きょう、掃除のあった 湯河原城願寺、七騎堂の「田代冠者信綱」像です。
         
          田代信綱像

平安時代末期に、藤原南家を祖とする、のちに工藤氏を名乗る藤原氏が伊豆国押領使として赴任して土着してから、国司の在庁官人として、また地元狩野荘を中心に、各荘園領主を支配していく過程で、狩野氏を名乗ります。伊東氏・宇佐美氏・曽我氏・河津氏・加藤氏・田代氏・・・・を分派していき、伊豆半島を支配する権力をもちます。1498年北条早雲に狩野介道一が敗れて自刃するまでの長い間、伊豆の豪族の盟主としての力をふるっていました。伊豆市修善寺の南、下田街道を見下ろす「市立天城小学校(旧名:狩野小学校)」の上のに広がる「狩野城」が、最後の城でした。
 
  田代信綱地図

その名門の狩野氏本家が「工藤介茂光(くどうのすけ もちみつ)」で、下の武者行列の名乗り番号17番です。
 その男子が 番号18番の 「狩野五郎親光(かののごろう ちかみつ)」です。
 また、工藤介茂光の娘と、伊豆国国司でやってきた藤原為綱の間に生まれたのが、「田代冠者信綱(たしろのかじゃ のぶつな)」名乗り19番の彼です。つまり、伊豆のナンバー1名門の工藤介の娘と県知事で赴任してきた伊豆守のと子供です。つまり、狩野親光は 工藤介の実子でしたが、田代信綱は 娘の子、つまり工藤介の孫でした。

    パンフ訂正

よって、パンフの誤りですね。19番「田代冠者信綱」の紹介文「工藤介茂光の。伊豆の国田代に住す。」
 修正します。「工藤介茂光の」です。
 イヤー私も ここまで単純なミスが残っているとは・・・ この文章を読み上げることになって、2回。つじつまの合わない部分を数カ所直しましたが・・・・、
 どなたが この紹介文を作ったのか分かりませんけど、今後、紹介文の全部を再検討して行かないといけませんですね。
 恥ずかしい限りです。見直しが必要でしょうね。全部を。

 まあ、とりあえず、今年は 直したものを読み上げます。当日は。

そう思ってみていたら、もう一つ気づきました。
 田代信綱は、「承久の変」でも 手柄を立てて、伊豆の田代荘園だけで無く、遠く大阪府堺市の南に広がる荘園の地頭職に任命されました。子孫は戦国時代まで その荘園を支配していきます。
 その荘園の名前は、「(おおしまのしょう)」では無く、「(おおとりのしょう)」でした。

 ところが・・・多くの紹介資料が間違っていて、
 その間違ったままに 引き写した私も、
 昨年の2013.4.4.のこのブログで、田代信綱の口上扇子の写真を見せて、その下の説明文に「大荘」と引用していました。
 再度、下にあげておきます。 
 申し訳ありません。よく調べないで・・・

    田代信綱扇子
 黄緑色の説明文の上に マウスを置いてクリックすると読めます。
 「和泉国大郷」と書いていますが誤りでした。
 ここは、現在、「堺市 鳳」という地名になっています。「大鳥=鳳」ですから。

 何しろ、日本で一番大きい前方後円墳の大仙古墳(仁徳天皇陵といわれてきた)のそばで、
 付近には、そのような大きな古墳群があり、ヤマトタケルの白鳥伝説を伝える「大鳥神社」が地名の起こりです。

これでは、「大郷」は、完全な誤りで、「大郷」が正しいことが分かりました。
 これも、私の、よく調べない 写し引用での失敗でした。申し訳ありません。

 :伊豆市のHP 「市指定-史跡・名勝」にも 「和泉国大島郷」と誤っています。
   そのほか、中世お城巡りの同好の人のHPやブログの大部分の方々が 「和泉国大島郷」と誤っています。
 それを 私は 検証せず 簡単に引用して誤ってしまいました。
 
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以上、 (1)工藤介茂光の子供では無くて、孫であること。
       (2)田代信綱の所領は、大阪府堺市の「大鳥荘」であったこと。
 誤りを二つ 直しました。



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2014.03.31
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