今晩、耳の不自由な人達と話が出来るようにと、
  二年間に渡る手話の研修会に出ていた妻が、帰って来て、

 「 ・芭蕉のお弟子さんに、耳の不自由な人がいるんだって?
  ・朝の連ドラで活躍した 唐沢さんの奧さん 山口智子さんがその子孫だというのだけど・・・
  ・二人に 子供がいないのは、耳に障害のある子が生まれないようにと
                              いうことかもしれないと思ったんだけど・・・」

私はスグに それは 杉山杉風のことで、
  江戸時代から魚料理店「鯉屋市兵衛」を代々経営しており、日本橋にいた特に、初代と二代目が
  芭蕉の面倒を見たこと。 明治以降は、昭和まで、栃木県栃木市に移り料理店を続けていて、
  山口智子がお嬢さんであることは有名だったよ。
  
  私が公開講座で『おくのほそ道』、芭蕉の話をする際には、重要な情報だったと話しました。

しかし、杉山杉風が、耳が不自由だとか、唐沢・山口夫妻に子供がいない理由については、
  私は、特に 公開講座の時にはお話しなかったですねえ・・・・

  そこで 久し振りに 平成22年の夏には 越ヶ谷での公開講座の皆さん、
    冬には湯河原の公開講座の皆さんを、『おくのほそ道』の関係地見学バス旅行で
     ご案内したことを思い出しました。 
  
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 芭蕉の強力な庇護者であり、芭蕉の門弟でもあった杉山杉風
その墓は、東京都世田谷区宮坂2-24-5の成勝寺の本堂裏の杉山家墓域にある。

杉山墓 成勝寺杉山家
   ※ なつかしい 平成22年12月14日に 見学に行った 成勝寺の杉山家墓域 

墓碑は高1.5m程の粘板岩を磨いたもので、碑題には「杉風墓」と記され、その下には、
「痩(やせ)がほに 団扇をかざし 絶し いき」との辞世が刻まれ、さらに線描きの杉風の
肖像が彫られている。
 さらに碑には「祖翁杉風は姓を杉山、名を市兵衛といふ。江戸本小田原町住ひ、鯉屋を営む。
芭蕉翁の高足にして東三十三国の俳諧奉行と称せらる。享保拾七年六月十三日没す。
享年八十六歳。法号を釈一元居士といひ、築地本願寺派 成勝寺に葬る。大正十二年震災に
罹りて墓碑の破損せる為 遺骨を此に改葬すると共に、昭和五年拾一月之を再建す。
                              施主 第拾六世杉山権兵衛誌」とある。

 となり墓誌銘には 
  元祖釈賢永居士 寛文十一年一月十七日 
  芭蕉庵桃青居士 元禄七年十月十二日 
  釈一元居士    享保十七年六月十三日
  と 父・芭蕉・杉風の三名の供養墓となっている。

芭蕉は寛文十二年(1672)、江戸に下った時、最初に草軽をぬいだのが杉風の家であった。
 当時は、父の賢永(けんえい俳号仙風)の家であり、
 これ以降 二十二年間にわたる長い年月、日本橋の屋号「鯉屋」を経営しつつ、その川魚放し飼いの
深川のため池の水門見張り小屋を与えることにより、住まいを定めさせ、芭蕉の生活全面を援助する。
その小屋が、万年橋脇の現在 「芭蕉稲荷」という所で、弟子に贈られた小屋脇の木が、芭蕉であった
ことから 俳号「芭蕉」、住まい「芭蕉庵」とすることになった。

中村不折芭蕉庵
     ※中村不折が 父親のスケッチを模写した 芭蕉庵

 富裕であっただけで無く、弟子入りして、芭蕉の俳諧に深く傾倒していたから このような支援が出来た。

『おくのほそみち』に 旅だつ芭蕉と曾良を、深川採茶庵から南千住迄まで送り、その夜は惜別の宴を設けて、
翌朝、旅立つ二人を送る姿は 与謝蕪村の絵にも描かれている。 
芭蕉は黒羽からなど旅の途中から、杉風に手紙を出し続けている。

 元禄七年(1694)年十月十日、大坂の仮寓で発病した芭蕉が、門弟に代筆させて12通の遺言状を残したが、
その中の一通に、杉風宛のものがあった。次のように書かれて、杉風に渡った手紙は、師弟愛の極致とも言えると
私は 皆さんに紹介している・・・

 「杉風へ申し候。久々の厚志、死後迄、難忘存候。
 不慮なる所に而 相い果て、お暇乞 不致る段、互に存念是非なき事二存候。
 弥よ俳諧御勉候而、老後の御楽二可被成候。」


 先立つ芭蕉の、杉風への感謝の思いが込められている。

芭蕉の 同門の 森川許六は『俳諧問答」の「同門評判」の中で、
 「杉風は二十余年の高弟、器も鈍ならず、熱心もかたの如く深し。常に病がちにして、しかも聾なり。
師は不易流行を説いて聞かせ給へども、杉風が耳には前後半ならでは
入り難し。故に半分は流行、半分は二十余年動かず。」と 杉風を評している。

芭蕉は深く杉風を信じて、「去来は西三十三国、杉風は東三十三国の俳諧奉行」と、戯れにいったこともある。

 興善寺(東京都文京区西片1-15-6)、入口左側に高さ二・ニメートル、幅九〇センチの
大きな句碑が立っている。
 その碑面には、
   「昏がたの 空に遊や 郭公 杉風舎衰翁
              裏面には「天保七丙申歳仲春建之」とある。

この「衰翁」とあるのは杉風の別号で、初め「蓑翁」といっていたが、
大病を患った後、耳が聾し、髪が抜けて、はなはだ痩せ衰えてしまった。その姿を見た芭蕉は、
戯れに「蓑」の字の冠を取って、「衰」としたらよいのではないかといったことから、
杉風も 晩年白ら「蓑」の字の冠を取って、「衰翁」を別号にしたと伝えられている。

  この二人の やりとりも 興味深いものがある。



さて、杉山家が、難聴はじめ耳の不自由な子が生まれる家系か否かは、分からない。
 上記の説明文で赤字アンダーライン部分のように、 

 杉風が、 大病を患った際に、髪は抜け、耳が聞こえなくなり、やせ衰えたことは、
   芭蕉との俳号やあだ名付けの話で分かるが、
   杉風は 先天的な障害児であったとは言えないのではないかと思う。判断が難しいが、
   芭蕉とのやりとりでも
   大病による 後天的な障害の人ではなかったのかと思う。


 私の公開講座を 一度も受講したことが無い 聞いたことが無い妻と
    久し振りに 夫婦で共通の話が出来た。




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2016.09.30
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