このブログ 2017.4.12.
  こんな風に 書きました。

   この星野 源さんの衣装について あなたは知っていますか
   先日から 連載の 渋谷区猿楽町・・・
   TSUTAYAの店頭に 是非 並べて欲しいですよね。 あるものを、 その第三弾です。
   近日 連載です!


  というわけで・・・・・あした 書きます。



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2017.04.18

唐橋 充 さんのおじいさんは、
   たしか 唐橋 東 といって
  喜多方市の市長を
 長く(四期でしたかね)つとめました。
  あるひとは「学校の先生で 、校長さんでしたよ」と
  幼い子供の私に 紹介してくれたように思い出します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私が、小学生より小さかった時だったのか 、
  小学生低学年の時だったのか、よく覚えていませんが、
  お酒を飲めない頃の話です。

喜多方で 商店をやっていた 私のおじいさんは、
  自分の娘が産んだ 最初の孫でしたので、実家のある喜多方へ来て生んだ
  私の名前を「雅喜」と決めて、町役場へ届け出に行ったりして 
    私をかわいがっていました。
  また、今の私のように お酒大好きで、
  商工会の集まりや、新年会、忘年会などに出かけていました。

そんな私のおじいさんに付いての思い出です・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  あれは かなり寒い季節でした。
  冬休みに遊びに来ていた、私が、 一番、 孫の中で年長だったせいなのか、
  孫を、自慢したかったのか、おじいさんが「夕飯に出かけるから連れて行くぞ」と言いだし、
  「やめなさいよ」と、とめる おばあさんたちの言うことを聞かずに、
  私を連れて出ました。

行った先は 大人の集まる料亭二階の大広間の宴会場でした。

 ※東山温泉の「向瀧」の伝統ある建物のような座敷しつらえが思い出されます。

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ちょうど この時代に木下恵介監督が 『惜春鳥せきしゅんちょう』という映画を作った。
   その中には 会津若松城の「白虎隊」の若者の自刃による死と、この時代に、子供の時に白虎隊演舞をしていた
   少年達が成長して、就職・進学で東京へ出たりしたものの成功できない生活を抱えて、故郷に帰ってくる・・・・・
   東山温泉での跡取りのなかまの旅館に集まって 今・昔を語る・・・ 芸者さんも出る・・・ 
   この映画デビューの 若い男俳優が出ているので、 木下恵介 初のゲイ映画との評価もあるが、
   若山 彰が 唄う同名の映画主題歌もヒットするなど気に入っていたので
   私には あまり気にならない、若者自殺防止映画という見方も出来ると思うものであった。
津川雅彦(第一作)、小坂一也 、石浜朗、山本豊三、川津祐介 、有馬稲子、佐田啓二、伴淳三郎 、岸輝子、
十朱幸代(第一作)、藤間紫 、村上記代 、清川虹子 、伊久美愛子、笠智衆 、末永功 、宮口精二、すごいメンバーです。
       惜春鳥1

◆話を戻します・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
おじいさんの隣に、私むけの膳を、急遽 用意してもらって、
  私は ポツンと小さく  大人の間に挟まれて話し合いの様子を見ていました。
  が、勿論    難しい話だったようで 何も覚えていません。

  そのうち 大きな拍手で、会議が終わり、
  座敷の各お膳に、お酒が運ばれて来ました。
  私のところには、サイダーでしたよ。三ツ矢サイダーだったかな。

あとは、おめでとうとか、万歳とか、演説風の大きな声が入り乱れて、
  芸妓さんたちが、おおぜい入って来て、お酒が注がれ、
  屏風前では、 おめでたい踊りが 始まりました。

  私の前にあるのは、子供用のお膳ではなく、大人向けの料理の膳で、
   子供の私が、美味しいものが出ていませんでしたからつまらなかったのですが、
  次々と挨拶に来る、人に、
  おじいさんは 
  孫の私が、新潟に住んでいて、冬休みなので、一人で列車を乗り継いでやって来たことなど、
  自慢そうに話していました。    
   
       私のサイダーがなくなり、ジュースも飲み干し、
  お酒が好きなおじいさんは、私に「ビール飲むか?」
  と聞いたので、「ウン」と答えて、
   それまでも 時々 、父や おじいさんの相手をしていた 私は、
  コップの 半分くらいのビールを飲み干していました。
 
  「今から この飲みっぷりは 、頼もしいねえ」
   お客様から 驚かれた声が 褒められたように聞こえたものでした。
   コップ一杯 二杯ぐらいは、平気な私でしたね。いつでも。
   キリンと朝日の味の違いは知っていましたから。
   
そんななかで、一人の主客がやって来て、
  「潔さんの お孫さんかあ〜   よく、遠くから喜多方に来てくれたね。ここは
   あんたの おじんちゃ、おばんちゃたちが住んで、苦労して作って来た、良い町なんだ。
   どんどん遊びに来て、住んでくれたら嬉しいね、市長としては…」といった話だった のだろうか
   細かい言葉遣いは 覚えていないが 
  最後に
  「そうかあ、おじんちゃは、名前に 「喜」 を使ってくれたのか、嬉しいねえ。」ということを
   言われたことだけは ハッキリ覚えていて、
  私が、自分の名前の意味、喜多方生まれだから「喜」を付けられたということを、自覚した
   最初であった気がしている。その人物が、唐橋市長さんだった。

 今から考えると、この宴会は、市長の後援会の忘年会であったらしい・・・
         その宴会は つづき・・・・食べるものがない 私に、その後、支那そばを取ってくれた。

    宴会が果てて、酔ったおじいさんのために、タクシーが呼ばれて、いっしょに乗って帰って来た。
   宴会の後に タクシーで帰るという 私にとっては 初めての贅沢な体験であった。

その後、 唐橋市長さんは、亡くなった私のおじいさんの葬儀に 弔辞を読まれたか、弔問に来られて、
   後援者、友人としての付き合いが続いていて、実家の息子さんに引き継がれていった。
   若くして亡くなったおじいさんの跡取りの葬儀にも、顔を出されたような記憶がある。
   実家の仏壇の部屋には 唐橋市長名で、寄附金の感謝状が額に入れて掛けられていた。
  
   そんな人の お孫さんが、唐橋 充 さんであったのだ。
   その 充さんには 勿論、 面識は ないけど。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   私が いつもお世話になって入り浸っていた、お向かいのかき氷屋さんをやっていた
   瀬戸物店は 坂内さんであったような気がしている。
   昔から金魚・熱帯魚を販売されている。 昔は かき氷屋さんもやってくれていた。

   実家のスグとなりは、喜多方ラーメンの原点 「源来軒」であるが、
   喜多方の多くのラーメンでも、有名な「坂内食堂」があるが
     京都でも、 新都ホテルや近鉄ホテルに泊まっても 寒いと熱いラーメンを食べたいときは
     数ある京都ラーメンを食べずに、京都駅ビルの上の方の 坂内食堂へ行きます。
 これまで
   唐橋さんや坂内さんが多い 喜多方だから 
     有名人が出ても気づかなかったし、気にしなかったが・・・

この 喜多方ラーメンを 売り出しての町おこしも、 唐橋市長の時代であった。
    無題


  町外れの 銀杏のきれいな 長床(ながどこ)の改修保存で 重要文化財に残してくれた。
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  温泉地 熱塩温泉までの、喜多方ー熱塩の間の「日中線」廃止も、その線路跡地を舗装整備して
  サイクリング道路として 桜を沿道に植える運動を応援を始めたのも その時代であった。
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  埼玉県鴻巣の旅行会社の案内
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  設立の経緯 看板
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2017.04.12



自分では おどれないけど 大好きだった
   テレビの  恋ダンス

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  この星野 源さんの衣装について あなたは知っていますか

   先日から 連載の 渋谷区猿楽町・・・
   TSUTAYAの店頭に 是非 並べて欲しいですよね。 あるものを、 その第三弾です。
   近日 連載です!




2017.04.12


先日 さんまのの司会する番組を観ていて

   水野美紀さんが出演していて 
       年下の旦那さんが 唐橋 充さんと知りました。

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  そう、喜多方市出身の この俳優さんですよね。 
             イラストレーターとしても美的才能があるらしい。
       
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  この冬 日本橋で 展覧会を開催した いま、評判な人。

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福島県喜多方市で 
  有名な 唐橋さんと言えば、「会津ほまれ酒造」の 唐橋社長と アナウンサーの唐橋さん。
  そして この 唐橋 充さんだろう。 
  こちらの唐橋 充さんの家は、
   私が生まれた喜多方の家の 私のおじいさんが、 この充さんのおじいさんである
   唐橋 東さん 喜多方市長を応援していて、私も知っていました。 

  詳しくは次回に。

2017.04.12



4月9日の このブログの質問ですが・・・
渋谷区猿楽町の
   この写真の 長屋棟では、何が作られていたのか? でしたね。

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   のちに こんな風に やや大きな建物で、工場・事務所が出来ました。

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回り道ですが、上の古い写真で、この工場のもっと左の木立奥にあった工場では、
    下の写真の コレが作られていました。

     ヘンミ計算尺

   孟宗竹で作った木材の上に 白のプラスチックを貼り メモリを刻み、中央部分がスライドする。
   さらに 左右にスライドする ガラスの中央に赤い細い線が1本ひかれていて、数値を読み取る。
   概算が計算できる 主に かけ算 割り算や、定数を掛ける、÷などという計算を、概数をスライドで
   読み取るという、自動の回転する計算機が発明され、電卓になり、パソコンになった今では、
   もう、学校では教えなくなってしまった。 「計算尺けいさんじゃく」である。

   でも、1951年(昭和26年)の新しい学習指導要領で、中学2年生に、義務づけられたのだからすごい。
   だから、私も 新潟市立寄居中学校で、中原重男先生に習ったのだ。父親にも習ったのだ。買って貰った。
   全国大会も頻繁に開かれた。商業高校生徒などには、ソロバン大会と並んで注目の技能検定であった・・・・

   つい最近まで 我が家には 船橋の義父の計算尺が残っていた。
   その会社の この竹の計算尺は、世界No1で、90%以上の普及率であった。
   電子計算機のない時代には、戦艦大和の造船設計計算でも使われたほどであった。

 この猿楽町時代の会社名は 「逸見次郎商店」、のち 1924年火事になり、
    のち、昭和16年に 今の和光市白子に工場を移した。(現在跡地は、マンションになっている)
    現在の会社名は「ヘンミ計算尺」  そう、お茶の水 ニコライ堂前の 旧日立ビルの裏にある。
   この「計算尺」も 今の代官山の蔦屋で 展示して売って欲しいものであるが・・・・
    質問の会社に話しを移すが それこそ 
    蔦屋TSUTAYAで 売ってほしいものなのです。 









 それでは その 「逸見次郎商店」の 手前の 質問の会社では、何を作っていただろうか?

 答えは コレです。
   そう、「ヨット鉛筆」です。 

   ヨット鉛筆

   いまでは、「三菱」・「トンボ」の二大会社が占有している鉛筆業界ですが、
   それ以外にも 多くの会社がありました。 比較的長く製造していたのが「コーリン」でしたが、
   記憶がありますか?  ▲のマークでしたね。

   それらの会社より 歴史があり、昭和8年に「ヨット鉛筆株式会社」となり、
   戦後復興時の 昭和20~30年代には、海外へ輸出する会社となりました。大もうけで
   会社の慰安旅行は 熱海まで貸し切りバスで乗り付けるという好景気でした。
   そのバスの列が 今の「代官山駅前」交差点から 「猿楽町小学校裏」交差点付近まで、
     社員と家族の乗車を待つ写真があります。

    写真猿楽町1
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  すごい! 12台ですね・・・・



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   この 「ヨット鉛筆」の会社と「ヘンミ計算尺」の会社が、並んで営業を始めたのですから、
   この戦前の猿楽町9番地は 文具のメッカだったのですね。
   だから TSUTAYAさんに この二つ鉛筆と計算尺を並べて展示 販売をして欲しいですね。

 すでに 計算尺は 電卓やパソコンに代わられて 昔風の上の孟宗竹の計算尺は作っていないようです。  
 そして、ヨット鉛筆は 昭和42年10月に倒産したというのです。 もう作っていません。
  だから インターネットで 高く売られています。昭和世代が求めています。

  市川市本八幡には、昔 昭和44年頃から、私が住んでいたアパートに近いところで 
  5年前に、ヨット鉛筆を集めて、売ってみたいという女性が店を出して
  SNSのみの噂で 夜だけ開く文具店「ぷんぷく文具店」として 注目を集めています。 
   
◆次回は コレについて 書いてみましょう。
  私の話は広がりますよ。 この代官山・猿楽町の場所は、 
  
  ①ここで 江戸時代幕末から明治の初めに、畑作をやり牧場をつくっていた武士達がいたこと。
    その、牧畜技術を学んだ武士が、明治になり 成田の御料牧場でも技術を習得。
  ②その跡地が、毎年、桜と発着する飛行機が同時に自分たちも入れて写真が撮れる「さくら台」。
  ③その技術者の一人が、故郷、下関市防府へ帰り、牧畜を瀬戸内地方にも広めて、松下村塾の
    塾生に、資金を提供し保護した。
  ④自分の自宅用地として購入した場所が、800年前に土肥実平が
    壇ノ浦の情報を得ようと作った出城「土肥山」土肥城」であったことを知り、石碑を建てた。
  ⑤それを、すすめてくれたのが、湯河原温泉で静養した 乃木希典大将であったこと。
  ⑥その後、畑地から、住宅地へ代わっていく中で、猿楽町付近は 官人政界人らの屋敷が出来た。
  ⑦その一人が 西郷従道で、その一人がのちに外交官となって家を新築。玄関への石段を当時流行の
    大理石のような 湯河原の白丁場石を使って洋館を作った。(現在 横浜へ移され「外交官の家」)
  ⑧戦後 昭和30年代後半から、渋谷に近い そこが文化の発祥地になることで、若いヒッピー達が
     独自の文化を、その外交官の家や周辺に集まり住んで、「平凡」「平凡パンチ」などの発生となった・・・・ 
   
  湯河原や土肥に関わりのある場所が TSUTAYAのある 代官山・猿楽町・南平台・・・・・なのですね。

まあ、次回・・・



2017.04.10
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