先週 11月16日に、
 平成28年度かながわ観光ボランティア協議会の湯河原町観光会館での合同研修会で、
 土肥会理事として
 わたくし加藤雅喜が「湯河原の豪族 土肥次郎実平」という講演をさせていただき、
 また 保存会の皆様による「焼亡の舞」を 披露させていただきました。

そのことで、参加者の方から後日質問をいただきましたので、遅くなりましたがお答えします。

   平成28年11月22日    ブログ 「酒場で歴史を語る会」で検索  加藤雅喜
                     メール as5j5s@bma.biglobe.ne.jp 

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遠路 湯河原へお出で頂きありがとうございました。遅ればせながらご質問にお答えします。
 この質問 回答は 参加の皆さん共通のこともあろうかと思い、下の私のブログもアップしておきます。
 横浜の、三つの塔、水道遺跡、山手洋館、中華街、大桟橋、レンガ倉庫、外人墓地などなど 何度か参加させて頂きお世話になっております。
 湯河原の白丁場石の使われている、県立博物館や外交官の家の玄関敷石など まだまだ研究したいことが残っています。

それでは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・、
 講演に関係して ご質問に回答させていただきます。

質問 講演 「土肥実平の行き方について」
 1 どうして平家全盛時に、実平は源頼朝旗挙げに協力したのですか?
 2 この土肥郷や早川庄に住んでいた人は、大変だったのでは?


回答
1 どうして平家全盛時に、実平は源頼朝旗挙げに協力したのですか?
  
 政治上の駆け引き以外に、加藤はこんな風に考えています。
 ①土肥氏も平氏の流れをくむ平氏です。ですから、反逆など当然企てないと誰もが思ったはずです。領地の土肥郷は水田畑も少ない海岸地の弱小領主でした。(やや平地の広い「早川庄」は、平家を撃破して後に頼朝よりもらった所です。)領地からの収入では貧しい土地柄でした。ご承知のように、この時代、九州方面から次第に天候が日照りと大台風などで飢饉状態に移っていった時代で、京都でも鴨川に飢餓で亡くなった庶民の死体が貯まって、大水で家と死体が一度に流されるという洪水などで鴨長明が『方丈記』で書いています。その天候不順が東北の寒冷とともに関東へも広がってきて、相模国でも米が思うように採れませんでした。         が、小冊子ー6ー中段の地図を見てください。  
相模の武将達の間でも格差がありました。山地の多い大磯から中井町、伊勢原にかけての本家中村や分家土屋、岡崎、土肥郷の土肥たちと、三浦半島の三浦、和田たち豪族は、酒匂川河川敷の平野を支配する波多野氏と相模川、引地川、境川の河川敷平野を支配する大庭氏とは、立地条件の差がより収益格差の拡大となりました。山地の支配者(貧乏)と平野の支配者(裕福)の格差が、1144年からの大庭の御厨侵犯強奪が繰り返されたのも、大庭氏の管轄する伊勢神宮への納入米倉庫を、貧しい山地の将兵が襲いました。中村一族や三浦一族です。指導者は先の東北地方の反乱「後三年の役」で、相模、武蔵国の武将と共に戦った若い源 義朝(頼朝の父)です。そこには、中村宗平に連れられた次男坊の暴れ者、実平がいました。都で全盛の平清盛に対して、東国の命がけで戦った部下達の窮状を見かねて、平家の信頼を得て相模を治めていた大庭氏・波多野氏の管理倉庫を襲いました。後に京都でその窮状を訴えるが、清盛も自分の勢力下である西日本の凶作をあげて救済に限度があると対策を取らなくて、激突。この平治の乱で死んだ義朝の子、頼朝が山一つ越えた伊豆に流されてきた時、旗挙げ以前からも、自分が若いときに一緒に戦い、貧乏武将の面倒を見てくれた頼朝の父親への恩を忘れていなかったのです。その気持ちは、三浦氏和田氏も同じだからこそ、石橋山合戦には間に合わなかったけど、土肥氏と一緒に旗挙げに協力しようとした理由だと思います。(貧乏武将の間での婚姻、中村の女と三浦の男の連携それが岡崎義実です。)
      以上-6-で述べているところです。
 ②実は、真鶴にあったと云う土肥郷新井(=荒井)城の武将新井実継は、源義朝に従って「後三年の役」に出兵して戦死。残された若い男子を、自分が後見するとして京へ連れて帰り、成長を見守り、結婚もさせる。生まれた女の子も大きくなり、故郷へ帰って来たこの土肥郷荒井城主実正は、跡取りは相模の西で評判の男児の中村氏の次男実平を娘のムコに入れて土肥郷をゆだねることにしました。
 「実」の字をつける新井氏の女、「平」の字をつける土肥氏の次男、その婿入りで、土肥次郎「実」「平」と名のることになります。
  このお姫様が湯河原の駅前像の奧さんです。上記のように新井氏のお姫様も母親も京都生まれ京都育ちで、関東の田舎育ちの土肥実平には「鄙にも稀な」宝物のような、京都弁の公家文化の教養のある女性であったのです。無骨な武士であった実平には、お婿さんでもあり、若いときから頭の上がらない女性であったと考えます。
  自分がこの土肥郷を支配し、領主としてやってこられたのは、むかし自分が若いときに、大庭の御厨を襲った時の大将源義朝の知遇を得たことにより、新井氏の土肥郷を継承する婚姻を結ぶことが出来たという偶然な巡り合わせを作ってくれた義朝への恩は誰よりも強かったと思います。
 その義朝の幼い子が、山一つ越えたところに流されてきたのですから、当然、この子の面倒を見、成長を見守ったし、旗挙げを勧めたくらいであったと思います。
 ③上記のように、実平の奧さんの京都生まれ京都育ちの言葉遣い、雰囲気、教養には、最初は戸惑っていたかもしれませんし、頭が上がらなかったかもしれません。が、このことが、伊豆に流されてきた頼朝が、実平の屋敷へ時に遊びに来る理由になってくるのです。頼朝は、京生まれで京育ちの女性に囲まれて育った上品な若者であったのに、流刑地の伊豆の田舎武士に囲まれて、田舎娘に誘われて成長しますが、ただ一人、自分の身のまわりで、都の雰囲気をもつ女性が、実平の奥方だったのです。京の山川、糺の森、琵琶湖、音楽文学習慣、礼儀作法から言葉遣い、食事まで、共通の話題のあるのはこの二人だったのです。
 実平の死後、おいしいお酒も持って鎌倉を訪ねてきた「土肥の後家」を御所奥へ通して、妻の政子ぬきで酒を酌み交わし、昔話をした二人には共通のものがあったのでしょう。
 頼朝・実平の信頼関係は、①②の政治上、恩義上の理由の外に、③の妻と頼朝の関係もあったと考えています。
      (小説に書きたいくらいです)


2 この土肥郷や早川庄に住んでいた人は、大変だったのでは?
  確かに、若い頃は乱暴で元気の良い武将であった実平も、旗挙げの頃は、70歳ぐらい。ひとの良い老境に達していた土肥実平は、良心的な領主で、領民にも慕われたと思われますが、突然の頼朝の旗挙げという事態に巻き込まれて、土肥館での頼朝や北条氏ら武将達を迎えての作戦 会議や接待での臨時支出だけではなく、それからの出兵に伴う一族の兵 装鎧甲、弓やり長刀兵器の準備購入、そして兵糧を準備していく事に、大変な費用を要したわけで、平家滅亡から平泉藤原氏と義経を討つための出兵と、凡そ10年余の争乱の先頭に立っていたのですから、当然、地元農民への課税もきびしいものがあったと思います。
 さらに、農民には、遠方に出兵する領主や一族郎党に、馬廻りには馬喰(ばくろう)、ヨロイや刀弓矢の補修新調にも技能を持った職人を連れて行くのですから、農家でも父親や働き盛りの男子が参戦していったと思います。
 当然、領内の武士も農民にも、多くの死者や生活に困る障害者も出たでしょうから、鎌倉幕府成立後の戦後に、それら死者の冥福を祈るために城願寺を建立しようと思った土肥実平の心中が推し測られます。



質問 演舞「焼亡の舞」について
 3 ナゼ「焼亡の舞」は女性だけで、舞われるのですか?
 4 ナゼ 琵琶の演奏で舞うのですか、琵琶=平家のイメージなのですが。
 5 題名から、もっと勇ましい舞かと思ったのですが意外と静かでしたが。


回答
3 ナゼ「焼亡の舞」は女性だけで、舞われるのですか?

 現在は 女性だけの保存会となっていますから 演舞者も女性だけで、ローテーションで、頼朝役(金扇を持って 一番前で舞う)、実平役以下の6人を、誰でもが舞うことの出来る様に練習をしています。琵琶の演奏者(謡いを兼ねている)も二人で、練習し合って、その日の都合、体調で交替できるように配慮しています。
 創立当時は、『源平盛衰記』に書かれているように、男性武将七人の逃亡の中での舞ですから、当然、男性の保存会員で舞われていました。しかし、男性7人が揃って練習する事の困難さや、出演が町外へ出かけることが多く、仕事を持っていては舞手にはなれない男性であったことから、次第に、女性が取って代わったと云います。作られた舞が、敗戦の最中で謡われる悲しい調べであることから、琵琶奏者も、悲しい落ち武者の心境を反映する女性の声で通しています。


4 ナゼ 琵琶の演奏で舞うのですか、琵琶=平家のイメージなのですが。

  舞われる場面設定が、上記のように、敗戦の落ち武者が舞う、自宅も敵軍に焼かれるという、絶体絶命の悲しい中で一筋の黎明を求める、何とか命を永らえていく場面で舞うものであったので、命を永らえられようにという祈りを託す「延年の舞」を基本として創作したのですから、悲しさの表現となったのです。
 今のように、平家一門が滅んで、源氏の鎌倉幕府が出来た事を知っている私たちは、盛者必衰の平家という悲しい姿を知っているのですが、この石橋山の時点では、源氏の旗挙げが、このまま失敗に終わるかもし れない時ですから・・・
 当時の屋外での舞の伴奏は「琴」ではありません。琵琶や(笛)しか考えられないこの時代の楽器です。滅ぶ平家の悲しい物語=琵琶というのは、琵琶という楽器一つを持って語り歩く、盲目の琵琶法師らの活躍 する鎌倉末期から室町時代にかけての、印象でしかないと考えています。


5 題名から、もっと勇ましい舞かと思ったのですが意外と静かでしたが。

「焼亡の舞」(じょうもう)が、『源平盛衰記』に書かれた土肥実平が、敗戦と山中彷徨で、うちひしがれた頼朝を励まそう、土肥の家を焼かれて逃げ行く先も無いという実平こそが、大丈夫だと元気を示すことが、この舞の趣旨ですから、この悲しい調べだと云えるかもしれません。
 石橋山の戦いで勝って、勝利の祝宴での焚き火が燃え上がるのをみて、酒の席で万雷の拍手を受ける舞であったら、もっと元気の出る調子の舞になったと思います。残念です。




 最後に 私が4年前に作文したものですが、最近、出張演舞に行く際に、会場で配布する手づくりパンフです。
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  じようもう
  「焼亡の舞」の いわれ
                    演舞  湯河原町 焼亡の舞保存会
 
 今から836年前、治承四年(1180)八月二十三日、平家追討を掲げる源 頼朝は、湯河原土肥の土肥實(実)平の館を出陣し、鎌倉を目指し三百余騎を率いて石橋山に向かいましたが、平家方の大庭景親が率いる武蔵・相模の三千余騎の攻撃を受け、多勢に無勢で戦い敗れ、土肥郷杉山に退き、大木の洞や巌窟に隠れ、あるいは箱根権現や地蔵堂に数日間かくまわれました。平家軍は箱根全山くまなく捜し回りましたが、捕らえられず、捜索をあきらめて囲みを解き、それぞれ帰国の途につきました。
 密かに隠れて様子をうかがっていた土肥実(さね)平(ひら)が、頼朝とともに見たのは、土肥の館が燃えている様子でした。平家方の伊東祐親の放った火でした。しかし、自分の館が燃えるのを見ても実平はうろたえず、静かに舞を舞ったといいます。舞いが終わると、頼朝は「実平の舞は、いま初めて見たものではないが、ただ今の舞は、殊に目出たく面白いものだ。」と喜びました。
 実平は、自分の館が焼亡する明るい炎を見て、本拠を失った悲しみではなく、これは平家追討が成功し、源頼朝や関東武士や土肥一族の未来が輝く、源氏勢力が燃え上がる象徴だととらえて、意気消沈する見方を奮い立たせるように舞ったのでした。その場所は、湯河原町鍛冶屋で舞ったとも、真鶴町岩海岸への降り口「謡坂(うとうざか)」で舞ったとも云われてます。

 この『源平盛衰記』に書かれた故事に基づき、源氏と土肥氏ら味方の前途は洋々として目出度い舞を、土肥山中を彷徨した頼朝以下の主従七騎の舞として、奥州藤原氏毛越寺等に伝わる武運長久・子孫栄華を祝う「延年の舞」を取入れて新たに作られたのが、この「焼亡の舞」です。

  毎年四月第一日曜日に湯河原町で開催される「頼朝・実平出陣の武者行列」の際
   には、湯河原五所神社と湯河原駅前で披露され、午後の「土肥祭」では、城願寺
   で披露されます。これまでも、真鶴町海神のまち 豊漁豊作祭・岩龍宮祭や三嶋
  大社や鎌倉鶴岡八幡宮での奉納のほか、2012年度「かながわ民俗芸能祭」に
  出演して、琵琶演奏にあわせて舞う優雅さがすばらしいと賞賛されました。

                               土肥実平一族顕彰と史蹟保存の土肥会

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回答の中で小冊子とありますが、 浅田 勁  加藤雅喜 共著
 『東国武士の鑑 土肥実平』 2016年土肥会発行(300円)です。 




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2016.11.22
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