1月に 2回にわたって
  まなづる小学校6年生の郷土史学習のお手伝いをしましたが、
  『湯河原新聞』に  その記事を掲載していただきました。 ありがとうございました。

  ところが 2月3日の 掲載でしたが 私は 知らずに 
  きょう、新聞社へ伺って 一枚もらってきました。 

湯河原新聞タイトル

しとどの窟29.2.3.湯河原新聞
 
 ※ 新聞紙面の上に マウスの印を置いて クリックすると拡大して読めるはずですが 
    念のために 下記に 打ち直しておきます。 


まなづる小学校6年生が、郷土学習で 二つのしとどの窟現場を見学

 まなづる小学校(倉沢良一校長)の6年生22人が、1月27日(金)、「頼朝・実平と真鶴・湯河原」をテーマにした総合学習で、湯河原町にある土肥実平の史跡しとどの窟を見学した。
 前週20日には学校で、土肥会理事の加藤雅喜さんを招いて源氏の旗挙げした頼朝と土肥実平らが石橋山で敗れて山中に潜み、岩海岸から舟出した苦労の話を聞いてから地元真鶴の「鵐ノ窟」を見学していた。
 翌週は、湯河原の「しとどの窟」に、真鶴町教育委員会手配の町のバスで現場見学に出かけたもので、担任の水野琢磨、市川みやび先生の引率で、折からの強風の中を、みんな帽子を押さえながら慎重に坂道を四百メートル下って「しとどの窟」へ到着。したたる水が滝壺では氷も張っている寒い洞窟跡に立って、案内の加藤さんが示す拡大写真を見ながら話を聞いた。
 ①頼朝・実平らが隠れた様子を描いた江戸時代の浮世絵は、どれも大杉の穴でした。
 ②ウソを言って頼朝らを救った平家方の梶原景時の子孫の弁護士さんも「我が家では、土肥の大杉穴で助けたと伝わっています」と言っています。
 ③北条氏の殿様や水戸光圀や下田奉行なども、真鶴の「鵐ノ窟」に頼朝たちが潜んだと書いています。
 ④幕末に日本地図を描くために湯河原・真鶴を測量した伊能忠敬測量隊も、真鶴の洞窟を頼朝が隠れた場所だと書いています。
 要するに、湯河原の人は「土肥の大杉」、真鶴の人は「鵐ノ窟」と思ってきたのですね。だから、昔から修験道の僧たちが修行していた、弘法大師空海がこもったと伝わるこの湯河原の洞窟には誰も触れていませんでしたが、前田青邨がイタリアで教会の宗教画に感銘を受けた「洞窟の頼朝」を昭和4年に発表して話題となってから、一気に湯河原でも岩穴探しが始まりました。昭和10年冬に、ここへ案内された県史蹟調査委員が「この洞窟に隠れたに違いない」と言ったので真鶴の人は大反対でしたが、昭和十七年にその委員の石碑が建てられ、昭和30年には「土肥椙山巌窟」と県指定史跡になりました・・・・ 
 などとわかりやすく解説すると、子供たちはメモしながら熱心な眼差しで聞いていた。

 加藤さんは「2年前にも案内しましたが、一番困るのは、『どっちの窟が正しいのですか』という質問です。
一昨年、公開されたばかりの「伊能忠敬測量隊の日記」には、真鶴の鵐ノ窟が書かれていたのは、真鶴の子供たちにとっても嬉しかったようです。歴史は、現場に立って色々な資料を比べることが大事だとわかってもらえたかな?」と示唆を与えた。


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2017.02.09
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