古代史の記事一覧 

 出雲大社 5種 

次回は、また、出雲大社 参拝か・・・・・

出雲大社の「心御柱」を永久保存 奈良で5年かけ樹脂加工 2012.2.7 19:57
心柱写真樹脂加工による保存処理が施されることになった心御柱=出雲市の出雲大社(平成13年9月撮影) 
島根県出雲市の出雲大社で平成12年、境内で出土した国の重要文化財「心御柱(しんのみはしら)」を、奈良市の元興寺(がんごうじ)文化財研究所で樹脂加工による永久保存処理を行うことになり、7日、搬送準備が行われた。8日に搬送する。
 心御柱は直径1メートルあまりのスギの巨木3本を束ねた柱根。同年春に出土した宇豆柱(うずばしら=側柱)に続いて、宮司家に伝わる図面通りに見つかり、“高層神殿”が実在した可能性を示した。
 心御柱は、これまで県埋蔵文化財センター(松江市)で大型水槽につけて保管していたが、奈良市の元興寺文化財研究所で今後約5年かけて木の細胞組織に合成樹脂を浸透させ、永久保存処理を施す。
 この日は、水槽の中から取り出した心御柱を和紙で包むなどして保護した。出雲大社は「保存・公開の方法など今後、具体的な検討を始めたい」としている。


出雲大社本殿の修造終える 17日から特別拝観 2012.2.13 20:30
いずも大社葺き替えが終わり、報道陣に公開された出雲大社本殿の大屋根=13日午後、出雲市
 「平成の大遷宮」として約60年ぶりに大改修が行われている出雲大社(島根県出雲市)で、国宝・本殿の修造がほぼ終わり、13日に報道陣に公開された。17日から今月末まで、特別拝観で一般公開する。
 広さ約590平方メートルの大屋根の改修作業は、葺(ふ)き師と呼ぶ職人たちが約64万枚の檜皮(ひわだ)を使って、昨年1月から約1年かけて葺き替えられた。
 大屋根最頂部で2本の木が交差する「千(ち)木(ぎ)」や「勝(かつ)男(お)木(ぎ)」は、明治時代の修復で施されていたエゴマ、松ヤニなどで塗装する「ちゃん塗り」を採用。これまでの緑青色から、重厚感を漂わせる黒色に変わった。
 3月から本殿を覆う工事用素屋根の解体に着手。来年5月、別の場所に移されているご神体を戻す「本殿遷座祭」を迎える。

現代の職人たちを刺激する話が大社にある。現在の本殿は高さ24メートルだが、かつては倍の48メートル、さらに昔は96メートルだったという言い伝えだ。長い間、疑問視されてきたが、2000年の発掘調査で、少なくとも48メートル説が現実味を帯びてきた。境内から、直径1メートルを超す杉の丸太3本をまとめて1本とした柱が、3カ所で出土したのだ。鎌倉時代前半に造営された本殿の跡だった。現在の柱の直径は80センチほどだから、当時の高さはどれほどになるのだろうか。
出雲大社5種
 建築学者5人が復元を試みた模型が、大社近くにある島根県立古代出雲歴史博物館に展示されている。5人のうち2人が48メートル、2人が40メートルの高さと推定した。
 「国譲りをした出雲の神のために宮殿を造ると、高天原(たかまがはら)の神が約束した神話が『日本書紀』にある。その宮殿の柱は高く太く、板は広く厚くするとも。出雲大社の本殿の高さは、大社の創始にかかわる重大な要素なのだろう」と、歴史博物館専門学芸員の平石充。40メートルを超える本殿があったとしたら、どんな技術で建てたのだろうか。想像は膨らむ


出かける価値は十分有るね!

 大河ドラマ「平清盛」見ました? 

ご覧になりましたか? 
 最近のNHK大河ドラマは 
 どうも 
きたない風体から出発するのが流行のようで・・・・
 これまで、織田信長、秀吉の日吉丸だけだったようなのですが・・・、
 先年の「龍馬伝」の龍馬や岩崎弥太郎で、定着したようです。

今回も、清盛が、
 平安時代末期、末法の代を荒らし回る武士くずれの盗賊達と争う若者として、きたない恰好で登場します。

ほんとうに そうでしょうか?
 私が良く「平家物語」で参考にするHP「風の音」さん → http://kazeoto.com/
 その冒頭部分の 「平清盛年表」をご覧ください。

 清盛年表若年
 HP作者の許可をうけておりませんが、紹介ですのご容赦いただくとして、
 図上にマウスを 置いてクリックしてください。大きく見ることが出来ます。



▼このように 清盛は、祖父や父忠盛の苦労・出世を受けて、武士では破格の出世をスタートさせており、
  12歳で「従五位下 左兵衛佐」 
  14歳で「従五位上」
  18歳で「従四位下」
  20歳で「肥後守」となっています。
 
▼一方、彼より一世代若い、頼朝はというと、彼も 清盛と並んで出世した父親の源 義家の出世を受けて、スタートしていました。
頼朝年表
図上にマウスを 置いてクリックしてください。大きく見ることが出来ます。 
  12歳で「皇后宮少進」 
  14歳で「右近衛将監」兼任
  18歳で「上西門院蔵人」
      「二条天皇蔵人」
       「従五位下」「右兵衛権佐」 となっていますが、
             このあと、父の失脚と自身の伊豆配流で解任されました。
  37歳で木曾義仲の追討のため、ようやく「従五位下」に復位。
  39歳で 一ノ谷で平家を追い「従四位下」壇ノ浦で平家を滅ぼし「従二位」
  43歳で 奥州藤原氏を討って「権大納言」つづいて「右近衛大将」となる。
  46歳で「征夷大将軍」

 両者は、このように出世しています。清盛の出世が早いことがわかります。
 清盛12歳の官位官職に、頼朝は18歳で到達です。
 いわゆる「平家でなければ・・・」という所以です。
 それにしても、二人は、異例の早さです。

 若いときのスタート位置、これは、本人ではなく、親のおかげです。
蔭位の制」という制度のおかげです。

結論: 清盛は、汚くなかった。
     乱暴者で、汚くできるような官位身分・出自・役職ではなかったと。

 平安時代末期の中央政府で、天皇・上皇に貴族の下で仕える武士団の二大巨頭である平氏と源氏の本家の跡取りと、
 江戸時代末期の田舎大名(?)の最下級の貧乏家来であった、岩崎彌太郎とはワケが違う。  

 


 

 「日本国王足利義満」 

メールで質問があったのでお答えしたが、材料もないまま、インターネットでも調べないままに。

質問: 足利義満は 日本国王足利義満   日本国王源義満
    を、どのように使い分けしているのでしょうか。


回答: 調べるものがないので、強引に推量でお答えします。
 足利義満の署名、印については研究もなされているようですが、
日明貿易(のち勘合貿易といわれるように、正式な室町幕府つまり日本国の許可を受けた貿易船か、否か決める、番号札での確認のやり方が確定しますこう呼ばれます)で、その利益から、室町幕府の、足利氏の、信仰している寺社の建設費用、修理費用捻出のために、貿易利益を宛てようしたようですが、その許可書には「日本国王足利義満」とか「日本国王源義満」を使用したようです。いま、私の手元には資料が無く、詳しく調べられませんが、室町将軍足利氏は、もちろん源氏の出身ですから、古来、天皇に代わる摂政・関白などの職制は、天皇家の血筋を引いた者が代行する資格を持つという考えが強く、天皇家から分化した(降下した皇族に賜姓した)姓を持つものの4氏=「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」(このうち、正式には藤原氏は、ご承知のように中臣鎌足が先祖で大化の改新の功績から、死亡時に天智天皇から藤原の姓をもらって、天皇家を補弼(ひつ)する立場になり平安時代に確立した)が、その名族になり、あこがれとそれに繋がりたいと思わせました。
 外国との貿易は、遣隋使・遣唐使のあと、新羅使・渤海使など不定期いあがい、平安時代で途絶えており、鎌倉時代に、三代将軍源実朝が鎌倉から交易船を出したときにも、天皇許可でなく、鎌倉幕府将軍の個人的資格として、名称は「日本国王源実朝」としたはずです。これに続いて、元寇後の中国では、室町幕府の将軍が、(建武の新政で、後醍醐天皇は特出したが、外交面では天皇が正面出でることはないので・・・)日本国王と名乗ることに、中国は当然と考えて受け入れたと思われます。(日本国内では、国王の名乗りに、不適切との天皇グループ貴族や五山の僧の批判はありましたが・・・) ただ、最初は「足利義満」と名乗りましたが、上記の理由から、天皇代理への意識から「源義満」を名乗ることになっていったと思われます。
 つまり、時間的変化、意識の確立に過ぎない理由と思われます。いかがでしょうか? 質問材料とに齟齬は無いでしょうか。
知っていることを、思いつきで書いています。
 類推するなら、ちょっと不安ですが、貿易せずに攻め込んだ次の時代の秀吉は、中国への手紙には「日本国王豊臣秀吉」と書いたか、「日本国関白秀吉」あるいは「日本国関白藤原秀吉」と書いたはずです。傍証としてご存じの江戸時代の「朱印船貿易」では、完全に江戸徳川幕府の専制事項として、海外派遣許可をしたものですから、貿易許可書の四角い朱印には、「弘忠恕 源家康」と書かれていたはずです。誠実に国交を広めるの言葉と、徳川氏の出自は、足利氏の傍流に続くので、当然、源氏という結論からです。 




 平城京の「大極殿」復元に感慨 

 喜田・関野といった先学が、その所在や、平城京の条里制を巡っての論争を経て、国家買収の結果、保存再建の方針で続けられてきた奈良の都。

 近鉄西大寺→奈良駅線路近くに、すでに復元されていた宮城への玄関である
  「朱雀門すざくもん」
 につづいて、
 政庁の中心である
  「大極殿だいごくでん」
 が、ながい時間をかけて復元工事が進んできたが、いよいよ、覆い屋根が外されて、姿を現した。
 大極殿2

 関西の新聞がカラー写真で報道している。
    大極殿1
 
 思い出せば、40年前に、大学の研修旅行で、平城宮の大極殿や朱雀門の発掘現場を訪問し、
 その後、飯田瑞穂先生についての研修旅行。
 就職してから、春日野荘に宿泊の、父親を連れての奈良飛鳥の散策、
 修学旅行の生徒を引率しての見学、
 戸田市文化財研究会の研修旅行、
 妻とのドライブで、
などなど、
 行くたびに、発掘から、公園整備、復元施設、朱雀門の建設、そしてこの大極殿の建設に至ったことは、感慨無量である。 

 時あたかも、平城遷都709年から、1300年の折も折、良いときに生まれていたと思う。
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また、「せんとくん」の誘いに招かれて、来春、出かけてみたいものである。




 今日の一枚 「夏の波崎合宿」 

 
 今日の一枚、イヤ 二枚は、今から40年前の大学4年の夏休みであろうか、
古代史の飯田先生と大学院の院生、先輩方の合宿に、学生で無理を言って参加させていただいた。
場所は、利根川の河口、銚子市の対岸、茨城県波崎。
 確か、「令集解」を読む合宿であった。
その苦しい勉強合宿の前に、銚子犬吠埼を散策したときの写真である。

 調子外れ
 波崎の合宿

 まさか、途中で私が脱落して、鹿島水戸方面へ向かった先輩方を見送りもせず、
一人、銚子駅から急行犬吠で秋葉原へ、そして、その足で新潟へ帰ることになろうとは・・・
 知るよしもない。

この合宿以来、「二度とウイスキーは飲まない」と決心したことは、今も守っている。
 来年で、40年たつ、誓いである。

 
 

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酒宴酒場の仮亭主

Author:酒宴酒場の仮亭主
「酒場で歴史を語る会」は、歴史好きそして酒好きの多士済々が、折を見て江戸の地を徘徊し、早々に酒宴で談論風発・丁々発止と相成ります。酒宴亭主が、足跡記録のため、日常の情報保存場所として開設しています。

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