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今から 
  200年ほど前  江戸時代末期に 全国を歩いて測量をし、正確な沿岸地図を完成させた
 「伊能忠敬測量隊」

 その 第8次の測量旅は 長期間の九州測量であって、時間もかかり、遠距離を歩き・・・  

8_1.png  

 伊能忠敬本人には、大変な身体的負担となって体調を壊し、   
  次の 第9回測量には
  彼は 江戸で留守となった。  

  九州からの帰路、名古屋から 中津川ー下呂温泉ー高山ー松本ー群馬から江戸へ戻るコースを取った。

     さて、下図が 中津川から 北西方向の 下呂温泉から高山へ行くコースである。

     伊能測量隊経路 中津川・舞台峠・下呂


 下の地図が、いま 高速道路SAでもらえる 道路地図である。
      ※左は マウスで画像の上にカーソルをおいて クリックすると拡大されて見やすくなります

  下呂舞台峠地図       舞台峠大地図

さらに この下の表は 
 伊能忠敬の測量隊が、
   移動して測量しながら 宿泊した コースと宿舎の一覧です。
   村や宿場の 名主の家や 百姓の家に 泊まりました。
   多くの人の 協力で 日本地図測量の大事業を 支えたことが分かります。

        ※ 下表は 画上に マウスでカーソルを置いて クリックすると拡大されて読めます。

第8次飛騨方面


上の表の 中段右端の注に 「国界を越えた」とあります。
 その国境の峠とは、美濃国と飛騨国の「舞台峠」という かわった名前の峠でした。
 現在は 長野県・愛知県・岐阜県の接する位置で、
 昭和・平成の現代になっても 県を超えて境界が変わった場所でもあります。

 現在では 岐阜県中津川市と岐阜県下呂市の 市境の舞台峠となっています。
  下の グーグル写真で分かるように、この舞台峠の山上には 昔、鎌倉時代に建てられた
 大きな寺院「大威徳寺(だいいとくじ)」があったことが知られています。 
 峠を下りたところに「文覚上人墳処」「加子母のスギ」という場所があります。
 そう この寺の建設には、平家追討の以仁王の令旨を、全国の源氏へ届けた文覚上人
(もんがくしょうにん)が、係わったという、そういうお寺です。 

  この人が 伊豆に流されていた頼朝へ 平家追討の令旨を届けたことで、
 頼朝・土肥実平の旗挙げにつながるのですが・・・・   
 鎌倉幕府が開かれる頃は、この文覚も頼朝の信頼を得ていたので、この地に
 頼朝が寺院建立を考え、文覚に任せたという伝承は うなづけるものがあります。
 山の上に建つ大寺院からは、四方の山々河川を展望出来る様に、
 大和長谷寺のように、清水寺の舞台のように 舞台づくりの せり出した板張りの
 建物があったようで、そこから見える木曽裏街道の峠道が「舞台峠」と呼ばれるよう
 になった・・・・と、伝わります。

峠下のあちこちのドライブインには すこし差違があるようですが およそこのような
 説明が書かれています。
飛騨と美濃の国境をこえ、下呂町に入るとそこは舞台峠。この優雅な地名の由来は、
 800年の昔、鎌倉幕府の将軍源頼朝公の命により 文覚上人が建立した鳳慈尾山大威徳寺に、
 二代将軍源頼家が参詣した折に さかのぼります。頼家が、諸大名の参詣の退屈を慰めようと、
 この峠に舞台をつくり、都の美しい白拍子たちを集め、「能」を催したことから『舞台峠』と
 呼ばれるようになりました。

   諸大名⇒ 守護地頭ら or 御家人。   
   退屈を慰める⇒ なんという表現!  
   白拍子の「能」⇒ 「催馬楽」がイイでしょうかね。

それにしても 発掘調査が行われた範囲は 写真で見ても こんなに 大きな寺でしたが、
   戦国時代末期の争乱と 地震で倒壊して、  
   江戸時代には 既に 草木に覆われているようであったということです。    大威徳寺跡地図 
 現代では 土地の字名に このような大寺院を彷彿とさせる名前があることから   
   発掘が行われて 報告書が発行され、インターネットで公開されています。

大威徳寺地形図   


こんな風に 発掘されて 当時の様子が分かりました
発掘図



どれ位の規模であったかということは   
  当時 建てられた全国の主な寺社の本堂の大きさ比較が 一覧表になっています。
本堂図 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これによると、
① 正面が 20mをこえる巨大建築・第一段階の  
  平泉毛越寺(奥州藤原氏) ・鎌倉永福寺(将軍 頼朝) ・鎌倉極楽寺(執権北条氏)は 別格として

② 正面が 10mを超える 第二段階と
③ 正面が 10m未満の 第三段階の   
   守護や地頭クラスの御家人達が 建てた 鎌倉時代初期の寺院のなかでは 
   飛び抜けた大きさで、
   将軍・執権の権威財力による 第一と、第二段階の中間に位置する 
   大型建築であったことが分かります。
この寺は 当時、将軍頼朝の信頼を得て、執権北条氏とならぶ権力を持つ人物であった
 文覚上人の建てた寺である伝承を 裏付ける結果でした。
  残念ながら 戦国末期の争乱で焼け、 地震で倒壊壊滅しましたが・・・


 
 さて、最後に、この峠道を 幕末に 測量のため 通過したのが、
 上記の 伊能忠敬測量隊でした。  
  伊能忠敬は 測量日記には何も記さず、
  この「舞台峠」の由来には 関心をもたなかったようですが・・・

下の史料は、岐阜県の所蔵するものです。 
 それには  舞台峠のふもとに 雨で 二泊したあと 
 次の日は 下呂温泉の村に泊まって、  
  翌日、中呂村
     昼食を取ったときに
     名主か 村役人であっただろう人物が 書いたメモです。
  右端の一行に 「文化十一戌年(1814) 四月十四日 御通行」とあります。


tyuuromura2.jpg  

 赤い線で囲んだ「伊能勘解由」が 伊能忠敬であり、
 多くの従者の名前と 持ち物がイラストで書かれている貴重なものです。


きたる 2019年10月14日に 湯河原で 
 披露される 伊能忠敬測量隊記念石碑で 紹介させていただくつもりであるが・・・

 文化十二年(1816) 十二月十八日や 十九日に昼休み・宿泊した
 (※上の史料から 翌年にあたるが、年末18日なので 太陽暦換算がずれ込んでおり、西暦では1816年となってしまうが、翌年のことである)

 湯河原町の
   吉浜村名主 向笠彦右衛門も
   門川村名主 冨岡与次右衛門も     
  きっと同じようなメモを 残していたに違いないが、
  幕末と、明治と、関東大震災で 大波津波で
      全てが 家もろとも流されてしまい、現存しないのが残念です。

 ここでは、
  舞台峠という名前の由来と、発掘。
  頼朝旗挙げと 土肥実平も会ったことのある 文覚上人。
  同じ道を通った 
    翌年に 湯河原町吉浜・門川の名主宅へやってくる 伊能忠敬測量隊の話を書きました。






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2019.09.12


私は「ワイドビューひだ」の脱線落下事故を思い出した、今回の京急電車1000形先頭車127号の写真

  湯河原町で、我が家から 1km先に
  住んでいる 西村京太郎さんのせいではないが、
  これでも 鉄道大好き人間であるから、
  今回の事故が起こった 京浜急行のファンが多いことは承知している。

  そのため インターネット百科辞典ウイキペディアの 「京浜急行1000形」には 膨大な資料が載っている。

  d02d2_1523_69fc23a3_5855676b.jpg

   今回の事故に遭遇した 電車の先頭車にある
    「137」 と 「1000」は 製造番号と月日、 形式が示されている。
   そして 成田と羽田を結ぶエアポート特急・急行の運用が始まった記念すべき時の新造車両として
    137先頭車の写真が 偶然にも載っている! 

1280px-Keikyu_1000gata_naritayugawa.jpg
アクセス特急の運用に入った新1000形10次車 (8両固定、1137 - 1144) (2010年7月19日、成田湯川駅)

製造年月日や 8両連結車両セットの構成も出ている
  2010年(平成24年) 6月製である。
   ※ マウスで 下の表の上に カーソルをおいて クリックすると 拡大して読めます
  第10次車

 製造後 9年目の新しい電車であり、 横浜ー蒲田ー羽田空港に 私は 使用してきたので、 
    これまでに この電車には 何度か乗車したはずである。 
   表を見ると分かるが
     先頭車137号車から、最後尾の144号車までの 8両編成であるが、

     デハ ・ デハ ・ サハ ・ デハ ・ デハ ・ サハ ・ デハ ・ デハ
     と ならんでいる。デハは電動車、サハは、モーターがない車両で構成されている。

  京浜急行は 創業以来、モーターが着いている 重い車両を先頭車に配列している会社である。
    JRなどでは、運転席のつく先頭車両は、構造が簡易なモーター付きでない物にしているが
  京浜急行は 脱線しそうになった時、その重量から、脱線しても 枕木上やジャリ上を走りながら留まるか、
    脱線しても転覆しにくい効果があるとしている。
    高速運転や 省エネのために、車両の軽量アルミ化が進んでいるときに、この考えは正当性があると思う。

そうは言っても、大型のコンテナ車が 線路上にいたのでは、ぶつかってしまう。
  でも、軽い車両で、トラック荷台に乗り上げて ジャンプして、
     踏切付近の密集した住宅地に 飛び込んでしまわなかったのは 幸いであった。
    
  その車両も 今回、脱線破損で、回収されて、破損箇所を調査検査して、修理して使われるか、
  全体に金属疲労などの耐久性が問題とされれば 破棄されることもあるのだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は 今回の事故ニュースを聞いて、JR西日本の宝塚脱線事故では無く
   下の二つを 思い出していた・・・・・・・


①1997年(平成9年) 春に 京急の按針塚駅ちかくで 崖崩れに 電車が突っ込んだ時に、
   翌日には もう 開通させて、利用者から その速さに感謝状を贈られたことがあるが、
   土砂に突っ込んでも 脱線して付近に突っ込まないで済んだことも、その復旧工事の手際の良さと
   先頭車も電動車で重いという 京浜急行の姿勢が評価されたことがあった。

その前年
②1996年(平成8年) 6月25日夜
   JR高山本線の 下呂駅近くで、名古屋発ー高山行き ジーゼル車の 
   キハ85系 「特急ワイドビュー ひだ」

   トンネルからの出口で、大落石に ぶつかって、脱線。 一両目・二両目が脱線して 崖下へ墜落した。
   一両目は大破して、 破棄。 新車両を製造したということがあった。
   ジーゼルカーは、全車両とも 床下に重いエンジンを 積んでいる 重量車両であったが、
   崖上だったので 先頭が下向きに 崖下へ落ちてつぶれたので、新車両となったと聞いた。     

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   下り 高山行きの 先頭車は 左だったような気もするが、右の貫通式先頭車だったのか不明



 
ちなみに 私達 夫婦が 新婚旅行へ行った 高山へは
  名古屋から この下の キハ82系 「JR特急 ひだ」 で向かった。 

ひだ
 
ただ、40年以上も 昔なので、
  このJR名古屋駅発車の ひだ号 だったのか、
  名古屋に泊まったので 名鉄型の ひだ号 だったのか 覚えていない。
  物好きな 私だから 後者を選んだ 可能性もある・・・
   Meitetsu-8200DC.jpg






2019.09.08


 息子の結婚式なのに、

指輪二人

  新郎・新婦入場のあと、 私達 親夫婦の入場行進も ありました。
  久しぶりに 腕をくんで・・・
 
  新郎新婦の 次ぎに 
  ステージへのロードを 歩きました。

結婚式雅喜陽子2

 国が変わると 結婚式の披露宴も 変わります。

ホーチミンから 車で2時間離れた 小さな町の会場で、 400人の披露宴でした。
会場1
会場2
会場3

 私たち家族では
   夫婦だけでなく 長女家族4名と 兄、 計7名の 参加でした。 

兄弟姉妹新家族syou

 はい 大変 お疲れ様でした。 
  習慣がわからなかったり 雷雨に遭ったり、大変なこともありましたが、
  私達にとっては とても楽しく有意義な旅でした。

 皆さん 幸せになってほしいものです。






 
2019.07.31


次男の結婚式に 参加するために
やってきた わが家全員です。
場所は ホーチミンのタンソンニャット空港
ハンバーグ屋さんで
離陸すら 私達を 送りにきてくれた 次男夫婦新婚さんと
一緒に 撮影してみました。

20190730163605088.jpeg






2019.07.29


今回の事件現場は、これまで何度も通過した駅、
  JR奈良線六地蔵駅、京阪宇治線六地蔵駅 の近く。

当時、私は公開講座で『平家物語』を、紹介していましたから、
  平家の横暴さを描いていた 平重衡のことを調べていて
  この駅からの近くの 彼が切られた場所、墓を 見て歩いていました。
    宇治の方面では、 木津川の安福寺の石塔も、
    ここ六地蔵では、奥方との別れを惜しんだ、そして埋葬したこの墓も。
  暑い夏の日射しの中、 妻と タクシーで 「法界寺」見学を前に、廻ってもらった。


▶数年後、戸田市文化財研究会の皆さんを 案内した。
  その計画表を見ると、平成26年5月16日のことだった。

       戸田市文化財 平成26.5.16.

 上の計画表の右地図は 拡大すると、この地図である。
 路線バスで 行く計画であったが、
 実際には 貸し切りマイクロバスで巡回したのは、 
 夫婦で行った時の 経験からである。
 
                                                             地図1六地蔵
この左下の JR六地蔵駅の さらに左に、今回の被災したビルがある。
地図2

  その後も、奈良へ行くことの多い私には、 この六地蔵駅は、JRも京阪も 
   たびたび 通過する場所である。

 かえすがえすも 残念な事件です
    亡くなった方々の ご冥福を お祈りします。


2019.07.20
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