観光で 各地の史跡にでかけて、気のつくことは説明板が少ないことです。

 たとえば 履き物を脱いで 有料拝観して・・・・となると 解説してくれる人や丁寧なパンフがあります。
 それを求めるか、上がるか否か、このまま帰るかを判断する物がないのです。

 「有料でも、時間があるから・・・・」と思わせる 魅力的な言葉がある説明板が欲しいのです。
 それは、観光客だけでなく そこに住む町の人にも欲しいのです。

昨日、真鶴の史跡を歩いてみて、少しそんなことを感じました。
 たとえば 石工先祖供養碑 です。 
  案内板・説明板も しっかりあるのですが、
  立っている場所から、その供養碑まで、急坂距離100mを上った丘頂部にあります。

  巨大です。 上部の角柱部分は 江戸時代末期の地震で倒壊し、すぐに再建されたといいます。
        石工 碑アップ

 真鶴町役場の真ん前に建つ 案内石碑は二つ。

  上り口を挟んで  左に「石工先祖之碑」↓        右に 説明の石碑↓

        石工先祖之碑     IMG_6608.jpg
 
100mも 離れていて、登っていって、供養碑の前に立つと、
  「えーっと 何の墓だったっけ? 」と なります。
  忘れちゃいますね。 やはり 供養碑の前、ここにも説明板が欲しいでしょう。

今回歩いた場所を 紺色で示しました。
   出舟碑→謡坂→ そのあと旧道に入り 急坂を上り、口開き丁場から岩海岸へ下ろす小松石の石下し道の跡だというのですが、そこを登り切ると 丘の上の先ほどの 供養碑になります。

    土肥道 全体図
 
 いつも ここへ来ると 考えるのですが、口開き丁場からの石は、最初はまっすぐ黄色の道で 大ケ窪海岸へ下ろしたのであり、後に 岩海岸へ下ろすときは 私たちが今回登った 役場前のバス通りの新しい「土肥道」ではなくて 黄緑線へ繋がる「旧土肥道」であったとかんがえています。
 「旧土肥道」でなかったとしても、
 この細い山の道こそ 頼朝・土肥實平らが、出舟するために 小道地蔵から下ってきた道であると考えて良いかと思います。少なくとも、今の土肥道が 鎌倉時代以前からの通行路だったとしたら、余計に、實平たち落ち武者がぞろぞろと下っていくのは、平家方の軍に発見・捕縛されたことは間違いありません。メイン通路では 危険だと誰もが分かります。

 今回登った 口開き丁場からの 石おろしの道こそ、獣道(けものみち)であり、頼朝・實平の落ちて行った道だと思います。
 如何でしょうか。

 そうすると、新しい土肥道の所にある 「謡坂碑」が 都合が良くなくなります。 實平関係の旧跡では、最も位置の怪しい場所の一つですから、考え直すことも必要では無いでしょうか。
 あの供養碑の丘上の場所こそ 振り向くと 自分の館がもえる煙火を目にすることが し易かったと思います。
 城山が見えますもの。



 
 
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2014.06.30
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