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 「金色のうんちビル」ことアサヒビール社と墨田区役所のビルにわたる吾妻橋。その道は、浅草通りとして
 スカイツリーの建つ押上方面に向かいます。その道路の地下にある都営地下鉄、本所吾妻橋駅の手前の五叉路。
 そこは、南北に走る「墨堤通り」の交差点。南に100m下ると、道路の東側に「宮田外科医院」があります。
 その手前の一区画が、今回の話題の場所です。
 墨田区東駒形三丁目24番地と道路にかかります。

グーグル地図

 さて、『勤番武士の心と暮らし』を紹介していますが・・・

その臼杵藩の先代藩主雍通(てるみち)が隠居して住む江戸下屋敷は、本所吾妻橋を渡った駒形にありました。藩内では町名をとって「原庭御屋敷」と呼ばれていました。
 日記の筆者の国枝外右馬が、江戸参府にお供した主君の藩主稲葉幾通(ちかみち)も、江戸へ来ての多忙か夏負けか体調不良で静養することになっていた、父親雍通の住むその下屋敷に、
 天保13年9月20日に、愛宕下の臼杵藩上屋敷から国枝外右馬らは、先君雍通こと「大殿様」に、江戸着任の挨拶に出向きました。大きな鯉の泳ぐ池庭を案内された際には、庭に立つ大殿から江戸参府へのねぎらいの言葉をうけました。
 
 この日
「提灯火きえより御出・・・・愛宕下の上屋敷の裏門を、早朝に出発して、江戸橋、あらめ橋、両国橋、松浦、松前の御屋敷前、浅草橋の手前より取り込み、原庭御屋敷にお出で・・・駒がたにて 五つ時を聞き申し候。」
 「なにぶん原庭まで七十二・三丁は之ある由、中々遠いことじゃ・・・」午前6時に出発し、駒形で午前8時となっていました。徒歩で8kmの距離でした。

 この日、この下屋敷・庭に来ていた、主君の稲葉幾通のおともをして、五つ(午後8時)に、上屋敷に戻りました。おつかれさまでした。

切り絵図稲葉長門守
 青線で囲まれて「稲葉長門守」と表記されています。
 (ただし、歴代の藩主で長門守と名乗った人がいないので誤りのようです。)

切り絵図 稲葉元三郎
 臼杵藩稲葉氏の下屋敷の場所は、上記の「切り絵図」で「稲葉元三郎」と表されています。
 屋敷の面積は、735坪でした。

 その屋敷は、明治初期の地図では、「原庭37番地」とその周辺部に当たります。
 が、すでに、大名・旗本などの武士屋敷は撤去されたあとで、
 たいていの場合のように、屋敷は小分割されていて、邸宅が亡くなってしまいました。

明治初期地図稲葉下屋敷

上の地図を、彩色してみました。
明治初期地図稲葉下屋敷色分け
 
  東は 周囲を寺院で囲まれているようすです。北は酒井大学頭の下屋敷、南は松浦肥前守の下屋敷です。
  緑色に塗った部分は、「原庭町」の町家ですから、町家にも囲まれていました。もちろん土塀で囲まれていたでしょうから、向島・駒形付近ですから、茅葺きの平屋が多かったでしょうから、そんなに騒音は無かったでしょうし、735坪ですから・・・大名屋敷としては やや狭い感じもありますが・・・池も有り、まあ、隠居した大殿様の生活の場としては適切な場所だったかも知れません。 

《蛇足》
 江戸時代末期の有名なご隠居がいます。随筆『甲子夜話』の作者、松浦静山です。彼は隠居してから、
 自分の下屋敷に、江戸の有名人・ジャーナリスト、相撲取り・芸人等を出入りさせて、情報を集めて世情を把握してこの『甲子夜話』に書き付けました。読んでおもしろい内容盛りだくさんです。
 彼の住まいこそ、この臼杵藩大殿様の南に隣接する「松浦肥前守」下屋敷であったはずです。
 → 松浦静山(まつらせいざん)が、『甲子夜話(かっしやわ)』を書いていた頃と、
   臼杵藩士の国枝外右馬が、大殿様のいる駒形の屋敷に来た天保13年秋は、静山公は健在だったのでしょうか? 調べてみましょう。


 さて、臼杵藩下屋敷は・・・現在では、一部、「墨堤通り」に取り込まれていますが、「東駒形3-24」に該当とする場所ということになります。
現代地図

 → 今は、このあたり、どうなっているでしょうか? グーグル・ストリートビューで見てみましょうか

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2013.07.31
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