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2019年8月17日のきょう、、
 330年前(1689年 ) 芭蕉は 同行者 曾良と、 暑さ真っ盛りの新潟県内を
    村上から親不知方面に 歩いていました。

岩波文庫 芭蕉自筆奥の細道』p108 に こうあります。

おくのほそ道 芭蕉 新潟 北陸道芭蕉
      (芭蕉自筆)            (読み下し)
  
これを見ると、芭蕉は 越後のことを 俳句にも 「おくの細道」にも 書いていません。 
  上記のように 鼠ヶ関から市振までの9日間を わずか 3行です!
  有名な 「荒海や・・・・」の句も ここには書かれていない。 
  雨天が続いたせいも あっただろうが・・・・ 心労や 病気と芭蕉は書いているが・・・ 
 
  でも、芭蕉は きちんと 見るべき所は見て 行くところには行っている。 
  それは 曾良の日記で分かる。
                                                                                        村上・新潟間
新潟・寺泊



同行していた曽良の
    『曽良旅日記』
には・・・・・・・・・・こうあります。

(太陽暦8月16日)
◯ 七月二日 辰の刻(午前7時半過ぎ、胎内市築地を)(たつ)。(塩津潟(=紫雲寺潟)・福島潟を繋ぐ水路を小舟で行く)喜兵方より大庄や七郎兵へ方への状は、愚状に入れ、返す。昼時分より晴、アイ風出(でる)。新潟へ申(さる)の上刻(15時半)着く(いつ)宿(しゆく)と云(いふが)、追い込み宿の外は不借(かりられず)。大工源七母、情有、借(かりる)。(はなはだ)(もて)(な)

新潟ふるまち明暦の新潟町復元想像俯瞰図

  ◯村上藩士斎藤喜兵衛から大庄屋七郎兵衛あての宿泊紹介状を使わなかったので、紹介状を、自分の手紙に入れて送り届けることにした。
  ◯「あいの風」とは、春から夏にかけて、新潟から富山・金沢・福井へと日本海沿岸で吹く、北や北東からの穏やかな風。あい。あゆのかぜ。南方角へ向かう北前船などの舟運には追い風となった。
        images_20190817200422760.png
  ◯新潟湊:七月一日から七日まで、新潟湊祭りで、近隣泊まりがけで宿泊・遊興客多く、旅籠の宿泊が困難な状況に遭遇した。旅篭は古町通二ノ町三ノ町(現古町通四番町五番町)に集中していたが、泊まれなかった。
  ◯大工源七:住所不明、大工職か、屋号が大工の旅籠かも不詳


(太陽暦8月17日)
◯ 三日 快晴。新潟を立。馬高く、無用の由、源七指図にて歩行す。申の下刻(17時ころ)、弥彦着。宿(神社境内の宝光院の説あり)取て明神(弥彦神社)へ参詣

(太陽暦8月18日)
○ 四日 快晴。風、三日同風(今日まで3日間あいの風で快適)弥彦を立。弘智法印(即身仏)像為拝(おがむため)、(猿ヶ馬場峠)より右へ半道斗行。谷の内、森有、堂有、像有。二、三町行きて、最正寺(西生寺)という所を、ノミズと云浜へ出て、十四五丁寺泊の方へ来タリて、左の谷間を通りて、国上(くがみ山)へ行く道有。荒井と云塩浜より壱里計有。寺泊の方よりは、ワタベと云所へ出て行也。寺泊りの後也。壱里有。同晩、申の上刻、出雲崎に着、宿す。夜中、雨強降。



※このあと七月七日の直江津今町での句会で披露された「荒海や佐渡によこたう天の川」の句であるが、4日の出雲崎の夜からずーっと雨が降り続いており、星や佐渡島は見えなかったことがわかる。

※伊夜比古の おのれ神佐備(かみさび) 青雲のたなびく日すら 小雨そぼふる  万葉集





伊夜比古の おのれ神佐備(かみさび) 青雲のたなびく日すら 小雨そぼふる  万葉集

  弥彦神社の神をたたえた 万葉集の和歌は、
  むかし 私が歌っていた 難しい歌詞の校歌と思った 自分が卒業した母校の校歌に
  似た単語が使われていたことを 最近知った。
  「かみさびる」「たなびきわたる」など、神と自然と地名が盛り込まれたものであった。
  小学校3年生3学期から 卒業までの 私には  無理だったですね。

新潟市立内野小学校 校歌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  1 弥彦角田の 嶺の雲
    たなびきわたる 有明の
    うらわにひびく 松風に
    声うちそうる 沖つ波

  2 流れて越の 野をひたす
    桜花咲く 新川や
    静田のほこら 神さびて
    月すむ秋の お筆山

      静田神社
       歌詞にある 「新川」と 「静田神社」のある「お筆山」です






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2019.08.17

きょう 7月26日の午後3時に、
  芭蕉・曾良は、 土肥実平の再建した羽黒山ふもと「黄金堂」の前で 立ち止まった。
  いまから 330年前のことだ。


『曾良旅日記』(おくのほそ道随行日記)  芭蕉46歳、 曾良40歳の時  
 
元禄二年(1689年)六月のこと (今から330年前)


九日 (太陽暦では、7月25日)
 断食。及昼テ、シメアグル。ソウメンヲ進ム、亦、   和光院ノ御入テ、飯・名酒等持参。申刻ニ 至ル。
 花ノ句ヲ進テ、俳、終。ソラ発句、四句迄 出来ル。

十日 (太陽暦では、7月26日)
  ・・・・・昼前、本坊ニ至テ、蕎切・茶・酒 ナド 出。 未ノ上刻二及ブ。道迄、円入被迎。又、大杉根迄被送。
 祓川ニシテ手水シテ下ル。左吉ノ宅ヨリ翁計馬ニテ、 光堂迄釣雪送ル。左吉同道。・・・・  

・・・・・・・《意訳》・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

九日 
   宿舎にて、出羽三山巡峰の修行で、頭に巻く締め を取って神前に挙げた。その式の断食を午前中に終えて、ソウメンが出された。その後、和光院会覚様(出羽三山の別当代理、えがく、最高位者)がおいでになって、メシや銘酒などが供された。お開きになった申刻(16:30)まで続いた。花の句を差し上げて俳諧の句会を終えた。わたし曾良が発句役をつとめ四句 まで完成させた。

十日 
   昼前に本坊へ行って、和光院会覚様より蕎切・お 茶・お酒 等をご馳走になることが、未ノ上刻(13 :15)まで続いた。下山道まで、俳人「円入」(近 江国飯道寺の僧で、偶然、滞在中)が迎え、見送りに出てくれて、大杉根=祖父杉(五重塔近く)まで私達を 送ってくれた。道を下り祓川で手を洗って、さらに下って随神門をくぐり三山の境内から出た。手向村の左吉(図司呂丸ろがん)の家からは、手配してくれて、疲れていた芭蕉は馬にのり、「光堂」=黄金堂までは、俳人「釣雪」(名古屋の俳人大橋ちょうせつで、偶然、 滞在中)が見送ってくれた。左吉も同道して鶴岡城下へ向かった。



 ※ 光堂=黄金堂
   普通は 「おくのほそ道」でも、平泉で、
      五月雨の 降り残してや 光堂
   と 芭蕉も句を作ったように、藤原三代の棺を治める、中尊寺の金色堂を指すが、
   
  ここ 羽黒山でも、(「おくのほそ道」には記していないが、芭蕉も使っていたであろう) 
   曾良が日記に書き残した「光堂」とは、「黄金堂」のことである。
   建久四年(1193年)頼朝の命により、黄金堂を 奥州藤原氏や義経征伐にきた 将軍源頼朝が、
   奥州征伐のお礼として、修理再建を、土肥実平に命じたというもの。
   中尊寺の金色堂が戦乱で燃えてしまったら、代わりに このお堂に金箔を貼る約束だったということから
   黄金堂といわれたが、燃えずに戦乱が終結したので、土肥実平は、用意していた金を付近に埋めたとも、
   持ち帰ったともいわれる言い伝えがある。

   その後、江戸時代初めにも 国替えでやって来た上杉氏の命で、直江兼続らにより 修復されたものが
   現在の建物と言われる。
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 (古絵はがきの黄金堂。芭蕉・曾良が来た時も、このような建物だっただろうと想像する)

   国の重要文化財に指定され、先年、再度修理を行う。  


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2019.07.25

 
昨日は 芭蕉が体験した 出羽三山の登山について、
  土肥実平が建設をした 「黄金堂」の前を、 芭蕉は
  案内役の図司佐吉こと (のちの俳人「呂丸」)の家に向かうために、
      太陽暦 7月20日の午後に、通過したこと。
  そして、7月26日の午後、佐吉が手配した 馬に乗って、鶴岡城下の武士、永山重行の家に泊まるために
      この 「黄金堂」前で、着いてきた顔見知りの名古屋の俳人 釣雪に見送りを受けて通過した。     
      曾良は「おくのほそみち随行日記」に、そう書いている。
 しかし、
  三山踏破の疲れからか、芭蕉は体調を崩し、鶴岡城下での句会も 途中で散会となった
  しかし、この茄子の漬物は 芭蕉の 暑い中を山登りした、熱中症気味の身体には、熱を冷ますに効果があったようだ。
  曾良の記述は こう書いてある。

         曾良旅日記 茄子
   そこで、それにちなみ、
   今朝は その鶴岡市の生産者が作った、茄子の漬物を おいしく食べた。
   この地の 茄子は、「民田茄子」という 小型で丸い茄子のようだが、
   今朝の 私が「成城石井」で買った茄子は
   普通の茄子の子供のようだった。

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※ インターネットでの 茄子販売会社では こんなふうにうたっている。
 果たして 芭蕉が愛したかどうかはわからないが・・・私たち夫婦は 好きな茄子である。

    民田なす




2019.07.24
   
「 五月雨を 集めて速し 最上川」の 最上川から上陸して
   芭蕉と曾良は、北方から回り込んで、ここ手向(とうげ)村にやって来たのだ。
   この村には 、土肥実平が 建てた 正善院黄金堂があり、門前を通りました。

   羽黒山地図

   羽黒山地図黄金堂呂丸屋敷跡

 芭蕉・曾良が 出羽三山神社への 案内・取り次ぎを頼んだ 呂丸の屋敷跡。  
図司呂丸 ずし-ろがん (?-1693)  江戸時代前期の俳人。
    出羽国羽黒手向(とうげ)山伏法衣の染物師。芭蕉の「おくのほそ道」の旅に,、
   出羽三山を案内。元禄5年伊勢詣での途中,江戸深川に芭蕉をたずね,「三日月日記」の草稿をおくられた。
   元禄6年2月2日 京都の各務支考宅で死去。通称は左吉。著作に「聞書七日草」。
          (辞世句) 消安し 都の土ぞ 春の雪
    突然やっていた芭蕉・曾良を、出羽三山神社の役僧神官へ橋渡し、山内を案内し、羽黒山・月山・湯殿山を
   まわり、芭蕉を馬に乗せて 鶴岡城下まで送り、句会にも参加したことから、本格的に、芭蕉の教えを受けて
   上記の修行の旅にも出て、京都で客死した、出羽三山の僧神官山伏などの衣装染め物師。 40歳未満で死。

呂丸邸跡 羽黒第一小学校前 img_5.jpg
 
 旧手向村の烏崎稲荷神社へ行く 案内碑(左下) 
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烏崎稲荷神社境内の 呂丸辞世句碑 
  (辞世句) 消安し 都の土ぞ 春の雪
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 呂丸の案内で、随身門を通り、下って 祓い川を渡り、左手に 羽黒山五重塔をみて 長い石段を登り
   芭蕉と 曾良は 出羽三山神社の境内へ入った。
それは、太陽暦で 7月19日のことである。
   
  月山湯殿山へ地図
  その後、山中を参拝したり、句会を開いたり、月山へ登り 1泊(太陽暦7月22日)
  湯殿山の秘巌をみて、23日に、三山神社の宿舎へもどった。甚だ疲れた様子であった。
  24日は 参拝 休養。  25日に 修行参拝の総仕上げでの断食。お昼まで。 昼食はソウメンであった。
  26日に、本坊でお別れ、逆コースで、
  石段を下り、五重塔を右手に、祓い川で手水を使い、随神門から下界へ出る。  

手向村をくだって、呂丸の家まで来て、荷物を整え、疲れている芭蕉に 呂丸は馬を用意してくれて、
  鶴岡城下まで乗ることになった。
 
正善院と黄金堂

 呂丸の家を出て、すぐに、見えてくるのがこの風景。
  右の仁王門をくぐると 正面に 土肥実平の建てた「黄金堂」が 残る。 
  芭蕉・曾良は、この門前を、 出羽三山への行きと帰りに 通過したのだ。
 
  芭蕉と親交のあった俳人「釣雪(ちょうせつ)」(尾張国名古屋の大橋左衛門、『あら野』などに入句)が、
  偶然に、出羽三山に来ていて、芭蕉との別れを惜しみ、山を下り、馬に乗った芭蕉を見送りに付いてきており、
  この黄金堂の門前で、見送り別れたということが、曾良の日記にある。 
  ※ ↓下の赤字アンダーライン参照
 
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 この「黄金堂」は 土肥実平が 源頼朝の命令で 義経・奥州藤原氏への奥州征伐の際に
   出羽三山の僧兵・山伏の支配を任されて、この地で 「平泉金色堂が火災で失われたら、
   代わりに ここに黄金のお堂を建ててやるから、出兵しないように。」と命じて、
   黄金堂の約束をしたが、ご承知のように、平泉金色堂は燃えず、白木のお堂だけを残し
   この地をあとにしたという伝説のお堂である。
    ここには 堂内 本尊 真裏に、土肥実平の木像があることで 私たち夫婦が見にいった。
   翌年、土肥会の役員や城願寺住職さんが 見にいった。
   一昨年、屋根の修理が行われるにあたって 寄附の申し込み募集があったが、土肥会は
   決断しないので、 
   私の名前で、屋根の銅板裏に 「土肥会 加藤雅喜 陽子」を書いて貰うよう喜捨をしたお堂である。

この番組で 久しぶりに お堂の健在な 様子を見た。

    ちなみに 実平が建てさせたお堂の修理を行って今に伝えたのは、
     戦国時代末期に、領国をうつされてきた、上杉景勝の家老、
     「愛」のカブト前立てを付けた直江兼続であった。
  
 
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  源 義経好きの 芭蕉であるから、この手向村の 染め物師であり、山伏や神主・僧侶の着る物を染め直していた呂丸(曾良は
下記のように「佐吉」と 本名を書いているが、まだ、号を持つ俳人ではなかったから 当然である。)に、
  地元の人たちが 「光堂」と 呼んでいた 「正善院黄金堂」 の建設者が、土肥実平という、源平合戦で義経を助け、平泉での戦いでは、日本海の裏方に回り、平泉の金堂が 若し消失したら、ここに代わりの黄金堂を建ててやるから、藤原氏・義経軍に参加せずに、頼朝に味方するよう説得した 取引材料の 建物だと、 しゃべったかも知れない。

   その土肥実平の名前を聞いていたかもしれない。そう思われる
   わたしには・・・・実平:義経が同じ道を通った 因縁の深さを思い知ることになった。

『おくのほそ道』には 芭蕉は 書いていないが
  同行した曾良は 『曾良日記』に、下線部のように 書いている・・・・・

 日記の本文
◯十日 (太陽暦 7月26日) 曇。飯道寺正行坊入来、会ス。昼前、本坊ニ至テ、蕎切・茶・酒ナド出。未ノ上刻ニ及ブ。
  道迄、円入 被レ迎。又、大杉根迄被レ送。祓川ニシテ手水シテ下ル 。左吉ノ宅ヨリ翁計馬ニテ、光堂迄釣雪送ル
  左吉同道。々(道々)小雨ス。ヌルヽニ不レ及。申ノ刻、鶴ケ岡長山五良右衛門宅ニ至ル。
  粥ヲ望、終テ眠休シテ、夜ニ入テ発句出テ一巡終ル。

○十一日 折々村雨ス。俳有。翁、持病不快故、昼程中絶ス。 

  本当に 芭蕉は 疲労で 句会も満足に開けなかったことがわかる。 「大夏」の時期、昨年は熊谷で41度を越えたその日である。山形も夏の高温は有名である。


2019.07.24


この日 太陽暦に直すと 6月18日である。

  福島から 「飯坂温泉」に向かう途中、「医王寺」へ立ち寄って

源義経が 
  奥州から 頼朝と会うた為に 三嶋から沼津への途中、黄瀬川に置かれた
  頼朝の陣へ駆けつけたとき、
  連れて行った
  佐藤兄弟の墓に お参りをした。

怪しい若造らが来たとの知らせに、 皆が身構えた際に
  土肥実平が、頼朝に取り次いだとは よく言われていることであるが、

  それ以来、義経について 木曽義仲との大津堅田合戦。
  平家との 一ノ谷合戦と、
  一緒に戦ったが、
  四国の 屋島合戦で 義経の部下の 
     この佐藤兄弟を、失う。    『平家物語』に くわしい。
  その後日談も 涙を誘う。

  実家のそこへ 義経好きの 芭蕉も お参りした。  
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 この 医王寺には、
  私の母親の弟 
  福島の叔父さん夫婦の お墓がある。
  
  また、 お墓参りに 行きたいものである。


 

2019.06.18
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