先日 
  新潟高校の同窓会のお知らせが来ました。
  新潟高校は 新潟市の海岸砂丘の松並木のに近いところに建っているので、
  昔から、地名である 「青山」を 愛称として使っていましたから 旧校歌や応援歌にも 
     青山の言葉が使われてきました。 同窓会も その名前になっています。

  「往復はがき」に
      (郵便はがきと印刷されていて 郵便往復はがきと印刷されていない 失敗はがきです。コレは)
  物故者の名前がありますが、
  驚くことに 「小柳憲夫」君の名前がありました。 

  同窓会

  退職後 このところ れんらくのやりとりはしていなかったのですが、
   彼とは 新潟高校の卒業後、東京へ出てきた以降、唯一の友人としてやりとりしていました。
   新潟高校の運動会である「清陵祭」の  1年次に、縦割りチームの 二人とも応援団になって
   応援スタンドの組み立てや資材の調達、 応援の振り付け、練習など、クラスのみんなへの指導に
   熱心に取り組んだ中で、友達になり、 
   陸上部で 走りが格好良く、清陵祭のチーム対抗リレーでも 実力を発揮しました。
   顔も 姿勢も格好良く、朗らかで ちょうど加山雄三のような人気者で、私が かなわない
   お金持ちのお坊ちゃま雰囲気の高校生でした。

  大学卒業後 年賀状で、銀座の「天賞堂」につとめたことを知り、訪ねて行ったりしました。

  その縁で、私たち夫婦の 婚約指輪を彼に頼みましたし、結婚式にも 
   新潟時代のたった一人の友人として 出席してもらいました。 
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このはがきを見て 私たち夫婦は 大変 残念に思い 
   「 スポーツマンだったのに、亡くなったんだあ 」
   「 残念だね 」
   「 今度 あの 婚約指輪の石が 小さいので 今度は 大きいのを頼もうかと思っていたのに・・・」
   と、妻が 言っておりましたよ、小柳君。
 
   ご冥福を お祈りします。
 

 と、 コレを書いている 今日は 私たち夫婦の 結婚記念日でしたよ 小柳君。
   今日は 薔薇を買って 食卓に飾りました。 ワインを飲みました。




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2017.05.24





こんばんは 妻が留守で
  私の夕飯は 用意していってくれた  カツの卵とじ どんぶり= カツ丼になった。
  自分は、単に鍋のタマネギを醬油で煮た甘い汁に、カツを放り込んで、玉子を溶いて
      固めただけのものだが、こんな風になった。

  ホントに 久し振りの カツ丼であった。 
    これを見て  急に、父母のことを思い出した。 今から50年前のことだ。

     かつどん1

新潟市は、今では カツ丼といえば、所謂「ソース」カツ丼:が 主流であるが、
   福島県喜多方市生まれの母親と、戦争帰りで、昭和22年に結婚した父親の仕事は、
   最初は 祖母が、 戦後いつまでも帰ってこない、九番目の子供(父のこと)が、
   いつ帰ってきても 暮らせるようにと その家を買ってくれて留守を守っていてくれた
   場所は 旧新潟刑務所の隣で、料亭行成亭の裏ではあるが、
        (今では「地獄極楽小路」というらしい)
   市内繁華街の古町や本町へ スグに出られる近くて便利な、西大畑町に
   その一軒家を用意していてくれた。
   (冠木門のある、明治10年建築と、下足箱の引き戸の裏に墨書してあった。
    古町の芸者さんが暮らしていたという話であった)
   おじいさんが、すでに 父が小学校入学前に亡くなっていたので、おばあさんは
   兄弟の一番下で、徴兵検査受けた途端に召集されて、10年以上転戦していた末子を
   かわいそうだと思っていたのだろうと思う。
   その 父が 終戦してしばらくして 戦争病院から帰還して、新潟郵便局へ勤務し、
   結婚。私が生まれた後、次いで転職して、
   石川県羽咋市の「北陸農政局邑知潟干拓事務所」へ勤務のため 石川県へ転居した。
   私が 羽咋小学校3年まで在籍した羽咋町。私の弟が生まれた羽咋。 
   金沢から能登半島へ1時間弱の羽咋であったから、 
  味付けは金沢風・京都風であったろうから、我が家は卵とじのカツ丼になっていた

   さて、父が、石川県から故郷の新潟へ転勤になり、今は新潟市内になっているが、
   内野町七区の西川と新川の交差する水路橋の脇にあった・・・

        kaihatsu02.jpg

   「北陸農政局新川右岸水利事業所」。その敷地内にあった、官舎へ引っ越してきた。
   西蒲原郡の干拓や排水路、排水機の建設が仕事であった。
         
         7_shinkawa_gaiyou.jpg

  だから 私は 内野小学校の卒業で、新潟市の寄居中学校に入学するため、
   母と子供2人は、すでに 祖母が6年前に亡くなって空いたいた 上記の
   新潟市内の西大畑の家を改築して住むことになり、改築工事が始まった。
   内野小学校に通っていた弟も、新潟小学校3年生に転入したので、改築完
   成までは、兄弟2人ともバス通学であった。
   
西大畑の家の改築が終わり、一家は 内野町の官舎から新潟市の西大畑へ転住して 
   父親は、これまで通り内野町の事務所へ通勤するという、
   私たち 子供と 逆方向の通勤生活になった。
   
私が高校に入学する頃、新潟市内に 新しい事務所ができるので、
   そこへ転勤希望を出したようで、父は 当時、新潟県内の天然ガスを使用する
   井戸が多く、それは地下水も一緒にくみ出すことから、広汎に地盤沈下がおきていたので
   せっかくの排水路が ずたずたになり、排水・用水ができない事態になっていた。
   この対策のデータ収集の仕事であった。 

新潟市地図

   昭和38年に [北陸農政局新潟地盤沈下対策調査事務所]という名前となった この事務所は
   昭和35年にできたというので、異動には 良いチャンスでした。
    仕事内容は 昭和28年頃から急激かつ広範囲に生じた新潟平野のおける地盤沈下について、
   その原因の解明と対策方針樹立のため・・・といわれますが、
   引っ越した途端におこった「新潟地震」の発生で、仕事量は激増しました・・・
   一度に、地盤沈下と隆起、地震での地盤の液化現象が起こったからです。

   昭和40年「信濃川水系農業水利調査事務所」と名称を改め、信濃川水系、阿賀野川水系及び
   関川水系の農地、農業用施設及び水利状況等の実態把握をする事務所になりました。
  
その事務所のあった場所は、今も、上の地図のように、越後線、法務局の合同庁舎と、後に新潟駅前
   にあった NHK新潟放送局が移って来た その間に囲まれており、名前は、現在、
  「信濃川水系土地改良調査管理事務所〒951-8133 新潟市中央区川岸町1丁目49-3となっています。

後に 私が大学に入る昭和42年に、豊栄町葛塚の葛塚中学校の隣に官舎があり、隣駅の黒山駅前に
   事務所ができた「北陸農政局 福島潟干拓事業所」へ 父が異動しました。
   昭和41年から福島潟干拓事業が始まりましたが、その年の7.17には下越水害。仕事量が増えて
   異動が要請されたようです。着任した42年に、また大水害が発生しました8.28羽越水害です
   結局、水害対策の遊水地の構想も採用されて、現在は公園化されています。
  
   ( 「福島潟」については 今年亡くなった、雪国あられの小山君が、NPOでその野鳥観察
        などに取り組んでいたのも、因縁があったのかと思いました。その干拓は、私の父が
        関わっていて、私も、大学入学後のアルバイトで、父の勤務している事務所で、仕事を
        2週間したことが初めてでした。初めて電子計算機なるもののキーボードに触れた経験と
       バイト勤務時間が終わる、午後5時直前に、事務所のある白新線黒山駅を 
       轟音と黒白い煙を吐きながら 大阪から青森へ、夕陽に照らされながら 北へ走って行く
       ジーゼル特急「白鳥」を 窓から見たのも、思い出です。
        
        特急白鳥キハ82    
        昼間走行の日本最長,大阪-青森間1040kmの運転距離を誇った 日本海縦断 特急「白鳥」キハ82

               このように追加の話しも多いのですが 後日 紹介します)
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て、この私が高校に通っていた3年間 父親が勤めていた地盤沈下の事務所では宿直制度がありました。
   交替で 事務所の宿直室に宿泊して、万一の対応を努める仕事です。父親は二週間に一回は土曜日
   の夜に宿泊して、日曜日の朝がた 日曜日直の人に 交替して 帰宅していました。
   その土曜の夕飯は、 父の好きなカツ丼を できたてで届けるというのが 私の仕事でした。

   土曜日の夕方に、母は、いつも 温かなカツ丼を作り(普通のフタ付き丼ではなく) ラーメンの丼の
   ように大きい器に盛り付け、皿でフタをして、沢庵や紅ショウガ、白菜、味噌漬けなど、時には他の
   おかずも 丼の上に重ねて、(サランラップが普及して来た頃) 冷めないように、新聞紙や包装紙で
   包んで、 それを風呂敷で丸く包んで 手に提げられるようにして持たせてくれました。

  私が毎日 新潟高校へ通学する自転車で、片手に風呂敷のカツ丼を下げて、片手運転で、持って
   いきました。 地図の通りです。
    空色が通学路、茶色がカツ丼路です。往復は交通量を考えて変えていました。

事務所は、当時古い木造の再利用の建物で、がらんとした暗い事業所と、つづきの簡単な流し台や
   いろりを切った畳敷きの 宿直室だけが 電灯が付いていて明るく、TVを見ていたものです。 
    父は 自分でお茶を入れて まだ温かいカツ丼を、 おいしそうに食べていました。
   カツ丼を食べ終えて、丼を洗って 私が持ち帰るころには、父が好きだったプロ野球ナイターが
   始まろうかという時までいたこともあり、野球ナイターを見ながら、楽しんで食べてくれたものです。

   冬が来ると、「気を付けて 帰りな 」と、丼は 翌日の帰宅時に 自分で持ち帰るということが多かった
   ように思います。それは 私が帰るに 暗くなり、雪も舞う季節であったからです・・・・

   運搬の駄賃として 100円だったかを(板垣退助のお札から 玉になった・・・・)もらって ポケットに
   入れて、帰宅しました。
  
カツ丼運びは 私にとって その味と 匂いと、温かさとが 忘れられません。 
    それは、ぶっきらぼうな 男子高校生が オヤジと ちょっと 話せる機会でもあったのです。

   父は 今も生きていれば 大正4年生まれですから  ちょうど 100才でしょうか、
   今晩は  カツ丼で 父親を 思い出しました。

  

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2016.12.23

砂の町 ニイガタ は、
 砂丘の話から 
 亀田郷の 田舟による深泥水田 の稲作りの苦労と、排水事業による乾田化の話もしてくれました。
 農林省北陸農政局勤務だった 私の父親 加藤一市の仕事は、まさに これでしたから。
 そして ニイガタの高校の講師をし始めた時の 私の社会科のバス社会見学はこの亀田郷を廻ったのです。

  DSC02040.jpg
2016.07.31

きのう  NHKテレビ「ブラタモリ」

  新潟は「砂の町」というテーマでした。 

新潟高校の卒業生から、「見ろよ!」と 先週 メールが来ていたので・・・・・
  
 子供の頃 私が 西大畑の自宅から
  夕方、西堀通り一丁目の 加藤おじさん・おばさんのいえで、
  ご馳走になって、 
 盆提灯をともして この堀端を 不動院まで お墓参りに歩いて行くのが、例でした。 
 下の 昭和の初めの 彩色写真が 「ブラタモリ」で紹介されました。 

DSC01949.jpg


2016.07.31

富山君、 白鳥君から
            きょう メールが来て

  NHKTV「ブラタモリ」新潟を見ろ! と   

  先週予告で、万代橋を背に、

      タモリ新潟1
  
  最後は 「鍋茶屋」での お座敷芸になるらしい 
 
      鍋茶屋


   ちらりと 砂丘の急な坂道が写ったのだが・・・・
     旧二葉中学校への 西大畑の坂道かと思ったが そうではない。
     日和山海岸への坂道だろうか? 不明。



    そんな中で 寄居中学校の 1年6組の クラス男子の写真が見つかりました。
    
    わたしは、最後列右端の佐藤君と、鍋田君の間にいる。
    先日 亡くなった 小山君も そのまえ列、青木印刷の青木君の隣に 二枚目で写っている。
    その斜め後ろが 麻生歯科の麻生君。最前列には不動院の天野君が写っている。

    寄居中学1-6男子



2016.07.20
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