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今朝の 「湯河原新聞」さん 
  ご紹介 ありがとうございました。


湯河原新聞30.8.
湯河原新聞9月21日





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湯河原新聞9月21日




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2019.09.21

▶ 前の記事のつづき

③『玉葉』によれば、頼朝が 文覚を 木曾義仲のもとへ遣わし、
         平氏追討の懈怠や京中での乱暴などを糾問させたといいます。
    それなら
       この時に この大威徳寺のある場所を 通過したと考えられます。
          
    でも、どうして 東海道を 通らなかったの? こんな山中の街道を 通過したの?


  よく考えたら 大笑いでした。
    大威徳寺のある 下呂と中津川の間を通過したのを 
    義仲の木曽に 錯覚しました。 

   木曽義仲へ 文覚を使わしたと言っても、 
    頼朝が義仲に 注意をするのは
    義仲が 京へ入ってからのことで
    頼朝は まだ鎌倉にいて 先をこされたあとからですから・・・・・ 
    義仲は 木曽にいたわけでは無いのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 正確に 年代を 考えてみましょう。 
    上記の「玉葉」の記述に従えば、木曽義仲が 京に進軍して入京。
       滞在していた時であることが分かります。

    ついには 頼朝が 実平や義経らに命令して、
        平家征伐の前に 大津堅田で 義仲を滅ぼした期間になります。
    
    下のような記事から 計算できますかね。

寿永2年(1183年)7月25日、都の防衛を断念した平氏は安徳天皇らを擁して西国へ逃れた。
  なお平氏は後白河法皇も伴うつもりであったが、危機を察した法皇は比叡山に登って身を隠し、都落ちをやりすごした。
  7月27日、後白河法皇は都に戻る。
  『平家物語』では、「この20余年見られなかった源氏の白旗が、今日はじめて都に入る」とその感慨を書く。
  義仲は 翌日28日に入京、源行家と共に、蓮華王院に参上し、後白河法皇より 平氏追討を命じられる。

       この半年間の事でしょうか

寿永3年(1184年)1月6日鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国へ入ったという噂を聞き、義仲は怖れ慄いた。15日には自らを征東大将軍に任命させた。平氏との和睦工作や、後白河法皇を伴っての北国下向を模索するが、源範頼・義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされる。義仲は京都の防備を固めるが、法皇幽閉にはじまる一連の行動により既に人望を失っていた義仲に付き従う兵は無く、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した(宇治川の戦い)。
 戦いに敗れた義仲は今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びるが、20日、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にした(粟津の戦い)。九条兼実は「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤と比するに、猶その晩きを思ふ」と評した。享年31。

 この期間でしょうか?  
 いえいえ 文覚が 大威徳寺を作るとか そこへ向かったという記事がありません。
 もっと もっと のちの時代でなくてはなりません。
 なにか錯覚がまだありますね、私には。 

 木曽にいる木曽義仲へ 文覚が訪ねていくために 大威徳寺の峠山を通り、気に入った。
 そう思う必要は無いのですね。 木曽裏街道の名前で イメージを作りました。
   
間違いました。 木曽義仲の きそに騙されました。
  もっと ずーっと あとから、
  舞台峠伝承には、 頼朝 ・ 文覚 ・ 頼家の 3人の名前が出て来るのですから
  この3人が 生きていた時代を 探し出して行けば良かったのですね。

  次回 また 考えてみます。






  
   
2019.09.14


(もんがく)文覚上人は こんな人物です。

   250px-Mongaku.jpg
①『平家物語』では 
 巻第五の「文覚荒行」、「勧進帳」、「文覚被流」、「福原院宣」にまとまった記述があり、海の嵐をも鎮める法力を持つ修験者として描かれている。頼朝に亡父源義朝の髑髏を示して蹶起をうながしたり、配流地の伊豆から福原京の藤原光能のもとへ赴いて後白河法皇に平氏追討の院宣を出させるように迫り、頼朝にわずか八日で院宣をもたらした。巻十二の「泊瀬六代」では頼朝に直接六代助命の許し文を受け取りにいく。また後鳥羽上皇の政を批判したため隠岐国に流されるが、後に上皇自身も承久の乱で隠岐国に流される結果になったとする。いずれも史実との食い違いが多く、『平家物語』特有の脚色がなされていると言える。
坊さんながら 本来は 武士だったから ちょっと乱暴な人だったと言えますね。

 文覚荒行 現代文

     Minamoto_no_Yoritomo.jpg 
    神護寺の頼朝像と考えられてきましたが、 なぜ神護寺に? そう 文覚の復興した寺だったから!
  
②『愚管抄』には、乱暴で、行動力はあるが学識はなく、人の悪口を言い、天狗を祭るなどと書かれ、
        また、文覚と頼朝は 四年間 朝夕慣れ親しんだ仲であるとする
        頼朝とは 同じ 伊豆国に流されて、 頼朝との付き合いの継続が始まったと考えます。

③『玉葉』によれば、頼朝が 文覚を 木曾義仲のもとへ遣わし、平氏追討の懈怠や京中での
         乱暴などを糾問させた
といいます。
         この時に この大威徳寺のある場所を 通過したと考えられます
          
    でも、どうして 東海道を 通らなかったの? こんな山中の街道を 通過したの?
    ここを通過した 年代を 考えてみましょう。 
    上記の「玉葉」の記述に従えば、木曽義仲が京に進軍して入京。
       滞在していた時であることが分かります。
    ついには 頼朝が 実平や義経らに命令して、
        平家征伐の前に 大津堅田で 義仲を滅ぼした期間になります。
    
    計算できますかね。

寿永2年(1183年)7月25日、都の防衛を断念した平氏は安徳天皇らを擁して西国へ逃れた。
  なお平氏は後白河法皇も伴うつもりであったが、危機を察した法皇は比叡山に登って身を隠し、都落ちをやりすごした。
  7月27日、後白河法皇は都に戻る。
  『平家物語』では、「この20余年見られなかった源氏の白旗が、今日はじめて都に入る」とその感慨を書く。
  義仲は 翌日28日に入京、源行家と共に、蓮華王院に参上し、後白河法皇より 平氏追討を命じられる。

寿永3年(1184年)1月6日、鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国へ入ったという噂を聞き、義仲は怖れ慄いた。15日には自らを征東大将軍に任命させた。平氏との和睦工作や、後白河法皇を伴っての北国下向を模索するが、源範頼・義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされる。義仲は京都の防備を固めるが、法皇幽閉にはじまる一連の行動により既に人望を失っていた義仲に付き従う兵は無く、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した(宇治川の戦い)。
 戦いに敗れた義仲は今井兼平ら数名の部下と共に落ち延びるが、20日、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にした(粟津の戦い)。九条兼実は「義仲天下を執る後、六十日を経たり。信頼の前蹤と比するに、猶その晩きを思ふ」と評した。享年31。

   この期間でしょうか?  それ以外にも考えられますね。



      







2019.09.13

 ようやく 夏のセミナー
  声を出して読む『平家物語』が かいさいです。

 あした10時30分 開催です。 カトウは 10時からお待ちしています。


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2019.08.23


今朝の『湯河原新聞』に 紹介していただきました 
  ありがとうございます。
  『日刊 相豆』さんにも ご紹介いただいたかと思いますが、
  23日城願寺の 声を出して読む「平家物語」

 頼朝・実平が 土肥郷を出陣した日の行事です。
 紙面で紹介されたように 
 これまで 毎年 やって来た 土肥会主催の「頼朝・実平 開運出陣祭」ではありません。
 今年は 休止となってしまいましたので
 カトウ 個人の 出陣の日にあわせた 
 楽しい勉強会(?)ですから、開会行事も 全くありません。


あさって 23日(金)10:30から 城願寺で
  『平家物語』から、 「早馬」を みんなで 読みましょう。
  平家琵琶で語られた 大昔の 
     庶民が集まって涙した 雰囲気を味わいたいものです。
 
 
       テキスト代金200円と 水と 鉛筆を持って
       当日 城願寺へ おいでください。
 

湯河原新聞30.8.

声を出して2019.8.21湯河原新聞

平治の乱義朝




2019.08.21
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