「本能寺」後の光秀書状原本=幕府再興目的示す?-三重大

   20170912-OYT1I50000-L.jpg

明智光秀が本能寺の変の10日後に書いた書状(美濃加茂市民ミュージアム所蔵)

 織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変の10日後、光秀が記した書状の原本を三重大の藤田達生教授(日本近世史)らが発見した。藤田教授によると、光秀が室町時代最後の将軍足利義昭による幕府再興を目指していたことを示す内容とされ、写しは残されていたものの原本がなくなっていた。同教授は「本物を20年来捜してきた。見つかったことで研究が確実に一歩進む」と話している。
 見つかったのは、光秀が天正10(1582)年6月12日、現在の和歌山市周辺を拠点にした武将土橋重治に宛てた密書の原本。信長により京都から追放されていた義昭の上洛に向け、その指示を受けた重治と協力するという内容が書かれている。
 原本の大きさは縦11センチ、横56センチ。写しでは分からなかった約2センチ幅で折りたたんだ跡などが確認された。藤田教授は「小さい書状をさらに細かく折りたたんでおり、使者が極秘資料として運んだことが分かる」と分析している。
 東京大学史料編さん所が明治22(1889)年に書状の写しを作成した後、原本は行方が分からなくなっていた。岐阜県美濃加茂市の収集家森俊郎さん(51)が2014年に京都府の古書店から購入後、美濃加茂市民ミュージアムに寄贈。藤田教授らが調査し、筆跡や花押、内容などから原本と判断した。

 2017年09月12日 06時55分 時事通信


今朝の新聞各紙に掲載された 明智光秀の新発見の手紙は
   本能寺の変で 織田信長を亡き者にした光秀の 動機を解明するに
   新資料になることは違いない。
 
   それにしても、学者肌、朝廷、将軍家に仕えた経験からか、
    手紙文書の字が 他の戦国大名や、信長、秀吉、家康らに比べても 格段に上手だなあというのが
   今朝の手紙文書をみて、最初に感じたことであった。
  
 しかし、新聞紙の写真が小さすぎて 大筋は読めても、小さな部分が読み取れない。
  そこで
 同じく 花押の入った 手紙を 2通あたって見た。
   
   光秀の位官職の「(従五位下)日向守」と 「光秀」 「花押」から成り立っているが、
   花押は、「糺す、力、仇、代」の字の組み合わせだろうか、
   「仇をうち、代(=世)を糺すことに、力をつくす」の寓意であろう。

    img_3_20170912232506c6e.jpg

    mituhidesyojyou.jpg

   祐筆を使わず 全文を 光秀が自分で書いた秘密・重要な手紙類である。
     二つ目の手紙は 画上でマウスをクリックすると
     二倍に拡大されて花押のところが 読みやすく成るので 試して欲しい。
   
出雲大社の千家家に残されていた 土肥実平の花押のある文書が、
   東大史料編纂所に 明治時代に送られて 毛筆で書かれた正確な写し文書が残っていた。
   実平の花押の存在は公表されていたが、
   私がお願いして 2枚の文書として 全体の写真を送って下さったのと同じように、
 
   東大史料編纂所に やはり 光秀の文書も、一度 預けられて 写されたことで、
   知られていたはずなのに、持ち主に帰された文書が売られて・・・・となった。

 今まで 本能寺の変についての論争で、この手紙は
   「明智光秀の親族になっていた長宗我部元親の四国支配救済のために、
     長宗我部と敵対する 織田信長を襲った」という 
   いわゆる「四国救済説」を補強するのに 使われていたかどうかを 
     私は 寡聞にして 今は知らないが・・・・  調べてみたい。

 ななんと、その信長に敵対することになった 長宗我部元親は、当時 
    ちょうど四国をあと一歩で平定するばかりで、
    最後に残っていた 徳島市周辺の三好勢を倒せば、四国全土を
    領地に出来る寸前でした。
 ところが それに 突然「まった」をかけて、領地は土佐国だけと言いだした織田信長に反感を持つのも当たり前。
    四国全土を保証するよう、信長に 橋渡しをしたのが、光秀ですから。
    長宗我部は 明智光秀の一族と 親類となっていたのですから、
     ●引用:
    o-HONNOJI-570.jpg

    51c22865c718ac0978db8b2f825e25d4_2017091300482482b.jpg

さあ、ここからです。   
    上の四国の地図です。土佐国高知県から阿波国徳島県の南部まで攻め込んでした長宗我部元親は、阿波三好氏と親類関係の新開実綱を攻略しようと、動きを早めていたのです。一旦は 新開実綱に退けられるも、信長の死を聞き、明智光秀が死んダからには なおさら、早く新開氏を滅ぼして、信長から止められていた四国全土を領地化する行動に出ることになる。
  
歴史に モシはないとは云いますが、 
   もし、信長の存在が もう2ヶ月でも続いていたら、本能寺の変がなかったら、
  新開実綱は 長宗我部元親に暗殺されることはなく、
  そのまま、阿波国の領主として秀吉の時代を生き延び、家康の時代にも大名として生き延びたのではないかと思われる。
  
ょうのニュースのように
  発見された光秀の手紙によるように
    「本能寺の変」が、光秀と長宗我部の結託で起こったのであれば、
  その とばっちりを受けてしまったのは、土肥実平の次男が養子に行った新開実重の深谷の新開氏の子孫、阿波の新開実重であったという お話です。
  如何でしょうか。

  下の追記をお読み下さい

»Read more...

スポンサーサイト
2017.09.13


 今朝の『湯河原新聞』に 掲載していただきました。
    ありがとうございます。

   練習を重ねて、 湯河原を代表して 出かけていって 
   郷土の英雄土肥実平を紹介し 舞を披露しています。
   皆さん 家庭の主婦としてお忙しいのに また、お若くもないのに(失礼)
   ガンバっておられます。

   お疲れ様です。

   湯河原新聞タイトル
   焼亡の舞9月16日
  ※記事の上に、マウスを置いてクリック 拡大して読めます


◆ 昨年の様子です

   
J03.jpg

   「焼亡の舞」保存会2016八幡宮




2017.09.12

「焼亡の舞」16日鎌倉の鶴岡八幡宮で舞を奉納

 土肥会「焼亡の舞保存会(鈴木公子会長)」では、8月の五所神社例祭、三
島大社例祭、城願寺頼朝実平開運出陣祭での舞の奉納に続いて、本年度最終の
出演として鎌倉鶴岡八幡宮秋例祭の最終日にあたる9月16日(土)午後4時
から、有名な流鏑馬行事の後に、八幡宮大杉石段下で奉納出演することになった。

  「焼亡の舞」保存会2016八幡宮
昨年の 様子


2017.09.09


先日、土肥氏の後裔者から お手紙で指摘されましたことが2点ありました。
 私が 今わかることをお返事しました。 ご関心があるかた 長いですがお読みください。



(1)土肥一族の墓石は 時々 移動させていませんか? YES!

その後裔者のかたが 何度も城願寺の墓地を参拝して、鉛筆書きで平面図を書いておられました。
 大変参考になり、私なりに その図をパソコンで現してみました。下の後半にあります。
 その後 分かった墓地に関して。
 
  ①明治44年(1911)4月8日消印の写真絵葉書では
    左の五重塔の、さらに左にあった七重塔があります。
    添付の絵葉書を使った資料。明治44年絵葉書に写っ
    ている範囲を、後裔者のように図示すると、こんな具
    合です。 → 別紙をご覧下さい。

  ②昭和30年(1955)11月1日神奈川県史跡指定
    この時の写真が見つかりません。
   指定準備の調査があり、見栄え良くするために、石塔の
   組み直しがあったと思われますが、証拠がありません。

  ③昭和46年(1971)9月 湯河原町・城願寺が三原 
   の米山寺へ贈った大型写真を米山寺で、今年見つけてき
   ました。それを見ると、すでに、五重塔が今ある右側へ移 
   動してしまっています。パソコン表示しましたものと同じ位置です。

  ④昭和51年(1976)3月9日 後裔者のかたの作図
   後裔者の描いた昭和51年、昭和56年の鉛筆メモ平面図をパソコン表示しました。
 
   ◎昭和55年(1980)8月23日
     出陣祭の日ですね   
     皇太子浩宮徳仁親王殿下が 城願寺史跡見学

  ⑤昭和55年(1980)9月発注 11月完成  
    左墓地背景を削り墓地拡大し、石垣を積み直し、右側
    の歴代住職の無縫塔墓7基を左に移しまとめる。

  ⑥昭和56年(1981)3月31日 階段上の木製玉垣   
    を石造りとする。土肥会800年記念行事の一環。

   ⑦昭和56年(1981)9月4日 後裔者のかたの作図です。
    その結果 ④と比べて無縫塔の移動などに 気づいたそうです。 

 結論:以上からは ②昭和30年の県史跡指定前に、五重塔の移動などをやったのではないかという、
   私の疑問は依然として解けません。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  

(2)実平の木像と、遠平の木像を 取り違えていないませんか? 可能性あり!

    後裔者のかたは、「冠のない方が 父の実平だ」と、先代の奥様に言
   われていて、『國史大辞典』などの専門辞典でもそうなっていたので安心
   していたが、最近、土肥会関係者の本の写真などが違っている。

   いつから入れ替わったのか?
   冠をかぶったのが、父の実平だという、今の説に根拠はあるのかと問うています

 この質問には・・・・
   実は、私も、3年前に、第1回出陣祭で、本堂に移して参加者に手近で見てもらった際に、
   取り違えがないか、ヒヤヒヤして 元に返した記憶があります。
   像に名前などの墨書も外見には無かったものですから、
   いつかは このような指摘があるのではないかと心配していました。 

 この指摘を受けて
  身近の資料をあさって一覧表にしてみました。ご覧下さい。
  中央の空欄は、後裔者のかたが贈ってくれた資料の本2冊ですが、
  『國史大辞典』そしてもう一冊の書籍です。
  (本名と出版社・著者はあとで教えてもらいます)
  
 ①これを見ると後裔者が示されたコピ-2枚だけが、坊主
   頭像を実平として扱っています。

 ②城願寺の現住職さんは、「実平は死ぬまで武士であり、遠平は
   頼朝の死で出家して僧体になったのを現しており、現状の
   烏帽子の冠をした方を 実平として良いのではないか。」と
   9月7日に、私に答えてくれました。 さもありなん。
  
 ③土肥会の役員は何れも、冠姿が実平ということで、疑った
  ことはないようです。土肥会の先輩の高橋 徳さんの本が、決定的だったようです。
  私が湯河原へ来て 土肥会に入ってから5年余。決定的な証拠があって、調査が
  あって町の文化財に指定されたのだと思っていました。
   (この本を書いたときに、高橋さんは、町の文化財審議委員会委員長でしたから)
  ですから、全て高橋さんの本で使われていた、冠像に実平という写真説明だけで
  私も使い続けて来ました。
  この木像一覧表の 左方の最近の土肥会の冊子の記述や写真使用が、それです。

 ④それでも、昭和54年4月1日の町文化財指定での指定理由
   の文章が余りにおろそかで、(冠姿像の土肥実平の衣装を「衣冠束帯」と書くなど)
   私は、いつも間違っていると 出陣祭のパンフに堂々と書いています。
   そもそも、何故これが実平の像なのかという説明がありません。町が指定した
    ときに出された文書の公開を求めたいと考えています。

 ⑤なんとなく現住職の意見のように皆が考えたのには、『新編相模風土記稿』の影響でしょうね。

 ⑥とすると、『國史大辞典』『(本不明)』の2冊が、権威のあるものだけに特異ですね。
   『國史大辞典』は執筆者が責任原稿提出した本なのです。この項の執筆者石田さんは
   大学教授の前に東大史料編纂所教授でしたから、中世史が専門で、出雲国造の千家家
   文書に土肥実平の花押があると云うことは知っていましたね。
    そこは模写・複製のデータを作り 持っていたのですから、花押写真を入れることが
   出来たのでしょう。一般にはあまり知られていなかったのですが・・・・
   
  一方の、実平像の写真は、城願寺に取材に行ったか、何かの資料から採用したと思います。
   写真がキレイで無いので、自分で撮影したのではなく、印刷物からのコピーのような気がします。
   さて、出版時期から云うと、執筆取材は、昭和45年頃だと思います。その頃に城願寺を訪問して
   聞いたなら、後裔者の人がおっしゃるように、先代住職の奥様の可能性があります。何か根拠が
   あって「坊主頭が実平さま」というように思っていて・・・・執筆者にも語ったのかもしれません。
            (以上 想像ですが)

 ⑦先代は亡くなられ、先代の奥様にも 記憶があるか否か 伺うのは難しいとのことです。
   石田さんはすでに退職されていて、元気なら82歳です。根拠を覚えていらっしゃるかどうか、
   中世史の研究家に聞いてみましょうか、ご存命かを。

 ⑧「湯河原町史」には、この木像写真は使われていません。
  「神奈川県史」も恐らく使っていないでしょう。他も捜す必要があります。
    現状では こんなところです。これが取り違えているとなると
    大変なことですので、振り出しに戻って考えてみます。
      宿題です。

作成した資料は 以下のものです。


① 明治44年(1911)消印使用の絵葉書を図示すると、五重の石塔の移動が分かります

      はか 移動疑惑

 上記を 図示すると こうなります

明治44年加筆

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

② 昭和30年(1955)11月1日 神奈川県史跡に指定される。
   
   指定前に 墓地の調査と整備がおこなわれたことは、間違いないであろうが、
   神奈川県の報告書など公開されてはいない。五重塔石・墓石の移動などはこの時の可能性が高い。
 
③ 昭和46年(1971)9月に、撮影された写真では、すでに五重塔石が移動されている。

④ 昭和51年(1976)3月9日、後裔者のかたの作図を 私がパソコン入力しました。


昭和51年


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◎ 昭和55年(1980)8月23日
    皇太子が 城願寺の墓地など史跡見学にお出でになった。
     出陣祭に合わせた来訪であった。
 
⑤ 昭和55年(1980)9月発注、11月完成 
    向かって左の背景崖を削り 石垣を積む。右側の無縫塔を7つ左に移動させて まとめた。 

⑥ 昭和56年(1981)3月31日 墓地前面の玉垣を木製から 石造にする。

⑦ 昭和56年(1981)9月4日  後裔者のかたがスケッチした。
     無縫塔の位置が変わったことを知ったという。
       今回 私が パソコンに入力した


昭和56年



土肥実平の木像、遠平の木像を取り違えたのではないか?

  私は 下のような一覧表を作ってみました。



実平遠平木像比較





















2017.09.09


一週間目で ようやく
   開運出陣祭の 礼状ハガキを作り 出し始めました。

   はがきうら
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   おもて
 

   今年は 自分が 講師のピンチヒッターで お話を準備した上に、
   出陣祭事業の開始前と、終了前に不在であったために、
   写真も満足に撮れずに、
   
   商店街イベント「ブランチ」の中心で働く 事務局長の池田さんが
   撮影したものの中から、数点を選んでおくってもらうことにしたが、
   出陣式が終わってからが忙しそうで、結局、町長の納涼会が終わった
   月曜日に 写真を送ってもらって
   ようやく
   はがきを作り出したので・・・・・ 

   やはり 自分が見ていない行事の写真を撮る
   取捨選択する 困難を感じました。
   
町や教育委員会への 「後援」承諾に対する 実施報告書も作りました。
   関係資料を添えて、会計報告を添えて
   月曜日に、会長が出せるように
   準備を 始めました。

 

2017.08.31
 | HOME |  NEXT PAGE »