今週のテレビで ふんふんと言いながらみて 感心したのは、
  明日の土曜日に再放送される この番組である。

  朝日新聞の記者になって、日露戦争 203高地の激戦あとを 終戦10年余で訪問している。
  英国留学の部屋から始まり、日露激戦地の風景、満州の様子、
  今も残る 横浜正金銀行の優雅な建物も紹介された。彼の思想は以下に形成されたのかを追う。


  そういう内容であった。 
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「漱石100年・アジアへの旅~姜尚中 中国・韓国をゆく~」

   2016年12月10日(土)  18時30分~19時30分  

  夏目漱石没後100年、政治学者の姜尚中さんが漱石の足跡を追って旅に出た。留学先のロンドン。
  日露戦争後の旅順、ハルビン、韓国への旅。文明批評家・漱石の実像に迫る。

番組内容
  夏目漱石没後100年。政治学者の姜尚中さんが漱石の足跡を追って、この夏旅に出た。最初は留学先のロンドン。西洋近代の光と影を体験し、文学を志した漱石の姿が浮かび上がる。日露戦争に勝利した後、漱石は旧満州・中国東北部と朝鮮半島へ旅立った。新発見の資料をもとに、姜さんは大連、旅順、ハルビン、そして韓国を訪ねる。魯迅をはじめ東アジアの近代文学への影響も見えてくる。文明批評家・夏目漱石の実像に迫る思索紀行。

             出演 姜尚中,    語り 薬師丸ひろ子


そして 今朝の『読売新聞』 編集手帳

    読売新聞  
                   読売新聞編集手帳2016.12.9.
 

   この、漱石の亡くなる年の早春、 大正5年1月27日から 2月16日までの約20日間
   最後の新聞連載の取材と、病気治療の宿泊が、湯河原温泉の「天野屋」旅館であったことは知られている。

昭和35年以前であるが、私の義父も この天野屋の橋の前で記念写真を撮っている。

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当時の「天野屋」前の、朱塗りの橋。私の妻の父は、最前列最前列に写っている。男前である。


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      義父の泊まったであろう日の 天野屋のタグも 保存されていた。
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     その後 廃業されて 今は 
      リゾートトラスト社の大きな宿泊施設が工事中である。「湯河原離宮」とでも命名されるのだろうか



●本題にもどって、漱石の死は、こんなであったらしい。
    「晴耕雨読」さんのブログhttp://blog.goo.ne.jp/miki701_1941/e/4f40e8b85d64f8523354603a63933f99には
     解りやすく書かれている。

  夏目漱石が帰らぬ人となったのは、大正5年(1916)12月9日のことである。つい、20日ほど前、11月21日には、朝日新聞に連載中の『明暗』188回を書き終え、胃の痛みがあったものの辰野隆の結婚式に出席した。その無理が祟ったのか、その翌日から病の床に着き、ついに『明暗』の原稿を書くことができないような病状を呈した。病状が悪化していくなか、主治医の真鍋嘉一郎が連日漱石宅へ往診した。

症状が好転しないまま11月28日を迎える。夜半12時近くなって、漱石は突然起き上がり、妻の鏡子を呼んだ。「頭がどうかしている、水をかけてくれ」と言う。驚く鏡子に「うん」と言ったまま、意識を無くした。看護婦を呼び、夢中で薬缶の水を頭にかけた。やっと息を吹き返した漱石は身ぶるいしながら、「あヽ、いい気持ちだ。ほんとにいヽ気持ちだ」と言った。

12月2日には小康を得た。気分がよく、食欲も出た。午後3時になって便意を催し、便器を使った。だがここで力んだために、再び内臓出血をを起こし、またしても意識不明となる。医師の必死の加療で意識を取り戻した。しかし、胃壁の出血があるため、食事を控える。そのため体力が日に日に衰弱していく。12月8日は朝から脈拍が速くなっている。重湯、牛乳などをほんの少量とるが、体力の衰弱は進む一方である。言葉を発することも少なく、昏睡を続ける。

12月9日、この日は土曜日であった。学校へ通っている子どもたちを通学させるべきか迷った鏡子は医師に聞く。「今日は半日だからかまわないでしょう。」午前中には、危篤の知らせを受けて、近親者、友人、知己、門下生ら30人あまりが、漱石の病室に集まっていた。正午を過ぎると、小学4年生になっていたアイが帰ってきて、ただならぬ病室の様子に泣き出してしまった。妻の鏡子が「泣くんじゃない」と叱ると、いままで昏睡していた漱石が目を開き、「泣いてもいいよ」と言った。これが、漱石が発した最後の言葉であった。鏡子は純一と伸六を迎えに行き、二人が枕元に坐ると、漱石は再びパッと目を開いてにこっと笑った。

午後6時30分、引きつるような荒い息のあと、突然息を引き取った。主治医の真鍋嘉一郎は「お気の毒でございます」と言って、静かに頭を下げた。



このように、亡くなった漱石だが、
  (今朝のTVで、夏目三久アナは、夏目という苗字は、意外に少なく、国内で200人くらいだと言っていた。)
  半年前は、湯河原温泉「天野屋」に滞在していたのだ。

●正確に日時を追うと、
 (1)大正4年11月9日~11月16日(一週間) リュウマチの痛さを湯治治療しに来て滞在。
    (1915)       
          この間、大正5年1月1日からの 朝日新聞連載の『點頭録』の原稿執筆をしたようだ。

 (2)大正5年1月27日~2月16日(三週間) リュウマチの痛さを湯治治療しに来て滞在。
    (1916)           
          この間、大正5年5月26日から12月14日まで 朝日新聞に188回分連載の『明暗』原稿執筆をする。
          また、この間に、「真鶴行き」も 『漱石全集』第20巻(506~517ページに所収)書く。  

  ⇒次号へつづく

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2016.12.09
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