土曜・日曜に 京都でも 大雪が降る前に、晴天の中で見て来た
   修学院離宮・仙洞御所・桂離宮 でしたが、
   その庭の造営に関わる 後水尾天皇、光格天皇、小田原藩主大久保忠真の調査です。
   中でも、造営の美的造園のセンスを発揮したのが、光格天皇であり上皇です。
   
   ことし最初の、私の「マイブーム」は、光格天皇です。

          
光格天皇肖像
    肖像画では 今の天皇さまに 顔が似ているような気がします・・・それは後述


土曜日の 雪の中で行われたセンター試験
 その 「日本史B」の問題 第4問は 文化史で、
      史料Aや文章Bを読んでの設問です。

  ※下の新聞発表の問題写真に マウスを置いてクリックすると拡大して読めます
      センター試験日本史上
    センター試験日本史下

拡大  上の問題文章を拡大して見ますと、光格天皇のことをこんな風に評価しています・・・・

  光格天皇評価文章センター
       22番の解答で正しい組み合わせは ① が正解です
       ・「紫衣事件」は 紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が、朝廷から賜った。朝廷にとっては
          返礼が収入源の一つでもあった。これに対し、江戸幕府は、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。
          にもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを
          知った将軍・徳川家光は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして、紫衣着
          用の勅許を無効にすることにし、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
          この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。
       ・「尊号一件」は、一番下の「閑院宮系図」のように、天皇になったことのない父・典仁親王に、一般的には天皇になった
          ことのある場合におくられる「太上天皇」の号をおくろうとした光格天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざ
          るを得なかったことをさす。 

   なお、問題文中にある「京都御所を困窮した庶民が取り囲みグルグル廻り窮状を訴えることをした」意味の文章は「御所千度参り」事件を指すが、高校教科書にも載せられていない事件で、私も教えたことが無い。今回、仙洞御所を訪問することになり、京都所司代、大久保忠真、光格天皇、仙洞御所、一升石などを調べていて、詳しく知ったほどである。幕末の討幕運動の一環としての意味が語られている「おかげ参り」「ええじゃ無いか」は、有名だが、この「御所千度参り」も、重視して良いのではないかと思う。庭園の美に寄与した話しとか、美談のように語られる、一升石を贈った京都所司代大久保忠真と、光格天皇・上皇の関係も再調査すべきなのではないかと思う。展の住む御所の周囲に大量の困窮民が集まるというのは、自然発生的で無いことは、「お札が降った」と伊勢神宮におかげ参りに行く動機を、御師を動かすだけでなく、お札を撒く画策をした下級貴族の岩倉具視の名があがっているが、この「御所千度参り」は、天明7年6月7日の数人から始まり、6月10日には3万人、18日には7万人という事態になったのだから、誰かが企てたのだと再研究が必要である。
 この事件の結果はどうなったか? 

一書に、こう説明される
 ◆御所千度参りは、天明7年6月7日頃から始まった。初めは数人だったが、その数は段々増えて行き、6月10日には3万人に達し、6月18日頃には7万人に達したという。御所千度参りに集まった人々は、京都やその周辺のみならず、河内や近江、大坂などから来た者もいたという。京都は人であふれ、後桜町上皇からは3万個のリンゴ(日本で古くから栽培されている、和りんご)が配られた。他にも、有栖川宮や一条家などでは茶が、九条家や鷹司家からは握り飯が配られた。この事態を憂慮した光格天皇が京都所司代を通じて江戸幕府に飢饉に苦しむ民衆救済を要求する。これは、禁中並公家諸法度に対する明白な違反行為であった。そのため、天皇の叔父でもある関白鷹司輔平も厳罰を覚悟して同様の申し入れを行った。これに対して幕府は米1,500俵を京都市民への放出を決定、法度違反に関しては事態の深刻さから天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。
  この背景には、天明の大飢饉や、同年4月に徳川家斉が将軍に就任した事から徳政を求める意味もあったと思われる。また、朝廷の行動が実際の救済行動に結びついたことで、尊王論の興隆の一因となった。と、 

           



光格天皇(こうかくてんのう)明和8年(1771) - 天保11年(1840)

 
 ◆江戸時代の第119代天皇(在位:1780年 - 1817年 幼名を祐宮(さちのみや)という。諱は初め師仁(もろひと)としたが、死人(しにん)に音が通じるのを忌み、践祚と同時に兼仁(ともひと)に改めた。
  傍系の閑院宮家から即位したためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。実父閑院宮典仁親王と同じく歌道の達人であった。

    ※下の新聞発表の問題写真に マウスを置いてクリックすると拡大して読めます
    
光格天皇系図

 ◆閑院宮典仁親王(慶光天皇)の第六皇子。母は大江磐代(鳥取藩倉吉出身の医師岩室宗賢の娘)。曽祖父に東山天皇(第113代)。前帝・後桃園天皇(第118代)の父の再従兄弟である。践祚前の安永8年11月8日(1779年12月15日)に危篤の後桃園天皇の養子となり、儲君に治定される(実際には天皇は前月中既に崩御しており、空位を避けるために公表されていなかった)。桃園天皇と後桜町天皇はまたいとこである。

 ◆江戸幕府将軍徳川家治の御台所倫子女王は、実の叔母(実父の妹)に当たる。つまり、光格天皇は将軍家治の義理の甥でもある。

 ◆天明の大飢饉の際には幕府に領民救済を申し入れて、「ゴローニン事件」の際には交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に務める。博学多才で 学問に熱心であり、作詩や音楽をも嗜んだ。また400年近く途絶えていた石清水八幡宮や賀茂神社の臨時祭の復活や朝廷の儀式の復旧に努めた。

 ◆朝幕間の特筆すべき事件として、尊号一件が挙げられる。天皇になったことのない父・典仁親王に、一般的には天皇になったことのある場合におくられる太上天皇号をおくろうとした天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざるを得なかったが、事件の影響は尾を引き、やがて尊王思想を助長する結果となった。

 ◆文化14年3月22日(1817年5月7日)、
仁孝天皇に譲位。翌々日の3月24日(5月9日)に太上天皇となる
   つまり、今話題となっている天皇退位問題では、2017年1月現在で 最後の上皇
であった。
   この時の住まいが 「仙洞御所」で、一升石に関わってくる・・・

仙洞御所絵葉書
   天保11年11月18日(1840年12月11日)、崩御。宝算69歳。 
   京都泉涌寺 後月輪陵。(※昨年 お参りに行って来た)

 ◆系図のように 仁光天皇・孝明天皇・明治天皇・大正天皇・昭和天皇・今上天皇とつづく現在の皇統は、光格天皇から続いていることがわかる。また、幕末に、宮廷より幕府へ嫁いだ皇女和宮も光格天皇の孫になる。

  ※下の新聞発表の問題写真に マウスを置いてクリックすると拡大して読めます

閑院宮家系図



 

 以上、今年のセンター試験 「日本史B」の問題は、上記のように かなり専門的である。 

 その光格天皇の動きを 受けて、
 つぎの問題では、
  『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵の動きを 史料で読ませて 幕末への動きを読み取らせる問題だった。

長谷川平蔵出題
 
これでは・・・ 
 昨年末に 中村吉右衛門が主演してきた『鬼平犯科帳』のTVドラマが終了したが、
 20161203232542.jpg   

その時期にあわせて
 これをヒントにして問題を作った 先生
   (例えば 東京大学の藤田覚教授だろうか!?)に、 


  「新しい分野に切り込んだ問題づくり」に 敬意を表する気持ちになった。










スポンサーサイト
2017.01.16
コメント記入欄