5月に出かけた 歌舞伎座の 屋上庭園から見る
   左後ろに見える 新しい高い白いビルは、時事通信社です。

          時事通信社

 下の写真地図で表すと 上の 歌舞伎座から見える 采女橋たもとの 赤い四角のビルです。
 
  采女橋写真地図


 
戦後の焼け跡から 1960年(昭和38年)から 
     2001年(平成   年)にかけて、
     下の写真のように 銀座東急ホテルが建っていました。

   
pc_ginza_tokyu.jpgbr-ginza_tokyu_hotel1.jpg

この土地は、 江戸時代には 下の切り絵図のように 幕末には酒井右京之亮の屋敷であったり
   信州高島城主で、奏者番役の諏訪因幡守忠誠の屋敷であったりしました。

万年橋江戸切り絵

明治維新を迎えて、この場所は、釆女町(うねめちょう)と呼ばれて
   地図では 「釆女町(うねめちょう)32・33番地」にあたるところです。
   今の晴海通りがとおる 松竹の東劇ビルのまえにある「万年橋」とならぶ「二の橋」 は 
   明治になると 東京市民から 「采女橋 うねめばし」とも呼ばれました。

   釆女町明治地図

 そこには、北村重威(きたむら しげたか)が建てた「築地精養軒」が
   このように、立派に建てていました。明治6年、岩倉具視の側用人であったので、
   その援助を受けて、ココに 建坪200坪、客室12の 小さなホテルレストランを開業した。
   明治42年に この下の写真のように 三階建て 客室32室に 建て直された。しかし、
   関東大震災で焼失した。
    
   築地精養軒絵はがき2


この「築地精養軒」は関東大震災で焼失したのに、上野に作られていた支店 「上野精養軒」のほうは、
  大きな被害を免れて営業を続け、 現在に至っていることは、みなさん承知だろう。

  さて、1902年(明治35年)に、この築地精養軒の隣にあった経営者、北村重威の子(?)、
  北村重昌宅に、やって来た、青年がいた。
  17歳の府立一中(現 日比谷高校)の2年生の谷崎潤一郎が、父親の
  商売苦境により、主人の末弟の住み込み家庭教師、雑用として住むことになった。

  谷崎潤一郎が、16歳で東京府立一中に入学した 前年の1901年(明治34年)に、
  土屋計左右 14歳が同級であった。真鶴の石材商 土屋大次郎の三男で、次男の
  土屋康二が石材商を継ぐのに対して、土屋計左右は、三井銀行上海支店長から、第一ホテル社長となり、
  長男の土屋計雄は、ハーバード大学留学から、第一ホテル社長となるが・・・・

大事なのは、土屋大次郎は、「明治30年に 東京へ出て、築地で石材商を開業した」というが、
あの有名な、谷崎潤一郎の住まいの隣に、石材店を建てたということです」と真鶴では語られている。

  
しかし、1857年生まれで、1897年(明治30年)40歳で東京へ出た働き盛りの石材商の
土屋大次郎が、 5年後の1902年(明治35年)の45歳の時に、住み込み家庭教師の17歳の
  谷崎潤一郎の勧めで、となりに店を開いたというのは、話が ちぐはぐです。
 
私は この大次郎の長男の土屋計左右が、谷崎と同級生だったという縁からではなかろうか?と
 考えています。

上の地図を見てくると、真鶴で言われるように
 「谷崎の住まいの隣に 土屋は石の店を開いた」とすると
  重い石材運搬には水運舟の利用が大事で、築地川の堀(1964年の東京オリンピック前に
  埋め立てられて首都高速になってしまいました。よく 私も運転しています。)に面し
  ていなくてはならず、
  そこは「釆女町34番地か35番地」であったのではないかと考えています。

「築地に店を開いた」という 土屋商店の場所は、
  「谷崎潤一郎の住まいの隣」にあったと云うなら
   土屋商店の写真があると良いのですが・・・・   

明治41年に、衆議院議員選挙に当選して 議員となっている。
  (どこの県の代表か未調査)

 下は 明治42年に新館となったの「築地精養軒」の3階建て建物の、右隣に

    築地精養軒絵はがき2
   土屋石材店があったのでしょうか? 虫眼鏡で 捜しましょうか。 


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2016.08.01
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