今朝、 浅田 勁先生から 新刊書が送られて来ました。

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  早速 読ませていただきました。
   編集後記に、私の名前も書き加えてくださってありがとうございました。

今後、感想を先生にお送りするのは勿論ですが、
   販売後は「アマゾン」のHPにも  コメントを送らせていただこうと思っています。

  

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先ずは 皆さんに 手にとって 見ていただきたいと思っています。

この本を出すことに、先生といっしょに活動されたグループ
  「かまくら駅前 蔵書室」
 のHPでも  このように紹介されています。
  かまくら

 カマゾウから本が生まれました

 昨年の3月末、2年にわたって改修中だった若宮大路の段葛(だんかずら)の工事用フェンスが取れ通り初めが行われました。
これに合わせて1月から神奈川新聞に週1回「段葛再生~歴史の舞台を歩く~」という連載がスタート。段葛にスポットを当てながら鎌倉の歴史をひも解いていくという、これまでになかったアプローチが興味をそそりました。

   その筆者こそが会員の 浅田勁さんだったのです。

 浅田さんといえば「鎌倉時代に新聞があったら」という切り口の「鎌倉新聞」をかつて神奈川新聞に連載したこともある元記者で歴史研究家。カマゾウでも「浅田先生大いに語る」と題した歴史の講義もしていただいていました。
「これが事実かどうかを突き止めなければ」と資料を探したり、段葛を中心にあちこち奔走している姿を見ているだけで、執筆の大変さやジャーナリストのこだわりを感じていたのです。
もちろん、実際には10回の連載では収まり切れないことも分かっていました。そんなとき浅田さんとの会話の中で「これをまとめて本にできないか」という話になったのがスタートだったのです。 そして年が明け、ようやく1冊の本というカタチになりました。
制作の過程で写真撮影を会員の佐久間芳之さんや松藤飛洋さんに、表紙絵を同じく会員の矢野元晴さんにお願いしました。
「私の段葛ストリート」には、やはり会員で段葛に面したお宅で育った吉井瑞穂さんにも登場していただきました。また、鶴田真由さんの取材にはカマゾウにお越しいただいたりもしました。
出版元の歴史探訪社さまのご提案で、原田寛さんの巻頭写真、年表、近世からの風景、昭和28年の在住著名人名簿、昭和36年の住宅地図なども加えバラエティー豊かな内容に仕上がりました。
1月17日(火)より書店にて販売いたします。店頭にない場合はお手数ですがご注文ください。
カマゾウにも置きますので気軽にお越しください。

   <タイトル> 鎌倉千年の歩み ~段葛からのオマージュ~
   <定 価>  1,300円(税込み1,404円)
   <発行日>   1/17(火)
   <著 者>  浅田 勁(あさだ つよし)
   <発 行>  歴史探訪社株式会社
   <発売元>  株式会社メディアパル

歴史探訪社さま、神奈川新聞社さまをはじめ多くの皆さまにお世話になりました。
     心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。

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 来週 販売開始です。  是非 手にとってお買い求めください。

 



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2017.01.12


きょう 久し振りに 
research map
のなかで、

高野山大学 文学部人間学科 助教授の坂口太郎氏
 「碩学の思い出や発言集」をまとめ書きためた文章集を読んでいて 特に

次の二つを読んで 恩師の名前にかかることであり、人柄が偲ばれるものであったので、
 勝手に引用させていただき、自分のブログに保存して 
 日頃から 拳々服膺すべき 資料とさせていただくことにした。

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2014/02/12
 竹内理三博士「“百世の後”を見据えつつ」より              | by 慈鎮和尚

 僕の一年先輩の森克己さんなんかはね。これは、今度は黒板先生に、こっぴどくやられちゃった。あの日宋貿易の研究は。森さんはしかし、鼻柱が強いからね。黒板先生のいうことはいちいち反論したら、黒板先生、最後に、おこっちゃってね。「それじゃわしは知らんぞ」といわれたそうだ。それから辻先生のところへいったら、これでええといわれたんで、それでまあ森さんは「日宋貿易の研究」というんで書いた。結局、卒論出した講評の時にね。森のはなかなかよかったよと、黒板先生はいわれたそうだ。「おれは知らんぞ」なんてつっぱねたこと忘れたのかどうか。これは森さんの直話ですがね。
 僕は早稲田の学生諸君にはよくいったんですが、僕もそういう経験があるし、森さんもそういう経験があるんだから、自分が一たんきめたテーマを先生がなんといおうとも、やっぱり大事に育てにゃいかんということだ。先生だってやっぱり知っている範囲に限界があるという証拠、例証にね。いつも話しとったんだが。


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2015/05/31
『太田晶二郎著作集』例言より                      | by 慈鎮和尚

本著作集の公刊は、飯田瑞穂 亀井孝 両名の協議に俟って以て編纂にその方策と定めるところを貫く。
 一Ⅰ 学術の論作に属さぬ零墨の類といえども、かつてそれ自体において上梓印行をみたそのかぎりについては悉くこれを採って洩らさぬをむねとする。
 (○下略)

【付記】
 1993年に完結した『太田晶二郎著作集』全5冊(吉川弘文館。以下、『著作集』と略する)は、太田氏に親炙した亀井孝・飯田瑞穂両氏が中心となって編纂された。ことに博覧強記で知られる飯田氏が作成された「年譜および著作目録」(『著作集』第5冊所収)は詳密というほかなく、飯田氏の尽力によって、『著作集』は一代の碩学たる太田氏の学風をよく後代に伝えるとともに、考証学を志す学徒のたずきとして不朽の価値を有する書物に仕上がった。

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 上記の 竹内理三先生、森克己先生、飯田瑞穂先生の三先生は、
  ●竹内先生には、中央大学大学院の授業で、森先生のお招きで、寶月圭吾先生と共に
   中央大学文学部の10階研究室においでになりお世話になった。
   お酒好きの私が、
   清酒会社の銘酒「白鹿」にならって「はくしか」と、『参天台五台山記』購読中の文章で読んで
   笑われたものである。

  ●森克己先生は、勿論 中央大学入学以来、大学院を通じてお世話になったし、野沢温泉にいまだに
   関係を持って 毎年出かけているのは、先生の生まれた村であり、墓参りを兼ねているからである。

  ●飯田瑞穂先生は、中央大学入学以来お世話になりっぱなしで、恩返しもしないうちに、早くして
   お亡くなりになった。私ら夫婦の仲人をお願いした先生である。
   今の私のやっていることには 先生の教えのほんの一端を実践しているに過ぎない 
   その恩恵は 語り尽くせないものである。


 新年に ふさわしい 文章を見ることが出来て うれしい。
      明日から また 酒浸り生活から脱出して 勉強に取り組む決心をした。







 
2017.01.04


昨年は 中央大学教授 石井正敏さんが亡くなって、ずいぶんガッカリした。
  これは、また 別の機会に述べるとして、

また、古代史の古田武彦さんが亡くなって 1年たった。
  東北大学の日本思想史を出た 純然たる古代史の文献学者とは言えなかったが、
  私が大学在学時代に、一世を風靡した
  『邪馬台国はなかった-解読された倭人伝の謎-』(1971年、朝日新聞社、のち角川文庫、朝日文庫に収録)で
  それまでの高校教諭を辞めて、日本古代史 邪馬台国・九州王朝などなど新説を 新書本などで売り出し
  空前の古代史ブームの火付け役となった。

  私には 理解出来ないことの多い本の数々であったが、
  同じ高校教諭の職にあったとか、
  彼の父が旧制中学の先生で、赴任先の 福島県喜多方市で、大正15年に生まれている
  共通性があった・・・23年間の開きがあるが。

私が 飯田瑞穂先生の下で、 古代史の文献を読むことに苦労しているときに、
  思想史の考えを取り入れて 飛行した(?)古田史学、
  同じ時期に、パソコンデータをつかっての分析歴史学の安本美典さんの 言い合いをきく程度で終わって
  2人の説は、
  高校での授業で、 新説の紹介程度(?)に 取り上げて、日本史に生徒の興味を持たせることを続けていた。

 その意味では 古田先生にも大変お世話になった。 
  ご冥福を祈ります。





 

2016.10.20

7月に 急逝された 中央大学の石井先生を偲ぶ会に出席しました。
  何年ぶりかの (長男を連れて 中央大学まで通えるか 見に行って以来ですから 14・5年前になりますかね)
  八王子 中央大学です。 
 
私と 大学院同級の松尾正人教授の挨拶から 始まりました・・・・
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二部は 懇親会
  ダンディーな石井さんの写真・著作と 大すきだった バーボンが 飾られていました。
  
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  この石井さんと一緒の銚子波崎合宿で、恩師の飯田瑞穂先生や石井さんの体力知力についていくのは大変だと実感した話を
  木村さんが 加藤はそれ以来 ウイスキーを口にしていないと 紹介してくれました。その通り。
  21歳の時ですから それから 45年が過ぎました。

  その木村清治先輩と、石井さんの奥さま 陽基子さん(旧姓大炊御門さん 大学同級生です)と、私。
  45年、50年近くの三人です。 みかどさんの同級生の女性3人も 来てくださいました。

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   話したいこと 書きたいこと いっぱいですが、また いつか・・・


2015.12.12
土肥實平が いつ、どこで、亡くなったのかは 
 今もって よく分かりません。

候補地(?)は、 三つ。
     湯河原町土肥ではないことは確かです。

①地頭として もらって経営にあたっていた広島県三原市の沼田荘で、
 承久2年(1220年) 逝去  【米山寺過去帳】
                → 三原市の米山寺に葬られた。

②奥州藤原征伐の際、出羽三山の僧兵・修験僧を慰撫するため、山形県鶴岡市の羽黒山正善寺の黄金堂建設に
 建久四年(1193年)から携わっており、完成を待たず逝去  【正善寺の伝承による】
                → 鶴岡市井岡の遠賀神社山中に葬られた。

③平家を壇ノ浦で滅ぼしたあと、合戦前から追捕使として山口県長府で西国・九州の管理を努めている際に、
  建久元年(1190年)豊前國出張中に亡くなった。 【下関市長府の土肥次郎實平之城趾碑の裏面文】
                → 出先で亡くなったため、三原米山寺へ葬られた。 

 ①②③の いずれも、それぞれに葬られたあと、分骨されて運ばれ、
     鎌倉の頼朝に対面あってのち、城願寺に葬られたと考えられます。

次に 逝去年月日が どれも違っていて どれが正しいのか不明です。
  それは、土肥實平が、元々の領地であった相模国土肥郷(湯河原町)で亡くなっていないことが、幕府北條氏の正史ともいうべき『吾妻鏡』では、逝去時の記事として残されなかった理由だと思われます。場所も逝去年月日も記載されなかったワケでしょう。

 實平の逝去年月日と場所は 不明であるというのが 現在の結論でしょう。

でも、もう一つ 絞れないかという取り組みをしています。
が、それはそうとして、土肥實平だけが逝去年月日や場所が分からないのだろうかと考えました・・・・・・・

實平と一緒に、平家を一ノ谷で追い詰めた武蔵国の強力 熊谷次郎眞實(くまがいじろうなおざね)の場合は?
 ●東京大学史料編纂所の刊行する 権威ある『大日本史料』によれば、 實平の逝去年の直後の

   承元二年(1208年)九月十四日 京都東山比叡山黒谷で 往生を遂げた。つまり逝去したとあります。
  いつ? = 1208年。   どこで? = 比叡山黒谷で。


 『吾妻鏡』を基本にして、いくつかの史料を集めて比較検討して比定されたもので、正式な歴史を作ろうと始まった事業の正式刊行本の記事ですから、信用第一番の史料でしょう。
  でも、肝心の『吾妻鏡』に誤りがあったっとなると、話が違ってきますね。
  現在では、他の史料によってこのように考えられてます。

  承元元年(1207年)九月四日  武蔵国熊谷で 逝去した。
  いつ? = 1207年。   どこで? = 武蔵国熊谷で。

  コレが正しいと考えられます。
  死んだ年も、場所も間違っていたのです。
                                  
 論文: 2005年 東大大学史料編纂所研究紀要15号   林 譲 「熊谷直実の出家と往生とに関する史料について」

土肥實平と同じように 熊谷直実という有名な人物(出家して浄土宗を開いた法然の弟子となり信者までもった人)でさえ
 逝去年月日、逝去場所がわからないのだというのです。




 

2014.12.13
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