紹介した 土肥一族墓地の 古絵はがきの発行会社の名前ですが・・・・
   「東京 芝松本町 日新社」とありました。

 
  これは何処にあった会社でしょうか? 
     1964年1月1日に 東京オリンピック前に 
     住所変更がありました。「芝三丁目」に変わっています。

  芝三丁目現代地図
東京タワーが良く見えて 良く通る 首都高速道路の芝公園出入口の あそこです。

 この 芝松本町にあった 絵はがき会社「日新社」というと
  忘れられない人物がいます。

         上田彦次郎顔写真
    それは上田彦次郎さんです。

 彼は(1901~1985)は伊豆修善寺の出身で、三島の大門堂写真館で写真術を学び、祖父の経営する仲道写真館の跡継ぎは、見合い写真撮影に明け暮れる毎日にあきたらず,大正9年(19 歳)に東京に出て、芝田村町にあった絵葉書製造販売の「日新社」に入社します。全国の観光地を駆け巡って風景絵葉書の注文を取り、売りさばきます。早くも6年後の大正の終わりに独立して「春耕社」をひらきます。その際に、上田は「伊豆半島は自分に任せてほしい」と「日新社」との間で「縄張り」を取り決めたという話が伝わります。
 独立できたのは、熱海の観光業者から依頼された新しい趣向の絵葉書の製作を、当時の川柳第一人者・井上剣花坊(けんかぼう)の川柳と谷脇素文(そぶん)の漫画、そして上田の写真を組み合わせた「川柳絵葉書」を、熱海用とその他伊豆用の二種類を作り、どちらも温泉情緒が良いと人気で、良く売れたからであったという。
今と違って、自動車路も鉄道も無い時代は、重い撮影機材を持っての取材が大変な時代である。本人も『月刊伊豆再発見』第3号、(1976年)に回想して書いている「当時の陸路は1本だけ。東海岸のほうにも、まだ車が通れる道は無かった。」と。
そんな時代に伊豆半島の景勝地を求めて道なき奥地にまで分け入って撮影を敢行した彼の熱意はすごいものである。

 のち、富士山の撮影に名声を博した写真家岡田紅陽が昭和15年に創設した富士写真協会を通じての交流も役だったようだ。例えば、毎年恒例となっていた正月の「撮影会」にも参加して、紅陽がもっぱら山梨県側からの富士山を愛したのに対して、彼は伊豆半島からの富士山を撮影した。43(18)年1月3日には、山梨県忍野村での「撮影会」の後、仲間数人で反対側の愛鷹山頂から富士山を撮影している。
     上田彦次郎
    沼津の愛鷹山山頂で、岡田紅陽率いる富士写真協会員と写る上田彦次郎(右端の座る人、昭和18年1月3日)

 彦次郎に、「天下の岡田紅陽と一緒に仕事をしている自分」という自負と誇りがあったこと、そして「伊豆半島からの富士山は自分に任せてくれ」という対抗意識があったことがわかる。ただ、多くの会員が芸術写真を志向していたのに対し、彼はあくまで「観光写真」志向であったようだ。
 彼は観光絵葉書の他に、名所写真を使った栞、観光パンフを手がけ、堀内天嶺画の『日蓮物語』、『修禅寺物語』、『唐人お吉一代記』の絵葉書や冊子にも名を馳せ、昭和50年当時は故郷の修善寺で、絵葉書関係の仕事を続けていた。
 没後、昭和20~30年代に伊豆地域を中心に撮影した絵葉書製作用の約2000 点のガラス乾板は、日本大学国際関係学部図書館で所蔵する風景写真で、彼が伊豆地域の観光振興に尽くした足跡を見ることができるようになった。

そして、今
 伊豆・箱根の懐かしい風景~昭和20~30年代の古写真と巡る~  Android スマホアプリが公開されている。
特定非営利活動法人伊豆地域振興研究所が所蔵する上田彦次郎の写真と現在の写真とを比較でき、撮影場所の近くに行った旅行者は上田の写真と見比べながら、目の前の写真を撮影できるという仕様になっているようです。アンドロイドOS仕様のスマートホンをお持ちの方はお試しください。
    (iPhoneやiPadには対応しておらず 私は見られません。)

  ※ 絵はがき研究家の佐藤真一氏と 高月義照(東海大名誉教授)氏の説を多用させていただきました。

  ※参考資料
 『伊豆新聞』昭和50 年10 月24 日(下田版)
 『伊豆新聞』昭和50 年10 月29 日(下田版)
 『熱海新聞』平成19 年2 月10 日
 『続・絵はがき?伊東百景』平成13年3月31日伊東市立伊東図書館発行P.93-105




  さて 引用が長すぎました。

 じゃあ この人が 日新社に 入社したあとの 彼が撮影出版した写真か? 
               入社前のだれかの写真か? 退社して独立した後のだれかの写真か?
 あなたは どう思いますか?

 上を見ると
  「かれは 大正9年(19 歳)に東京に出て、芝田村町にあった絵葉書製造販売の「日新社」に入社します。
  早くも6年後の大正の終わり(15年にあたる)に独立して「春耕社」をひらきます。
  その際に、上田は「伊豆半島は自分に任せてほしい」と「日新社」との間で「縄張り」を取り決めたという・・・・」

  ここから 彼は 「日新社」にいたのが 大正9年から15年までの 19歳から25歳の間となります。が、
  城願寺の絵はがきには、これ以上の手がかりは ありません。

それじゃあ どうします? この絵はがきの撮影・印刷の年月日が知りたいところですね。
  
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2016.07.09
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