今から 3年前の 冬  12月4日から25日までの 4回にわたってNHK Eテレで放映された
  「NHKさかのぼり 日本史」の
  武家外交の誕生 で、中央大学の石井正敏教授は、

  なぜ、モンゴル帝国に 強硬姿勢をつらぬいたのか というテーマで 講座を解説されていた。

私は 1回見ていたという記憶になっていたが、
日記を見ると
  12月4日は 京都へ宿泊研修旅行に行っていた。 京の宿で酒に酔っていたか疲れて寝ていたかも知れない。
  翌週は11日、越谷市での「声を出して読む平家物語」の講座が始まり、二日目に、会場が空いていなくて、
  外へ出かけるということで、 日光街道越谷宿を 受講者と歩いていた。きっとこの日も 夕方飲んで帰って
  新松戸の家で、翌日からの資料を作っていて TV講座は見ていなかったはず。
  とすると、記憶にあるのは、18日・25日のどっちかだったのだろうか。
  
でも 25日のはずが無い・・・
  なぜなら その回は 土肥實平の話から始まった回であったが 
  私の見たのは クビライ即位の話だったように思うので・・・ 結局 18日の回だったのだろう。


12月前に こんな募集をかけている・・・・

●10日(月) 開会、復習「橋合戦」(以仁王・源三位頼政の死)・「早馬」(頼朝旗挙げの報が都へ届く)・富士川」(平家軍と頼朝軍)・「奈良炎上」(奈良を燃やし仏罰があたる)
●11日(火) 越谷散歩:越谷駅集合: 大相模不動尊大聖寺の山門、照蓮院千徳丸供養塔・越谷宿・高札場跡・建長元年板碑・天嶽寺・久伊豆神社、大澤宿・香取神社(順不同)●12日(水) 「小督」(清盛の女性)・「廻文」(義仲出陣)・「飛脚到来」(義仲攻め上る)・「入道死去」・「祇園の女御」
●13日(木) 「清水冠者」(頼朝と義仲の仲違い)・「北国下向」(平家が義仲に向かって出陣)・「竹生島詣」
●14日(金) 「倶利伽羅落」(木曾義仲との戦い)・「齋藤實盛」(妻沼の領主)・「主上都落」・「忠度都落」


表紙

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實平 質素

  上記の原稿のように、導入部分が書籍に残されているから・・・
  私が この回を見たなら 当時 退職後 湯河原へ来て住んでいたから、土肥實平の話なら、必ず
  印象に残ったはず・・・

そうかあ、 石井さんは 土肥實平を講座でも取り上げていたのかあ・・・
  その2年後に 私が
  土肥實平の花押のある文書を 東大史料編纂所か 出雲大社千家家かに あたって見たいという話を
  すんなり 受け入れて アドバイスをしてくれたんだとおもう。
  タイムリーな 私の質問だったのだろう。

  12月12日に 「石井正敏先生を偲ぶ会」が 中央大学で開かれるということだ。
  案内が来た。
  出席して 皆さんと そんな思い出を お話ししたいと考えている。


    

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2015.11.14
「ひつまぶし」を 食べに行ったのではなく、
 この名古屋から南の半島の先端、野間へ、
 源 義朝の墓参に行ったのです。

義朝墓前
 
  お供えは、木刀です。願い事を書いて墓に積み上げます。

      記名

グーグル写真地図で見ると
  この大きな寺院の範囲が読み取れます。

野間大坊

  そして、このお墓も、空からこんなふうに見えます。

     野間 墓

なぜ、木刀を供えるのでしょうか?  それはねー
 



2014.02.28
ここ数日間 読んだ本は『萬延元年江戸江発足日記帳』の一部分です。

これは紀州藩の下級武士、酒井伴四郎の江戸勤番時の日記です。

その万延元年1860年は、今から153年前。 その7月7日の日記に

 「房事朝 直助・民助両人、桜田辺 大名登城見物に行く。(略)節句ゆえ、鯖(サバ)壱本おごり、酒呑む。昼後一休みいたし、八ツ時過、そうめん拵え喰う。(略)」

江戸時代では、ひな祭りの上巳や端午、重陽など「五節句」の一つである七夕は、暑い夏への季節の変わり目の節句でしたから、プチ贅沢して、昼に、サバを購入して、当時はまだ冷蔵の技術がなく、足の速い鯖の刺身は出来ないでしょうから・・・たぶん焼いたか煮たのでしょうが、酒を一杯飲んだというのです。

7月7日は祝日でしたから。
 八ツは午後2時20分過ぎですから、その頃から、素麺ソーメンをゆで始めて食べたようです。
 焼きサバの身をほぐして付け汁に、そうめんと一緒に食べたかも知れません。ちょうど「鯛そうめん」のように・・・
 なお、筆者の伴四郎は、前日の6日にも、出入りの大和屋利兵衛から、五把のそうめんを贈られたのをはじめとして、この期間には、計14把をもらっています。そうめん好きなのかしらと思うと、そうでもないようです。
 夏前に「そうめん」とは、季節柄もあるのですが、
 この日は中国の「乞巧奠(きっこうてん)」では「索餅(さくべい)」を供えて食していました。小麦粉と米粉を混ぜて練って細長く伸ばしたお菓子です。茹でて、油で揚げて・・・お供えして、食しました。その影響を受けた日本でも、七夕の日は、「麦縄」とも呼ばれた「そうめん」が供えられ、食されていました。
 「七夕にそうめんを食べる」という風習は、最近は、余り聞きませんでしたが、
平安から江戸時代にかけて、普通の食行事だったようです。飛鳥の石舞台の近く、岡本寺では、今もそうめんが振る舞われます。
今日、町のコンビニ・ローソンで見かけたチラシは、その風習の由来を書いています。そのうちに、「恵方巻」のように 全国で夏の食行事に復活展開するかもしれません。
        そうめん注文

七夕」について
「ウイキペディア」では、
「たなばた」「七夕」を「棚機(たなばた)」や「棚幡」と表記した。これは、そもそも、お盆行事の一環でもあり、精霊棚(たな)とその幡(はた)を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになった。
といいますが、
 私は、これまで単純に、「ばた」は織女:「機(はた)織り」の「はた」が、上達するように、糸や針や織物作品を「」の上に並べて、天の神に祈る日なので、「七夕=たなばた」と云うのだと考えています。
 もととなった中国の行事「乞巧奠きっこうてん」という言葉の意味も、
 巧=うまくなることを、神に乞う祭りという意味であることが後押しするように思うので。

「ウイキペディア」では、さらに その中国行事を踏まえて、平安時代の宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたムシロの上に、机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉(久木=赤芽柏:樹皮から紙を作る)1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針の穴を貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は、庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。とあります。
8db39a90a1a02f00458fa45f14de93a5.jpg ひさぎ:あかめがしわ
一方、
 ①これまで読んで来た『平家物語』によれば、貴族の邸では、願い事を、信州諏訪神社が神紋として用いるカジの葉(梶)に書いたとあります。
         img_176392_23507397_2.jpg  img20070819173211385.jpg

 ②京都冷泉家では、今も和歌・手習い事の願掛け、詩歌・裁縫・染織、牽牛とあう織女の名から機織りなどの技芸上達の願いを、棚の上には、昔どおりに一枚だけ、梶の葉の裏に書いて、手前の台の右のタライの水に浮かべてあります。が、集まった人達は、詠んだ七夕の歌を、短冊に書いているようです。
 また、下の写真のように、大宮八幡神社では、梶の葉の飾りをぐんぐん伸びる竹枝に仮託してつるしています。 
              20110706_1915429.jpg               10075339272.jpg
 上:冷泉家                下:杉並区大宮八幡神社 

③ 最近、五冊一括で 5千円余を投入して購入した、
 江戸時代の博学者の喜多川守貞『守貞謾稿』 
       (『近世風俗志』4 岩波文庫青267-4 P.233には、
「七月七日、今夜を七夕という。(略)今世、大坂にては、手跡を習う児童のみ五色の短冊・色紙等に詩歌を書して、青笹に数々これを附け…… 江戸にては、児ある家もなき屋も、貧富大小の差別なく、毎戸必ず青竹に短冊、色紙を付け、高く屋上に建つること……」とあります。 浮世絵にも描かれています。
  
     tmpimg1007082039n120100708204132062.jpg
 歌川広重「名所江戸百景」から [市中繁栄七夕祭] 

平安時代・鎌倉時代に、「久木」や「梶」に書かれた字が、
 江戸時代には、紙漉法の普及で安価となったために、紙が庶民に手のとどくものになり、子供達が寺子屋で書道を習い、上達するよう願い短冊を掲げたことが分かります。

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こんばんは 東京タワーやスカイツリーの照明が無く 七夕を楽しんで・・・ということらしいですが
我が家には、笹飾りはありません。
 ちなみに、「そうめん」は、お土産の札幌味噌ラーメンになりましたし、こんばんは、「うなぎ」でした。


2013.07.07
私が 1月8日に このブログに書いた感想も、きたない と。
 兵庫県知事の感想と共通であった。


大河ドラマ「画面が汚い」 井戸知事が苦言  兵庫県の井戸敏三知事は10日の定例会見で、NHK大河ドラマ「平清盛」の初回視聴率が関東地区で17・3%と過去3番目に低かったことを受け「画面が汚い。あんな鮮やかさのない画面では、日曜日の憩いの時間にチャンネルを回す気になれないだろう」と苦言を呈した。
 兵庫県は清盛ゆかりの地として、神戸市などとともに観光キャンペーンを展開している。井戸知事は「時代考証を忠実に再現しようという意図があるとは聞いている」としながらも、「公家社会を打破したエネルギーや日宋貿易に象徴されるような日本の将来を先取りした行動を全面に据えてもらいたい」と述べ、近くNHKに意見を伝える意向を明らかにした。
 井戸知事は、番組の人気が出なければ観光キャンペーンの効果に影響が出るとの認識を示した上で、「番組とタイアップしながら観光客誘致を進めていきたいと考えている。今後はもっと華やかで生き生きとした、清盛らしさを強調するようなドラマ展開にしてほしい」と話した。


大河「平清盛」は17・3% 過去3番目の低視聴率  
8日に放送が始まったNHK大河ドラマ「平清盛」の初回視聴率(総合テレビ)が関東地区で17・3%、関西地区で18・8%だったことが10日、ビデオリサーチの調査で分かった。
 昨年の「江~姫たちの戦国~」の初回視聴率は関東21・7%、関西20・9%だった。歴代大河ドラマの関東地区での初回視聴率としては、調査方法が現在とは異なるものも含まれるが、1989年の「春日局」14・3%や77年の「花神」16・5%に次ぎ、72年「新・平家物語」と並ぶ過去3番目の低視聴率となった。
8日に放送が始まったNHK大河ドラマ「平清盛」の初回視聴率(総合テレビ)が関東地区で17・3%、関西地区で18・8%だったことが10日、ビデオリサーチの調査で分かった。
 昨年の「江~姫たちの戦国~」の初回視聴率は関東21・7%、関西20・9%だった。歴代大河ドラマの関東地区での初回視聴率としては、調査方法が現在とは異なるものも含まれるが、1989年の「春日局」14・3%や77年の「花神」16・5%に次ぎ、72年「新・平家物語」と並ぶ過去3番目の低視聴率となった


無理もない。新年の挨拶で、ハッパを掛けたばかりでは・・・
キャンペーン「KOBE de 清盛 2012」を展開する神戸市。21日にはドラマの衣装や小道具を展示する「ドラマ館」や、平安時代の暮らしを紹介する「歴史館」が市内にオープンする。矢田立郎市長は「清盛を通じ、たくさんの人に神戸の魅力を伝え、おもてなしをしたい」と意気込んだ。

 井戸知事は県庁で幹部職員約300人に年頭のあいさつ。人口減少社会を見据え、昨年見直した新指針「21世紀兵庫長期ビジョン」に触れ、「先が見えない時代だからこそ、大きな夢に向かって努力する必要がある。新たなスタートの年にしたい」と強調し、東日本大震災の被災地にも「復興に向け息の長い支援が必要」と呼び掛けた。(下略)


観光を考えて、期待するのは、この世の中当たり前。
 兜に「愛」も、龍馬も、お江も
知事の発言に、非難囂々。「観光PRの番組ではない」というモノである。が、作るNHKは観光を意識しているから、話はややこしい。
 
私の主張はコウ!
 「きたない」・・その通り。
   時代は、「末法の世」の中、乱れている、衰退している、政治がとどまっている・・・  その通りに忠実に表現すればいいのだが、演出はより大胆になるから・・・きたない
  それは映像演出の問題。

 が、高級武士の御曹司、武士団のトップが、きたない恰好でウロウロしているのは、事実に反していると
思うので、あれは行き過ぎ。と書きました。
 混乱の時代、末法の時代、浄土を欲する時代・・・・・きたない演出がぴったりする時代。
 でも、
彼の廻りは、人間は見にくいが、
 彼の 行動範囲や 生活環境は、違うというのが 私の清盛像。
そんない汚い環境に生まれてはいなかった。源 頼朝よりも出世の早い高級武士のトップ御曹司であったのだから。
2012.01.10
 今日 25日と26日
 戸田市文化財研究会のみなさんと、

 夏の寺社名園と天狗に会いに鞍馬へ出かけます。
 
 6時10分発で、東京へ。
2011.07.25
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