品
   一切を自家供給するべく 渋谷(それが 代官町に近かったことになる)に工場を建てた。
   ところが、この新事業は欠損が続き、3年、4年経って好転しなかった。
   普通であれば投げ出すところを、諦めずにねばった。 5年目にしてついに好転したという。
   
  1920年(大正9年)ズボン吊り事業が好転した頃、友人が経営をしていた東洋文具鉛筆製作所が、
   不振に陥り、応援していた直治郎が 援助した。場所が近所ということが 理由の一つのようである。

   発展しだした ズボン釣りの会社を弟子に任せ、自分自身は この鉛筆工場の再生に乗り出す。
   全く方面違いの事業であったが、負けじ魂と商才とは、やがて、この赤字続きの工場を改善させていった。
    製産工程に、販売にも、思い切った進歩的な方策を施した。昔の自分の仕事のように、自らが 
   文房具店を訪ねて廻り、評価の低さを改善すればよいと、奮闘して、
   新製品 「ヨット鉛筆」の開発に成功した。
 
   ヨット鉛筆は人気が出て、注文が殺到。目黒の工場(代官山の場所を指すのか不明)
   だけでは手狭となり、'1932(昭和7)年川口市
   (そうじゃなくて 川越街道 朝霞の方だと思ったが・・・)に 大工場を建てるまでに成長した。
   ここでもズボン釣りと 同じ精神が流れており、自社工場一貫生産、芯の製造(ゾル製・特許芯)
   から素材の加工処理、鉛筆への工程、乃ち 材料の製造から完成品まで自給自足が行われた。
   
■二つの会社は 共に株式上場を果たし、ズボン釣りの松直商店株式会社
   ヨット鉛筆株式会社の社長を兼務した。
   ズボン釣りその他、洋品雑貨に於いては、品質の精良と研鑽を以て知られ、年商百数十万円を稼ぎ、内地だけでなく
      海外にまで及び、名実ともに東洋一を誇った。
   ヨット鉛筆に於いては日本五大鉛筆工場の一つとしてシェアを拡大。
      海外に輸出するまでとなり、従業員数は500名を越えていた。    
   ▲ 回顧録では・・・
   「学問も無かった。財もなかった。背景もなかった私であるが、今日あるのは私に異常な根気のよさが有ったからだ。」
    享年57歳。  墓地 多磨霊園 16区 1種 3側   同名のに代目の息子の建立である。





スポンサーサイト
2017.04.20
コメント記入欄