4月9日の このブログの質問ですが・・・
渋谷区猿楽町の
   この写真の 長屋棟では、何が作られていたのか? でしたね。

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   のちに こんな風に やや大きな建物で、工場・事務所が出来ました。

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回り道ですが、上の古い写真で、この工場のもっと左の木立奥にあった工場では、
    下の写真の コレが作られていました。

     ヘンミ計算尺

   孟宗竹で作った木材の上に 白のプラスチックを貼り メモリを刻み、中央部分がスライドする。
   さらに 左右にスライドする ガラスの中央に赤い細い線が1本ひかれていて、数値を読み取る。
   概算が計算できる 主に かけ算 割り算や、定数を掛ける、÷などという計算を、概数をスライドで
   読み取るという、自動の回転する計算機が発明され、電卓になり、パソコンになった今では、
   もう、学校では教えなくなってしまった。 「計算尺けいさんじゃく」である。

   でも、1951年(昭和26年)の新しい学習指導要領で、中学2年生に、義務づけられたのだからすごい。
   だから、私も 新潟市立寄居中学校で、中原重男先生に習ったのだ。父親にも習ったのだ。買って貰った。
   全国大会も頻繁に開かれた。商業高校生徒などには、ソロバン大会と並んで注目の技能検定であった・・・・

   つい最近まで 我が家には 船橋の義父の計算尺が残っていた。
   その会社の この竹の計算尺は、世界No1で、90%以上の普及率であった。
   電子計算機のない時代には、戦艦大和の造船設計計算でも使われたほどであった。

 この猿楽町時代の会社名は 「逸見次郎商店」、のち 1924年火事になり、
    のち、昭和16年に 今の和光市白子に工場を移した。(現在跡地は、マンションになっている)
    現在の会社名は「ヘンミ計算尺」  そう、お茶の水 ニコライ堂前の 旧日立ビルの裏にある。
   この「計算尺」も 今の代官山の蔦屋で 展示して売って欲しいものであるが・・・・
    質問の会社に話しを移すが それこそ 
    蔦屋TSUTAYAで 売ってほしいものなのです。 









 それでは その 「逸見次郎商店」の 手前の 質問の会社では、何を作っていただろうか?

 答えは コレです。
   そう、「ヨット鉛筆」です。 

   ヨット鉛筆

   いまでは、「三菱」・「トンボ」の二大会社が占有している鉛筆業界ですが、
   それ以外にも 多くの会社がありました。 比較的長く製造していたのが「コーリン」でしたが、
   記憶がありますか?  ▲のマークでしたね。

   それらの会社より 歴史があり、昭和8年に「ヨット鉛筆株式会社」となり、
   戦後復興時の 昭和20~30年代には、海外へ輸出する会社となりました。大もうけで
   会社の慰安旅行は 熱海まで貸し切りバスで乗り付けるという好景気でした。
   そのバスの列が 今の「代官山駅前」交差点から 「猿楽町小学校裏」交差点付近まで、
     社員と家族の乗車を待つ写真があります。

    写真猿楽町1
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  すごい! 12台ですね・・・・



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   この 「ヨット鉛筆」の会社と「ヘンミ計算尺」の会社が、並んで営業を始めたのですから、
   この戦前の猿楽町9番地は 文具のメッカだったのですね。
   だから TSUTAYAさんに この二つ鉛筆と計算尺を並べて展示 販売をして欲しいですね。

 すでに 計算尺は 電卓やパソコンに代わられて 昔風の上の孟宗竹の計算尺は作っていないようです。  
 そして、ヨット鉛筆は 昭和42年10月に倒産したというのです。 もう作っていません。
  だから インターネットで 高く売られています。昭和世代が求めています。

  市川市本八幡には、昔 昭和44年頃から、私が住んでいたアパートに近いところで 
  5年前に、ヨット鉛筆を集めて、売ってみたいという女性が店を出して
  SNSのみの噂で 夜だけ開く文具店「ぷんぷく文具店」として 注目を集めています。 
   
◆次回は コレについて 書いてみましょう。
  私の話は広がりますよ。 この代官山・猿楽町の場所は、 
  
  ①ここで 江戸時代幕末から明治の初めに、畑作をやり牧場をつくっていた武士達がいたこと。
    その、牧畜技術を学んだ武士が、明治になり 成田の御料牧場でも技術を習得。
  ②その跡地が、毎年、桜と発着する飛行機が同時に自分たちも入れて写真が撮れる「さくら台」。
  ③その技術者の一人が、故郷、下関市防府へ帰り、牧畜を瀬戸内地方にも広めて、松下村塾の
    塾生に、資金を提供し保護した。
  ④自分の自宅用地として購入した場所が、800年前に土肥実平が
    壇ノ浦の情報を得ようと作った出城「土肥山」土肥城」であったことを知り、石碑を建てた。
  ⑤それを、すすめてくれたのが、湯河原温泉で静養した 乃木希典大将であったこと。
  ⑥その後、畑地から、住宅地へ代わっていく中で、猿楽町付近は 官人政界人らの屋敷が出来た。
  ⑦その一人が 西郷従道で、その一人がのちに外交官となって家を新築。玄関への石段を当時流行の
    大理石のような 湯河原の白丁場石を使って洋館を作った。(現在 横浜へ移され「外交官の家」)
  ⑧戦後 昭和30年代後半から、渋谷に近い そこが文化の発祥地になることで、若いヒッピー達が
     独自の文化を、その外交官の家や周辺に集まり住んで、「平凡」「平凡パンチ」などの発生となった・・・・ 
   
  湯河原や土肥に関わりのある場所が TSUTAYAのある 代官山・猿楽町・南平台・・・・・なのですね。

まあ、次回・・・



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2017.04.10
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