b13_2.jpg草加の芭蕉像
 新暦の5月20日、
 日光を後にした松尾芭蕉と曾良の二人は、大谷川を渡り、鬼怒川を渡り、矢板から大田原を目指す日光北街道の途中で、豪雨に遭い、玉生の宿に入ったが、ひどいところで名主の家に宿を変えて一泊した。

 翌21日は晴天で、岡を越え「大田原」から「黒羽」を目指した。途中で道に迷いやすいところだったこともあり、馬を借りたが、その馬の後を追う「ちいさき者ふたり」姉弟の娘の名が「かさね」といわれ、その名がめずらしく、優美で風情のある聞こえであったことから芭蕉の心に強く残った。
 ようやくたどり着いた黒羽には、家老とその弟という俳句の知り合いがもてなしてくれ、梅雨にも4・5日たたられて、合計14日間も逗留した。

着いた翌々日は、東方の「仏頂禅師」ゆかりの「雲巌寺」を訪ねている。
 この僧のことを今回の公開講座「声を出して読む芭蕉紀行文」の初日『鹿島紀行』でお話しするが、2年前に公開講座の方々とバスで訪問した場所である。
 今の時期、5月下旬から6月始めにかけて、芭蕉が行動した場所、那須野、黒羽が、今回のテーマ設定の理由になったことを、5月最後の日に書いておこうと思った。
 今日の湯河原付近は日差しもあつく晴れ時々曇りで、小雨も無かったが、関東北部は小雨であったようだ。梅雨も近い。


 さて、「おくのほそ道」の旅の後、さる人の赤ん坊に「かさね」の名を授けたことがあることを書き記している。

 みちのく行脚の時、いづれの里にかあらむ、こむすめの六ツばかりとおぼしきが、いとさゝやかに、えもいはずをかしかりけるを、「名をいかにいふ」と問へバ、「かさね」と答ふ。いと興有る名なり。都の方にては稀にもきゝ侍ざりしに、いかに伝て何をかさねといふにやあらん。我、子あらば、此名を得させんと、道連れなる人(曽良のこと)に戯れ侍しを思ひ出でて、此たび思はざる縁に引かれて名付親となり、

      賀 レ 重      (かさねをがす)
   いく春を かさねがさねの 花ごろも
     しは(皺)よるまでの 老もみるべく
                    はせを
               
                           芭蕉真蹟懐紙「ミの虫」出光美術館所蔵
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2009.05.31
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