作りました A4サイズ カラー
   雨天に強い ラミネート製にしました。 22枚

         出陣祭教育版A4

  明日 町内の青少年育成の掲示板に、 社会教育課の許可印をもらった紙を貼り付けて、掲示します。
  雨天の予報がありますが しょうが無いですね。

  自分がやらないと こんなにも遅れてしまうのですね。 
  例年より 3週間遅れですから 業務は山積です。





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2017.07.25


今夜 開運出陣祭のポスター原案を作りました。

  明日 会長に見てもらって 印刷広報活動の開始です。



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2017.07.20


今年の 源頼朝・土肥実平の出陣を記念する
 「頼朝・実平 開運出陣祭」については、
 
 これまで、秋田県横手市増田町の満福寺の檀家でもあり 郷土史家でもある 
  佐藤さんに
 お願いしていたところですが・・・・・・

先日、私の湯河原 留守中に 
 土肥会会長さんに
 「腰痛の回復が思わしくない。」ということで、
 「湯河原の城願寺へ行っての講演は 困難です。」という お断りの連絡があったそうで、

その 対応策としては 昨夜 ☎連絡があり
      会長判断で、次のように決まったそうです。
 
  佐藤さんから 資料を送ってもらい、
  土肥実平と、秋田県のお寺に関わる話。
    つまり 増田町満福寺の本尊仏像を城願寺からもらっていったという話を
  私が代行して お話しすることに なりました。



そこで 講演の題と プログラムを 作り直しました。・・・・・・・・・・

<
a href="http://blog-imgs-108.fc2.com/0/6/0/060636/201707192238493a3.jpg" target="_blank">新計画


  言うのは簡単ですが・・・・今からでは 泥縄のような気もしますが・・・・
   まあ
  上記のように 準備を始めますということです。
  

2017.07.19

 今晩 機関紙への講演要旨の原稿が完成しました。
     話した大容量を 紙面に入るように 削り まとめるのに 時間がかかりました。

     レイアウトは こんな風になり、 タイトルと講演の写真が入ります

          画像で要旨

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生涯学習講演会要旨
 豪族土肥実平と鎌倉幕府 ー裏方に徹する老相模武士の生き方ー
                        土肥会理事 加藤 雅喜


 今から八三七年前の一一八◯年夏、神戸へ都を移した平清盛に、関東から三島大社祭礼の晩に、伊豆に流されていた源頼朝らが反旗をひるがえしたとういう報告が早馬で届きました。加担した武将のなかに北条氏らと列び土肥・土屋・岡崎の相模の武将の名がありました。

◆旗挙げの実平と仲間たち
 突然、歴史に現れた土肥実平(どひさねひら)を知ろうと思ったら『平家物語』『源平盛衰記』『吾妻鏡』を見ると良いのですが、断片的で、鎌倉幕府を作るのに功があったという実平の実体が分かりません。鎧や刀も残っておらず、生死年月日や墓さえ不明瞭で、現代には何も残さない人だったのです。観光面では伝説上の人物でも良いのですが、子供達に歴史を教えてきた私は、実平らが生きた証拠を見つけたいと考えています。頼朝旗挙げに参加し、土肥の館を出立して石橋山の戦に臨んだのは、北条ら伊豆の豪族と相模国中村・土肥・土屋・二宮・岡崎氏と親族の三浦氏でした。敗れて、実平が言う「人数を分散して箱根権現を目指そう」と山中へ逃げ、五日間余の逃亡のあと、頼朝・実平ら七人は舟で房総半島へ上陸し、鎌倉に入り一気に平家追討の仲間を増やします。  

◆土肥山中の史跡など
①土肥の大杉「倒れた大杉洞穴に隠れていた」と頼朝等を見逃した梶原景時の子孫は伝えています。その場面を描いた浮世絵が複数残ります。
②しとどの窟(いわや) 舟で脱出した真鶴では、江戸時代以前からも海岸にある「しとどの窟」に隠れたのだと伝わります。前田青邨が「洞窟の頼朝」を描き、湯河原山中の弘法大師修行の洞窟が「しとどの窟」だという人が現れて論争になるのですが湯河原の洞窟が県指定を受けると観光客にPRされました。どっちが本当?と聞かれて困ります。
③自鑑水(自害水とも)水面に映る顔のやつれを見て自殺を考えた頼朝を励ます実平の話。
④小道(しようどう)地(じ)蔵(ぞう)寺屋敷 山中の寺で純海和尚が床下にかくまう。
 ⑤土肥館が焼かれても実平は将来への希望の炎だと舞った話から作られた「焼(じよう)亡(もう)の舞(まい)」は保存会により武者行列や三島大社、鶴岡八幡宮などで舞われます。

◆その後の頼朝と実平
 富士川合戦で頼朝に義経を対面させて以来、実平は頼朝の弟の範頼配下で、瀬田で木曽義仲との戦いでは活躍ができなかったが、義経配下になると一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦で下支えに徹し義経に勝利を与えました。 一ノ谷で平家を破った後、頼朝は実平を備前・備中・備後国の惣追捕使に任命して中国地方を統治させました。昨年、私は実平の花押文書が出雲大社の千家家に残されていることを確認して写真公表の許可をもらい実平が実在した証拠を湯河原の皆さんへ示すことが出来ました。 実平はさらに下関市長府の土肥山に出城を築き、関門海峡に集結する平家軍船を監視しつつ潮の流れの変化の情報も集めていたお陰で、義経らは海流の流れを利用して壇ノ浦で勝利を得ることが出来たのです。実平は都への凱旋行進で先頭役をつとめました。海戦で戦わないのに事前の情報収集の功績を認められたからだと考えられます。鎌倉への凱旋でも義経を支えていたのに、腰越での頼朝命令に愕然としたでしょうが、その後の義経追討の命に従い、京都へ、平泉に逃げた義経を追い、日本海側を出羽三山僧兵制圧のために羽黒山に行き、「平泉金色堂が兵火で消失した際には羽黒山正善院の堂を金箔で荘厳する」との約束をして僧兵を抑えた。
幸い金色堂は焼失せず残ったので、お堂に金が貼られず「土肥実平建立奉行の黄金堂」として伝わり、後に鶴岡城主直江兼続が修理をして国重要文化財となっています。建立者土肥実平の木像が本尊脇に置かれ、用意していた貼布用の黄金を近隣に埋めたという黄金伝説も伝わっています。

◆まとめ
① 私が敬意を払う土肥実平は、先頭に立って行動する武将では無かった。縁の下の力持ち
役に徹して一族で戦う武将で、残念ながら頼朝より早く逝去して北条氏の独裁を許しました。
②初めての武家政権を作るのに功績のあった実平だが、地頭として沼田荘(現広島県三原市)で田畑開発を行い、息子遠平は小早川氏と名乗り、領地は江戸時代には柑橘、塩田、酒造、水軍海運業が盛んとなる基礎を築きました。この旧領地には「アオハタ」、「酔心」「賀茂鶴」、「竹鶴」、「八天堂」、「大創」等が創業しました。彼自身は今に何も残さない人生であったが、八五◯年後の人間の幸せの基礎づくりをしたようです。
③七○歳過ぎて旗挙げに参加した実平は、良く身体を鍛えていたから重い鎧甲姿で壇ノ浦まで転戦し、その後も鎌倉と京と何度も往復できた逞しい老後の十年間の働きでした。
 ④私が見習いたいもう一人の先人、退職後から学習して正確な日本図を作った伊能忠敬の測量には一万人以上の宿泊・測量援助の人があったようですが、その測量隊も土肥実平に敬意を払い、城願寺の墓地に参拝した『測量隊日記』を紹介しました。

  当日は浅田勁氏と共著『東国武士の鑑 土肥実平』を見ながら語らせて頂きました。
  再度、湯河原へおいで下さい。 御案内させていただきます。
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   あした 梅原先生へ 原稿と、 データをUSBに入れて 届けます。





2017.06.17


行って来ました。土肥会の梅原先生からのおすすめで
   土肥実平の お話しをしに。
   
 初めての会場です。 
   なにしろ 埼玉県の教員でしたから、神奈川県教育会館へは。

    神奈川県教育会館

  場所は いつも東海道線では 通過してる場所でした。
    相鉄線 西横浜駅から徒歩10分でした。  地図上では・・・

    ところが グーグルのストリート・ビューでは、驚くべき写真が出ていました。
    駅におりて 東海道線を歩道橋で超えて、旧東海道を渡ると、
       平面地図では、まっすぐな道の先に 会場がありますが、

  坂

     実際は、藤棚商店街の交差点を横切ると、 上の写真のような坂が、直進の目の前に現れます。
     勿論 直進です。

コレを踏まえて 出かけていったのですが、
   朝から 雨がふったり止んだりの あいにくの天気

   小冊子100冊とレジメ100人分などの重い荷物を 
   引く台車に縛って、上からビニール袋をかぶせて行ったのですが、
   傘をさしながらの この坂には 閉口しました。

   帰りに 聞いたところでは、どの先生方の思い出でも
   この坂には 毎回 苦労したということでした。

   でも、雨の降るなか 坂を流れ下る雨水の流れも気になって、傘をさして 台車を引いて
   その中を 登り切りましたよ!  

   写真で見ると 平板に見えますが、実際は 急な坂でした。



  この機会を与えていただいた 梅原先生と一緒に 混雑の東海道線を使って 帰って来ました。
     有難うございました。





2017.06.13
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