松下村塾の吉田松陰と、日露戦争の乃木希典大将は、
親類であったことは、 何度もお話したことがあります。

だから、
小田原中学の吉田初代校長が 吉田松蔭の甥であった時に、
湯河原で静養中の乃木大将に、
開校式典招待状を出したのだろうし、
そこに行かずに、 203高地での勝利を伝える、
  そして 
  同時に
    戦争の無残さ も書いた
     有名な漢詩を 初めてしるした 
   
  その ハガキを
次の世界を受け持つ生徒たちのいる 小田原中学へ出したのだろう。

其の日露戦争に、子供二人が戦死して
  203高地では 多くの兵を殺すだけだった 戦争能力、判断力の無かった将軍というった
  評価をあびた彼は、

  台湾の総督府の長官に任命されて 台湾に渡った。
    日露戦争の英雄という印象だけで無く
    乃木大将のその施政は、
      勿論 現役の大将という武官としての強権的な面も否定できないが
      1年半ほどの短い期間であったが
      多くの産業を興し、農業を振興させてくれたという印象を残すことになった。
    その印象は、今も残っているようで、
    乃木大将を 悪く言う人はいない。

  その総督府の建物が残っているというので 見に出かけた。

1280px-Presidential_Building,_Taiwan_(0750)

     私は、彼が、あえて 台湾への赴任を受け入れたのは・・・・、
          日露戦争との距離を置きたいという思いも否定できないが、

     ( ここまでは 何度も お話ししたが、 以下 またの機会に・・・・ )

           私は 別にもう一つ理由があったと思っている。
  
とにかく のちに、
    乃木大将は 日本へ戻り、学習院の校長になり、明治天皇が亡くなった折に、
    妻と一緒に
    殉死したことは 有名である。 
 
 




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2016.12.17
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