きのうから 
今日の午後にかけて 
   ・ 和歌山大学紀州経済史文化史研究所
   ・ 和歌山市立博物館
   ・ 海南市教育委員会
  三箇所に 礼状を書きました。


皆さん 親切に、私の質問に丁寧に答えてくれて、資料を送ってくれたり 電話をくれたり・・・ 
  おかげで・・・・あたらしいことが わかったのです。

  ①昭和10年頃に 福浦漁港の完成を記念して出された『福浦八景』という
   写真絵葉書のことを、このところ、私は 追ってきたが、
   その会社は もうすでに無い。残念です。
    解ったことでは、
   会社は 第二次世界大戦の爆撃で 社長をはじめ社屋もろとも焼失したという話を聞いた。
   場所を探査したら、今は、和歌山城前の交差点、県庁や文化ホールのある一画。 
   そこは 今は 五月人形などの人形店がかりている古いビルだった。残念。 


  ②その和歌山の絵葉書会社に、神奈川県の福浦漁港が、ナゼ 絵葉書を発注したのか?
   ヒントは 江戸時代の初中頃に、福浦で和歌山からやって来た漁師が、真鶴半島に
   押し寄せるボラの大群をみて、一網打尽にする漁の在り方を実行して、
   漁業の一大革命を起こしたのです。
   小田原は勿論、江戸にも送られて利益をあげた。幕末まで続いた漁業経営は、
   故郷にもお金を送り、小田原藩、紀州藩にも税を納めた。故郷から漁師を雇い、
   また地元漁師を雇った。そこは福浦港につづく尻掛浦(しっかけうら)であった。
   和歌山県大崎村(海南市)の出身の漁師、田廣与次兵衛は 代々10代を数えた。

 
  ③その与次兵衛の、八代目与次兵衛のもとに、福浦港からやって来た人々がありました。
   文化12年(1816)12月20日の朝です。
   早朝、湯河原の吉浜の名主、向笠彦右衛門宅を出発した、伊能忠敬測量隊の一行です。
   測量しながら、やって来て、ここで休息。
   急度、先祖は和歌山有田の隣、大崎の出身であり、出稼ぎであることなど話したでしょう。


  
 この①②という 和歌山つながりが、漁法、絵葉書の関係を示していると思う。
 私は この正月、この文章を まとめています。






 



 

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2016.12.31
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