このブログ 7月16日では
 岩波文庫206-11 『芭蕉 奥の細道』が刊行されて
  その88ページにある 
立石寺

有名な 山寺「立石寺」への往復をして 
  この日は 大石田へ戻る道をあるき 到着した。

  この時鳴いていた 立石寺での 蝉の声は 
  アブラゼミの声か ミンミンゼミの声だったかという論争が
  斎藤茂吉らが参加して行われ 
  新暦の同日に現地での傾聴により 後者に決まったようであるが・・・

と 書いたところ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  8月14日の『朝日新聞』 
    天声人語にも セミ事件が 紹介されていました。

天声人語29.8.14.立石寺芭蕉せみ


  
 ところで・・・・ 先日 平泉中尊寺にある 芭蕉翁像に まごむすめ達が行った 写真が送られて来たが、

 o0480064013994829484_20170815220747183.jpg  芭蕉像

   右のように  むかし むかし 子供たちも 同じ場所で 写真を撮りましたネ

   下は この 中尊寺のあとで 尾花沢へ向かった芭蕉が 立ち寄った鳴子温泉の「尿前の関」にある
   芭蕉像の 前では 私たち夫婦も。
 
   尿前関 芭蕉像
   




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2017.08.15
那須の芦野の「芦野石」と「遊行柳」について、先日、書きました。

 芭蕉も、随行の曾良も 見たであろう「芦野石」と書いてみましたが、
 肝心の『おくのほそ道』本文をあげておきませんでしたので、ここで 改めて掲げます。


『おくのほそ道』本文から 那須野への記事のあと、遊行柳へ・・・・

「是より殺生石に行く。館代より馬にて送らる。此の口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞う。
 やさしき事を望み侍るものかなと、

   野を横に 馬 牽きむけよ ほとゝぎす

 殺生石は、温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。
 また、
清水ながるゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畔に残る。此所の郡守戸部某(領主の芦野氏をあえて戸部と記した)の、「此の柳みせばや」など、折りをりに の給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此の柳のかげにこそ立ちより侍つれ。

   田一枚 植ゑて立ち去る 柳かな 」
  



芦野地図 
    ※マウスを、うえの地図上でクリックすると、拡大されて字がはっきりします

           asinoyakata.jpg

この『おくのほそ道』本文にあるように、江戸の俳諧の仲間であった芦野氏に、前々から、こっちへ来たら遊行柳を見に来てくれと云われていたので、 黒羽→那須→遊行柳→江戸時代の陸羽街道の白河関→旧東山道白河関跡→白河城下というコースを歩いたのであるが、芭蕉・曾良ともに、この陸羽街道に接した、芦野氏屋敷へ立ち寄ったことが想像される。
 必ず、立ち寄ったはずで、芦野氏の主人の案内で、150mさきの「遊行柳」へ、足を運んだはずである。

    全体遠景


2014.01.05
松尾芭蕉『おくのほそ道』にでてくる
 「遊行の柳」は、「白河の関」目前の名所です。

 その付近の河岸段丘の崖に見える灰色の石は、地名である「芦野村」からとって「芦野石」と呼ばれています。 地元の銘石で、
 東北自動車道の那須高原SA 下り線の土産品売り場の壁面や柱に使用されており、説明板も掲げてあります。
        那須高原SA

江戸元禄時代には、すでに地域の碑・建物などに使われていたので、
 陸羽街道を那須から歩いて来た松尾芭蕉も、「遊行柳」を探しながら「白河の関旧跡」を目前にして
 この「芦野石」の崖を見ていたでしょう。

当時の地図を グーグル写真地図に案内を書き込んで示しますと、こんな具合です。
 ※ 画上で、マウスをクリックすると、拡大されて地図がはっきりします
  芦野地図

 この左下から、陸羽街道を那須から歩いてきた松尾芭蕉は、領主芦野氏の邸宅を左に見て、
     asinoyakata.jpg

反対側の芦野氏の旧城である 那須館山城のあった山の崖の芦野石の様子を見たはずです。
 そのあと、芦野宿の外れの「遊行柳」で、しばし、たたずんで古人の和歌を思い出しながら、地元農民の農作業を見ながら、あの有名な俳諧発句を作ったのです。
   全体遠景
   遊行柳2
遊行柳 遊行柳句碑
2011.6.7.公開講座バス研修旅行

 そこからも、灰色の「芦野石」の崖や、その石材を使った墓石・道祖神・道標などを目にしていたはずです。
 
201101192201432b9.jpg ca4d0c80929d9ede51a700eb76406148.jpg 館山城のあった山の芦野石崖(現在)


それは、ちょうど、江戸時代中頃に、相州湯河原吉浜海岸の名主家に泊まった、
 測量隊を率いていた伊能忠敬が見上げた「白丁場石」を産出していた「白丁場」の白い崖を見たのと同じように。

この二つの石、
 片方は 那須火山が噴火した際の火山灰が固まった 灰色の凝灰岩である「芦野石」
 他方は 箱根火山が噴火した際の火山灰が固まった灰白色の凝灰岩である「白丁場石」
 
違いは
 (1)見た目の色が灰色なんだけれども、白さに差があって「芦野石」<「白丁場石」で、白いのです。

 (2)現在も掘り出されているのは「芦野石」。明治時代後半に質が落ち、関東大震災で丁場が崩れて生産が止まった「白丁場石」。生産が止まって 90年たちました。

 (3)その結果、華々しく使用された「白丁場石」による建物が、建設後100年あまり経過して、白色が汚濁して、白色→灰色→黒褐色に汚れ、剥離も起こり修理が必要となって来ていますが、同じ「白丁場石」が生産されていないことから、やや灰色の「芦野石」の採用となっているようです。

   「いま、白丁場石がないから、使ってもらえない!」 湯河原の住民としては、残念です。   


芦野には、こんな美術館や 歴史資料館が建っています。湯河原には 何もありません。 
 石の美術館芦野石使用例 隈研吾設計 芦野 石の美術館 隈 研吾の設計
2014.01.03
松尾芭蕉の
 嵯峨野落柿舎での俳句記録
 『嵯峨日記』に出てくる俳句の句碑を探しに、
 広島県の尾道市、千光寺へ。
 今回、4月半ば、丁度、この俳句が作られたとき、芭蕉が嵯峨野に住んでいた頃に、
 聞いていたカッコー鳥の声の季節にあわせて 碑のある尾道の千光寺へ出かけてみた。
残念ながら、この句は この地にやって来たことの無い芭蕉が、千光寺で作句したものではない。

元禄4年(1691年)芭蕉48歳の句。
  うき我を さびしがらせよ かんこ鳥

これは、声を出して読む芭蕉の名俳文『嵯峨日記』」で読んだ
 京都嵐山の落柿舎での『嵯峨日記
4月22日の記事です。

 獨り住いほど おもしろきはなし。 長嘯隠士の曰く
 「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」と。
  素堂、この言葉を常にあはれぶ。
  予も又、
 「うき我を さびしがらせよ かんこ鳥」とは、ある寺に 独り居て云し句なり。
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また『俳諧草庵集』には、このように紹介されている。

 西行の よめる。
  山さとに こは又たれを よふこ鳥
 ひとりすまんと思ひしものを
  うき我を さひしからせよ かんこ鳥  翁
   
 此句、あまたの集に見え侍れと、自筆にて かく前書の有を見侍しなり 

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千光寺芭蕉句碑
 左の
 句碑の前に丁度、33年目の御開帳である十一面観音の結縁柱と結縁の紐がありましたので・・・触りながら
 句碑前で記念写真です。
 (もっとも、それ以前に、1000円を布施して、観音様の ご尊顔拝観していましたが・・・・)

  

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2013.04.11
春寒の伊豆に 花見て 戻りけり
 と吟じられた、今年の寒さも、ようやく花が咲き始めた。
 江戸の松尾芭蕉が『おくのほそ道』への旅に、今か今かと日待ちした気持ちがわかります。
 あさりも 美味しくなりますね。

深川の 浅蜊飯食ぶ 江戸情緒
深川飯1
 そして、そんな時に旅に出ると、造り酒屋に地酒を味わうのも楽しみです。

利酒の 店も予定に 女旅

 それでも、流石に 女性の感覚も

髪に置き 落花のみやげ 家にまで


公開講座受講の 宮本奉子さんより、
  句集『綿菓子』を、頂戴しました。
 
句集
同じく 句集『倭坐り』をいただいた
  己ノ瀬 久美子さんの作品は、次回ご紹介します。 
 

2012.03.28
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