颱風が沖縄を襲っているときに、
   関東は 晴天で暑くなって 10月に入っても 30度をこえる 37年ぶりという状況に、


午前中に 太陽光の陰で 石碑に彫った字が 見やすいだろうと思って・・・
   福浦・眞鶴・岩の港を訪問して 写真撮影。

実はそうではなかったのだ。
   眞鶴の碑は 松の木の陰になって 
   また、碑が大きいために 高所の字が読めず、写真撮影も同じ高さでできず、松枝で暗く・・・最悪!

拡大したり、これまでの 雨の時の写真などを見て、時間がかかっての判読をして、夕食前に99%書き出し、
   修正後、11時までかかって パソコンに打ち込む。 そのあとで また修正。

真鶴町の生命線、眞鶴漁港が 関東大震災で破損し、その修築を成し遂げたことで、
   1934年こと 昭和9年4月1日建立の 松本町長の撰文による巨大な碑で、

    本文字数は 60字×19行、段落欠字9字。で 1133字
    年月日その他の字38字。で  合計 1171字

全体 DSC04334松
 
建立の1934年は 昭和9年ですから、 今から82年前ということになります。

  雨の日の立碑の様子が、撰文の松本町長を中心に撮影されている 下の記念写真で分かります。
  碑の左右に植えられた 松が 上のように 大きく成長しましたので、時代の流れを表しています。
  
      25-12 (1)

  大変な費用と努力をして 港の改修が行われたことが 一読して分かります。 
   また、私も顔を知っている政界の有名人の名前が書かれています。
   彼らに ツテや縁故を頼って働きかけたことがわかります。 

 その縁故とは、碑文に最初に出ている「望月圭介」への働きは、きっと、こういうことで働きかけたのだと、
 土肥実平のことを調べている 私は考えています。
 それは・・・
 土肥実平・遠平が地頭となっておさめた 広島県三原・竹原・東広島地方という古い歴史的縁故であったということです。

 
 望月圭介は、広島県竹原市沖の大崎上島、廻船問屋の家の出身で、父、兄、弟が広島県会議員で、自分は衆議院議員となって自由党・憲政党・伊藤博文総裁で立憲政友会で、原敬内閣が誕生すると幹事長に就任。同党の重鎮として活躍。1927年(昭和2年)田中義一内閣で、逓信大臣(この次の次が小泉又次郎、つまり小泉純一郎の祖父)、翌年には内務大臣に転じた。この時に、眞鶴港改修の相談に乗っていることになる。息子が(現竹原市)忠海町長となっていたが、その町立中学に、自分の政治活動支持者であった、造り酒屋の息子の池田勇人、1年先輩に造り酒屋の息子の竹鶴政孝がいて、池田は寮で竹鶴のふとんの上げ下ろしなどもした。池田と竹鶴の親交は池田が亡くなるまで続き、池田が首相になっても「日本にも美味しいウイスキーがある」と言って、外国の高官に竹鶴のウイスキーを薦めるなど生涯変わらない友人だった。また、支援者で望月の秘書官を務めた同じ竹原の造り酒屋の宮澤裕の息子、宮澤喜一も望月が引き立てた人物であった。

 蛇足だが、池田勇人は、旧制一高受験の際、名古屋で、偶然に佐藤栄作と同じ宿に泊まり合わせて、池田は忠海中学校の同級生2人と、佐藤は山口中学の同級生と、計5人で試験場に行った。入試が終わった日、5人は酒を飲み、大騒ぎして別れた。佐藤は東大入学となったが、池田は一高受験には2度失敗し、五高に廻され、東大ではなく 京都大学出となった。卒業後、望月圭介の推薦を受け大蔵省へ入省したが、学歴がものをいう官界では、五高、京都帝大という池田の経歴は出世コースから外れて、地方廻りとなり、函館税務署長に任命される直前に、望月の秘書だった宮澤裕に勧められ、維新の元勲・広沢真臣の孫・直子と結婚する。媒酌は時の大蔵大臣・井上準之助だったのも望月の力による。1929年から「落葉状天疱瘡」を発症して休職。闘病中には、看病疲れから妻の直子を狭心症で失っている。生死を彷徨った5年間で奇跡的に完治する。この間大蔵省を退職していたため、再び望月の世話を受けて日立製作所への就職が内定していたが、京大仲間や望月の力で、34歳にして玉造税務署長として大蔵省に復職が決まる。この玉造税務署長時代に、和歌山税務署長を務めていた、やはり病気で出世が遅れて前尾繁三郎と知り合い、以後政界入り後も深い関係が続くことになる。
  ※なお 東大出でエリートコースを進んだ佐藤栄作より 池田勇人が先に 総理大臣になれたのは、池田自身が「長い浪人、落第、病気生活で、ストレートで進んだ人より、より多くの同級生、同期生などの友人が出来たからだ。」というのは私の知っている話。 



      眞鶴漁港

           農 林 大 臣 従 三 位 勲 二 等 後 藤 文 夫 題 額

築港ハ眞鶴多年ノ宿望ナリシガ昭和二年田中内閣ノ成ルヤ鐵道大臣小川平吉氏外務政務次官森恪氏農林参與官砂田重政氏等要路者ノ眞
鶴ニ多少ノ縁故アルヲ以テ宿願成就ノ時近ヅケルヲ感知シ同年五月町會議員ニ町有力者ヲ併セテ築港委員會ヲ設置シ運動ニ着手シタル
ガ縣知事池田宏氏ハ直チニ快諾激勵セラル小泉策太郞氏松本剛吉氏モ亦我等を支援ス殊ニ松本氏ハ凡テノ運動ニハ指導者ノ必要ナルヲ
諭シ其適任者トシテ胎中楠右衛門氏ヲ紹介セラル胎中氏ハ一諾重キニ任ジ農相山本悌次郎氏ヲ熱心ニ説キテ遂ニ其内諾ヲ獲ラレタリ同
年七月農林政務次官東武氏眞鶴港ヲ視察セラレ防波堤工費金四拾八萬圓内農林省補助金拾九萬圓地元寄附金廿八萬圓ノ縣営事業トシテ
農林省預算ハ大蔵省ニ廻附セラル然ルニ大蔵省ハ眞鶴ガ伊東港ニ近ク又餘リニ小港ナリトノ故ヲ以テ之ヲ削除シタリ當時内閣嘱託トシテ
首相官邸ニ勤務セル胎中氏ノ熱血ハ湧立テリ眞鶴漁港ノ運命ノ決スル此瞬時ニアリ胎中氏ノ悲壮ナル決意ハ先ヅ内相望月圭介氏ヲ動
カシ首相田中義一氏亦動カサレ内閣書記官長鳩山一郎氏法制局長官前田米蔵氏亦大ニ斡旋スル所アリ蔵相三土忠造氏遂ニ首肯シテ眞鶴
漁港修築ハ遂ニ昭和三年度豫算ニ計上セラレタリ然ルニ同年議會ハ解散セラレテ豫算成立セズ翌四年漸ク其ノ通過ヲ見タルガ同七月田
中内閣倒レテ濱口内閣成ルヤ緊縮政策ニ依テ所謂實行豫算ヲ作成スルニ當リ眞鶴築港ハ延期セラルル懸念アリシガ逓相小泉又次郎氏同
参與官平川松太郎氏熱心ニ之ヲ支持シ農林参與官山田道兄氏内務参與官内ケ﨑作三郎氏等之ヲ應援セシカバ農林省補助金貮萬圓地元寄
附金七萬圓ヲ減ジ総工費金卅八萬圓ヲ以テ昭和五年四月着工セラレタリ我等ノ運動ハ満三年ヲ經テ茲ニ初メテ實現セル也
漁港設計ハ初メ燈臺局技師工学博士石川源二氏ニ依嘱シタルガ縣土木部長三輪周蔵田邊良忠両氏監督ノ下ニ眞鶴漁港修築事務所長堤滎
左衛門氏ニ依テ設計變更ヲナシ南北防波堤金卅八萬八千五百圓ノ縣営工事ト港内設備及海岸埋立金拾九萬圓ノ町営工事ニ着手シタルガ
尚農村振興土木事業トシテ昭和七年度南北舩揚場金参萬参千圓同八年度海岸浚渫金貮萬参千圓ノ工事ヲ内務省ヨリ許可セラル凡テ之ヲ
竣工シテ同九年三月眞鶴漁港ハ全ク完成シテ新装ヲ凝レスニ至レリ海岸埋立地ハ約壹萬参千坪ニシテ同九年一月町営魚市場ヲ開始シ茲
ニ眞鶴港繁栄百年ノ計ヲ樹立ス工事期満四年間農林省漁港修築主任技師關口四郎橘英三郎両氏ノ懇篤ナル指導ヲ受ケ縣知事池田宏氏山
縣治郎氏遠藤柳作氏横山助成氏四代ヲ通ジテ縣當局ノ親切ナル擁護ノ下ニ財政其他有ユル難關ヲ突破セルハ満腔ノ感謝ニ堪エザルト共
ニ往時ヲ回顧シテ事業完成ノ凡テ順調ニ進ミタルハ全ク天佑ニ依ル事ヲ惟ハザルヲ得ズ茲ニ眞鶴漁港修築ノ由來ヲ記シテ後代ニ傳フ
昭 和 九 年 四 月 一 日     
                           眞 鶴 町 外 二 ケ 村 組 合 長 松 本 赳 撰
 

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2016.10.04
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