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2006.02.05 *Sun*

貸本から、時代小説好き美人画好きへ

地方公務員だった父は、雑誌を毎号とりよせることはなく、もっぱら貸本屋を利用していた。町の銭湯の前にあるガランとした貸し家の一角を利用した貸本屋であった。
昭和40年代のバブル期になる以前の昭和30年代は、TVが各家庭に入るまでと軌を一にして、小説月刊誌は「貸本や」で借りてくるのが一般的であったとおもう。「少年マガジン」「少年サンデー」の出る前であったから、私も良く覚えていないが「冒険王」「少年倶楽部」など少年雑誌も借りていたのかもしれない。土曜日の午後や日曜日に借りに行き、月曜日に私が返しに行っていたような気がする。学校帰りだったこともあったかもしれない。父は「文藝春秋」等も読んでいたが、私は父が借りてきた雑多な雑誌をときおり覗き見するのが好きで、こっそり盗み読んでいた。漫画より「時代小説」雑誌を見つけて読んでいた。小学生の私も盗み読みをして興味がもてるようになっていった。
 ハッキリ覚えていないが、時代小説には、伊東深水はじめ有名画家の挿絵が多く載っていた。なかには伊藤晴雨の背め絵が載ったものもあったとおもう。
 その後、『奇譚クラブ』などで何度か晴雨の絵を見たが、実はまったく関心がもてなかった。とくにエロティックともおもえなかったし、悪趣味に目をそむけることも多かったた。美人画の系譜の絵だが、鏑木清方や伊東深水の美人に通じるのだと思うが・・・・そんなに人気挿絵画家という評価も、鏑木、深水ほどの美人画家の評価もなかった。

 その後遠ざかっていたが、このところ、吉行淳之介から言いだしたのかもしれないが、晴雨のことを言う人がふえてきた。
 
 松尾氏は
 「どこか北斎に似た多様性と技法性がある一方、色づかいや印刷には甘く、むろん女色にかけてはひとかたならぬ興味の炎を燃やすのだけれど、それで身を灼くというわけでもなく、どこか覚めて研究三昧に耽るようなところもある。ようするにただならない。父親は彫金師で、少年期を向島に送っている。絵を習ったのは野沢提雨だから光琳派、彫刻は本所の内藤静宗のところに丁稚奉公をして習得した。やがてこれらに厭きて芝居小屋に飛び込み、看板絵を描きながら、現実社会の動向より芝居の世界のヴァーチャルなリアリズムに惹かれていったようだ。
 25歳で毎夕新聞に入り、連載講談や連載小説の挿絵を描くうちに劇評も担当する。ともかく芝居は細部にいたるまでものすごく詳しかった。27歳、劇評家の幸堂得知の仲人で結婚することになったので、あわてて挙式3日前に包茎手術をした。こういうところがおかしいというか、クソまじめなのである。 その後、芝居絵を雑誌などに描くうちに、鈴木かねよに惚れて責め絵の世界に入っていく。 この鈴木かねよが、のちに竹久夢二が同棲をし、モデルに描いて有名になった「お葉」その人で、秋田美人の典型である。「お葉」はもともとは藤島武二の専属モデルをしていて、“嘘つきおかね”と言われるほどに浮名を流していたらしく、山口三郎時代の山口蓬春が「かね公はすげえな」と感嘆していたという。 その「お葉」に晴雨は惚れこんで責め絵を描いた。ただし、戦火に焼かれて一枚も残っていない。しかし「私の画いている女の顔は彼女の形見である」と自分で書いているように、よっぽどぞっこんだったらしい。この晴雨のもとを去った「お葉」が、次にころがりこんだ先が竹久夢二のところだった。「お葉」に逃げられた晴雨は妻と別れて、佐原キセと同棲を始める。これが二番目の女房で、東京美術学校でモデルをしていた。のちの晴雨の責め絵のモデルはほとんど彼女がつとめた。例の妊婦の逆さ吊りも、キセが妊娠しているときのもので、そのときの工夫のかぎりについては晴雨自身が詳しく報告している。晴雨によれば責め絵の真骨頂は「黒髪の徹底した描き方」にあるらしい。この逆さ吊りの“実験”が39歳のときで、大正10年である。関東大震災でなにもかもを失った晴雨は、昭和に入ると一転、江戸の市井風俗を描き尽くそうと決意して、『いろは引・江戸と東京風俗野史』にとりくむ。これはその後6巻まで続いた貴重な風俗史料ともなっていて、その描きっぷりもすばらしい。
 このころ高橋鐵とも知りあい、しだいに「責め」を“研究”することになる。きっと狩野享吉のような日々となったことだろう。当時の『責の研究』や艶本『論語通解』はいまなお幻の名著となっている。
 それからあとの晴雨は3度目の妻が発狂して病死したり、借金に追われたりして、記録を追うかぎりはどうも冴えない。昭和7年の『美人乱舞』をさかいに出版物もぷっつり切れている。戦後も“責めの大家”としてときどき敬意を払われる程度で、北斎の晩年のような燃焼は見られない。東京の空襲ですべての作品と資料を焼かれてしまったのがショックだったようだ。晴雨はおそらくストイックな男だったのだろうとおもう。だいたい女を知ったのが遅咲きもいいところの28歳で、例の包茎手術をして結婚したときである。しかも、初めて女を知ってひどく落胆している。
 それからの晴雨は、おそらくは芝居や絵画の中の理想をだけ追いかけた。むろん純情というわけじゃない。そうとうに「悪」を好んでいた。しかしその「悪」は表現された悪であり、演出された悪なのである。それは本書を読めばすぐわかる。
 ぼくは晴雨を知れば知るほど、晴雨が好きになっていった。その美人の顔だけはいまなお好きになれないが、その人生、その風俗スケッチ、その「悪」の扱い方にひそむ理想主義には、おおいに脱帽するものがある。
 参考¶伊藤晴雨の著作は『いろは引』が有名で、6冊にわたっている。『いろは引・江戸と東京風俗野史』が正確な標題で最初は弘文館や六合館から出ていたが、途中から城北書院になった。そのほか『江戸の盛り場』(富士書房)、伊藤敬次郎が個人出版した『晴雨随筆』が5冊、『責の話』(粋古堂)などがある。いずれもあまりもち歩かないほうがいい。」と述べている。
 
そういう人物であったのかと、新たな知識でった。

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「酒場で歴史を語る会」は、歴史好きそして酒好きの多士済々が、折を見て江戸の地を徘徊し、早々に酒宴で談論風発・丁々発止と相成ります。酒宴亭主が、足跡記録のため、日常の情報保存場所として開設しています。



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