「奥の細道」を読んで、芭蕉が世話になったという黒羽藩の家老浄法寺桃雪、鹿子畑翠桃の兄弟を調べていき、諸資料をつないでみると次のようになった。

矢矧の方の姪が懐妊後、親戚に下げわたすというのが事実(可能性は非常に高い。おおくの史書がそう説明する。)とすると、二人の兄弟には、徳川家康の血が流れていることがわかった。藩主大関家は、家康の娘をもらったことになる。(大雄寺にシャン姫(しゃむ姫)愛用の茶碗が展示されている。)その娘は浄法寺家に嫁入りして、浄法寺高政と娘を生み、月桂院とよばれた。高政に継子無く、娘が鹿子畑家に嫁に行って生んだ兄を浄法寺家の跡取りとして迎えたのが高勝であり、次男が鹿子畑家を継いだ豊明である。両家は石高500石の家老職と遜色のない448石の家であった。

 浄法寺、鹿子畑家は、1万8000石の大名大関家にとっては、藩主の娘が嫁に行った家老とそれに継ぐ家であり、29才の若造とはいえ、藩主大関増栄が逝去するとき、子ども増成はすでに無く、わずか2才の増恒に跡を継がせるという非常事態になっており、浄法寺高勝への負担は相当のものがあったと考えられる。その意味では、若いながらも藩の中心人物として、幼少の藩主を立てながらも、芭蕉・曾良の旅人2人くらいの面倒は何ともなかったのであろう。惜しむらくは、藩主があまりにも若い4才では、芭蕉の偉大さを認識できなかったことであろうか。
 
 これよりさき、高勝・豊明の二人を伴って、一時、父親の鹿子畑高明が、黒羽を引き払い江戸の親類宅に住んだ折に芭蕉と知り合ったというが、その引き払いは、浄法寺高政との遠慮や対立、江戸屋敷の藩主大関増栄への接近、一転しての浄法寺家跡継ぎという解決を結果として残したのではないかと考えている。南千住浅草に近い「大関家江戸屋敷」の付近「大関横丁」に住んでいたとすると、芭蕉の住む深川へも通いやすい状況があったと考えられる。子ども二人に「桃」の号字を与える芭蕉庵桃青は、よほど彼らの才能も見抜き惚れ込んでいたに違いない。

黒羽藩 大関家、浄法寺家、鹿子畑家と徳川家康の関係をまとめてみよう。このあと略系図を貼り付ける。
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2006.10.31
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