昔から 私の秘蔵愛読する(?) きれいではなく、日焼けした文庫本に
鹿島萬兵衛 著、大正11年(1922)『江戸の夕栄ゆうばえ』には、
 このように書かれています。この「夕栄」は、中公文庫で、もう絶版であろうか、久しく書店では見ない。
 そのため皆さんに紹介できなかったが、
江戸の夕栄鹿島萬兵衛中公文庫M44 私蔵本は昭和52年刊240円 表紙は明治12年の木造江戸橋
 インターネットで、内容が公開されて読めるようになっているので、ご紹介します。
 http://books.salterrae.net/amizako/html2/edonoyuubae.html

 迷子探し  
 夏期(ママ)は割合に少なきも、冬分木枯し吹きすさむ頃になると、弓張提灯をつけ夜中四五人の一連(ひとむれ)、鉦を太鼓を打つかなしげな声で、「迷子の迷子の何某やあーい」と呼びあるく。これは子供のみにあらず、老人もあり、妻女もありて、いかにもかなしげな陰声なり。両国橋、一石橋等には迷ひ子のしるべといふ石碑あり。尋るかた教ゆるかたの二方面あり、警察はなし新聞紙なき時代には、自力をもって尋るのほかなかりしなり。
 

 そのような悲壮感漂う、迷子探しの噺であるが、先日、日本橋の「一石橋」でご紹介した。
・・・・・・・・・・・
さて、その迷子石の正面根元に、赤丸で囲んだように、
 記号がついている。明治時代の水準点を示している。測量に使う三脚に立つ製図板を表している。正確な国内地図を作成するため、本来は石で「水準点」と刻むのであるが、手間・費用・時間節約で、比較的移動しない場所、物体に、この図のマークのみを彫りつけたのが最初で、これがそれです。と話したものの、
 「この印は、何と呼ぶんですか?」との質問があったのに、「あとで まとめて皆さんへお話します。」と応えたものの、実際にはハプニングがあって、行程が遅れて話すことが出来ませんでした。

迷子しらせ石 小 几号水準点

 そこで、取り急ぎ、このブログでお答えします。
これは「几(き)号水準点」と呼ばれ、明治9年(1876)ごろに内務省が実施したイギリス式の測量点で、標識の形は 測量三脚の上の机に類似しているところから「机=几」とされたこと。その形から「不号水準点」ともいわれたこと。
ところが、当時の水準点は
 ①独立した標石のほか、
 ②恒久的な建築物もしくは石組みなどに「不」の字に似たこの標識を刻みこんだ。測量はその横棒部分に測量器具をあてて標高を計測したという。
 ③英語では「Bench mark」と呼ばれている。基準点は霊巌島水位標をゼロメートルとした。
 ④皇居から、塩釜迄の奥州街道を中心に、一定区間ごとに、石像物に、この「不」に似た記号を彫り込んだ。
 ⑤残念ながら、その作業が中断して、別の方法で水準点が図られ、地図が作られたので、無用となって放棄されている。
 ことを、当日お話し出来なかった。
 ので このブログでお話ししました。


 そのようなわけですから、現在、地図には使われないままに、この記号だけは残っているのです。
 その一つが、ここ一石橋の迷子石にあるのです。

それでは、東北地方の地図を作ろうと、準備として水準点を各地に作ることにしたわけだから、
 埼玉県でも、草加・越谷・春日部・杉戸・幸手にも確認されています。
 足を運んでみて下さい。

▼例を一つ春日部市三峯神社
 春日部駅 東口改札を出て左の宴会場「やまや」へ入っていく道を進みすぐに自転車預かり店の先を右折して、食料品スーパーの並びの「三峯神社」があります。その本社の右側、石碑が並んでいますが、その一番背の高い道標「さるたひこ乃神」「神明道 長廿四丈三尺広八尺」の字の下部にあります。

 この石碑は、道標として、奥州街道の通っていた春日部宿の丸八酒店の正面、角に残る山中千住観音堂(宝来家中華店並び)の敷地角に建っていたものと思われます。後の道路拡張(きっと馬車鉄道が開通した頃でしょうか・・・)で、この境内に運ばれたものでしょう。江戸時代の神明社は、多くの神が合祀されて、今は三峯神社と地図上で呼ばれているものと思われます。地元ではまだ、神明社と呼ばれているのかもしれません。
 
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2012.01.09
正月4日に歩いた 恒例の江戸散歩、
年賀状や、参加の感想も寄せていただいていてありがたいものであるが、
コースを、もう一度 再確認しておきたくて、江戸時代の切り絵図にコースを書き込んだものを作った。

    コース図大
   画の上にマウスを置いてクリックすると拡大します。
2012.01.07
毎年のお正月 吉例の正月歴史散歩は、
 今日、10時に、
日本橋のたもと、ここに集まっていただき、「日本橋魚市場発祥地」の碑前からスタートして・・・
集合地図

 午後3時30分、小伝馬町の駅近く、伝馬町牢獄あとの十思公園で 散会することが出来ました。

とちゅう、具合の悪くなった方が出て、時間が遅れましたが、対応の法が大事です。
 その救急措置も、参加者、駅員、三越の方々に協力していただいて、
今晩は、大事をとって、ご主人がついて様子を見ることになったという報告をいただきました。
 それならよかったです。お大事に。
 元気で また参加して下さい。

 明日、対応して下さった関係のところに、お礼を言っておきます。

 今日は 私の足で、15197歩。 延べ、10時~ 4時間半 歩きました。
 ご参加のみなさま 大変お疲れ様でした。
 ありがとうございました。


 昨年の春4月に、私が 行ったときには、フェンスに囲まれ、樹木に覆われて近づけなかったところの
 「一石橋」の迷子訪ね石柱が、年末までにきれいに整備されていて驚きました。
 隅からスミまで、皆さんに見てもらいながら説明できました。
 
 2011春迷子石         迷子しらせ石 小
      :昨年春、金網の目にレンズを入れて撮った苦心の作。 、本日の様子 
 
こんなに違いました。見やすくなりました。
 まるで、私達がここを見学に来るために、あわててやっていただいたように 
 きれいにフェンス・雑木も払われていました。
  
 文句は言ってみるものですネ 
 ありがとうございました。中央区役所・都教育委員会 様
 
2012.01.04
名所絵図
『江戸名所図会』元旦諸侯登城之図 (大名屋敷門前には一対の門松が立てられている)

1 この門松は 空に向かって大きく広がったデザイン。4・5メートルもある竹を、笹葉をつけたまま束ねて、周りに松を飾り、土台は薪か太い竹でしっかり囲んでいる。
このようなデザインの門松は、武家の屋敷や大店で好まれた。その他にも、
 梅が咲いていれば梅も加えたであろうが、松と竹を飾る門松の飾り方は数多く、職業や地方によってもデザインが違っていた。自分の領地の地方色を、江戸の屋敷前に、各大名家が披露するのだから、様々な門松が見られたはずである。が、残念ながら、この絵だけでは、どこの大名屋敷前か不明である。

2 そもそも 正月は、井原西鶴の『日本永代蔵』や『世間胸算用』に依るまでもなく、「歳神様としがみさま」を迎え入れる行事であるが、門松は、その歳神様の依代(よりしろ=神の宿る場所)と考えられていたから、古来より神は 常緑樹に宿るとされていたから、松を飾り、松以外にも、榊や、注連飾りに使う、裏白やゆずりはもである。
 まとめると、歳神様を迎えて祝うのが正月で、門松は、歳神様が降りてくる時の目標物で、正月明けの「どんど焼き」は、歳神様を煙に乗せて送る祭であるといえる。
 
3 さて、上記『江戸名所図会』元旦諸侯登城之図は、将軍への新年拝賀の礼、新年挨拶に出かける大名行列の様子である。一般に「元旦登城」と呼ばれているもので、卯半刻(午前7時頃)と決まっていて、一斉に大手町へ集合したが、正月三ケ日間で、元旦には御三家(尾張、紀伊、水戸)、御三卿(田安、一橋、清水)の他、譜代大名や前田家(加賀)など外様の大藩。以下、大名の家格による拝賀礼が決められたいた。
 登城口は、大手門と内桜田門(現桔梗門)の2ケ所。門前の橋に「下馬所」立札があり、馬や駕籠から下りて歩いて入城するが、その先に「下乗所」があり、格の高い大名はここまで入り下りる。老齢の大名もここまで駕籠に乗ってくることが許されていた。よって、供の者は「下馬所」の広場で殿様の帰りを待ち続けた。
 だから、三が日のお堀端は、諸大名のお供の群衆で混雑していた。主人を送った後は気楽な時間。飲食する者や寝転がっている者、賭け事のような遊びをしている様子の絵も残っている。そんな客を目当てに棒手振(ぼてふり)商人もやってきたし、二八そばの屋台も出た。
 さらに、この登城風景を見物する民衆が出た。大名はその格に見合った行列を整えなければならなかったから、「あの行列がどこどこの殿様で、まるで貧相だ」などと江戸っ子は、面白がって評価していただろう。

4 東京都中央区、中央通りの日本橋高島屋デパートと向かいの丸善書店と交差する「桜通り」が南へ下り、昭和通りを横切り、今は首都高速になった掘り割りにかかる「新場橋」を渡って、左側。掘り割りと、東の兜橋と西の中央区役所の南を結ぶ昔の「都電通り」今の「平成通り」の間に大名屋敷が二つ並んでいた。北八丁堀町の大きい方が熊本藩細川越中守中屋敷、
 東側の半分くらいの屋敷が丹波綾部藩九鬼式部少輔の上屋敷である。(現在、中央警察署、坂本公園となっている場所である)
江戸切絵図
 ここは、新年の門松で、大変有名な屋敷であった。

5 九鬼氏というと、深川の小名木川に面した下屋敷では、万年橋脇に住んだ松尾芭蕉もよく見ており、「鹿島紀行」に旅立つ時に小舟にのって東行するときに、その下をくぐったはずの九鬼藩邸の黒板塀から道路・小名木川に枝を伸ばす五本松は有名であった。今は残っていないが、
    九鬼五本松    五本松 広重浮世絵
「江戸名所絵図」にも、広重の「名所江戸百景」にも 上のように描かれている。
「江戸名所図会」では、本文の挿絵であり、絵に「九鬼家の構えのうちより、道路を越えて水面を覆ふところの古松をいふ」とあり、「川上とこのかはしもや月の友」と芭蕉の句が引かれている。広重の絵は、その構図がすばらしく、松が小名木川に落ちるように枝を伸ばし、それを三本の柱が支えているダイナミックな構図である。

6 さて、本題に戻ろう。

 九鬼藩邸の門松には、正月元旦から七日までの毎日、門限が過ぎて門扉が閉まると同時に、両門松に渡してある綱の中程に下がっているお札を、庶民が争って奪い合うことが吉例になっていたというのだ。「九鬼の切札」と呼ばれた、下がっている木札は、段々大きくなったらしく、これを手に入れた者の幸せは間違いないとして、近くの漁師・海運業の関係者が特に、個人、組をくんで、毎晩30人から50人が争奪戦をおこなったようである。この切札を手に入れた家では、神棚に飾り酒宴を催し、なぜか一年間、鮭を喰らわなかったという。

7 その話は、どんこかで読んだが・・・その切札という木札には、なんと書かれていたのだろうか?それが気になっていたところ、
 先日、この師走の半ばに、伊勢神宮に行って、伊勢の町町には、一年中、松飾りを玄関上から外さないで飾りっぱなしだということを、自分の目で見てきた。
 注連飾り
 この「伊勢飾り」は 撮ってきた写真の通りであるが、
  松飾りの中心の木片には「笑門」とか「蘇民将来子孫家」とか書くのが通例であった。
 
8 九鬼邸の切札も これに類するものと見当付けていたが、
 今回、京橋図書館の「郷土室だより」を調べていて、
 前にも紹介した安藤菊二先生の論文(昭和63年第60号)から、

九鬼家の門松の木の切札には
表「蘇武将来子孫家」、
 ウラには 図のように書かれていたことがわかった。
 
 (表)私が筆記             (裏)論文から引用
 蘇民将来 九鬼切り札3

9「蘇民将来」「蘇武将来」は、まあ、招福の呪文?であるから、下げる板の文字はわかったが、
 問題は、裏面のほうである。
 奈良から平安初期にかけての真言密教の厄除け呪文「九字を切る」の「九字」マークの下に
 「急急如律令」
 その下に、魔界を退ける平安時代の有名な陰陽師安倍晴明の「晴明九字」の星マークである

 
 中程の「万が一の時は、律令により守られる」という文言も、律令が有効であった平安時代初期・中期まで
 に、使われた文言だと思うから、意味深長である。武家では使われなくなった江戸時代に、このお札のいわれの古さを示して興味深い。

 表は、招福で 歳神様をお迎えする。
 裏は、厄除けで、魔界からの疫病神を退散。させる。表裏一体の合理的・有益なお札であり、
これを、綱から切り落として持ち帰るので「切札」と言ったのだろう。

 その様子を描いた図は、まだ管見しないが、九鬼邸の門は北向きの掘り割り側道に面していたので、
 江戸時代の人は、その様子を「新場橋」から よく見えたであろうとおもう。

10 そもそも、「九鬼氏」という苗字自体が、珍しいから、この門前を守る門松の霊験あらたかなおこぼれに
 預かろうと、そのお札をもらい受けるという 江戸っ子の気持ちがわかろうというものである。
  ①九鬼氏は、呪術とどのような関係があるの家系なのか?調べが必要だ。
  ②九鬼氏に、この風習が今も続いているのだろうか、本家に聞いてみたいモノだ。
  ③九鬼氏の支配地、京都北西の綾部市地方の風習が反映しているとも考えられるので、
   このような風習が伝わっているか、綾部市の観光課や教育委員会に問い合わせしてみたいものだ。
2011.12.30
おまちどうさまでした。ようやく今晩 決定の計画を発表します。
葉書でお知らせするよう印刷して
明日30日 午前中に郵便局に ポスト・インします。

下記のように このブログでもお知らせしますので、
 見た方は、集合場所・日時を教えてあげて下さい。
意外と、郵便は、元旦配達のあとは、1月2日は配達無しで、3日でないと配達されないかもしれないので
 

 福を呼ぶ・・・西鶴が評価した日本橋「越後屋」周辺を正月に歩く
日  時    平成24年正月日(水)  半蔵門線三越前駅10時集合
雨天決行   参加はどなたでも結構ですから、家族・友達をお誘い下さい。現地集合・現地解散 
郵送案内資料代として 300円当日集金します。参加の申し込み不要です。

電車の例
久喜駅 8時 26分発 区急浅草行 → 東武動物公園駅 8時33分着乗り換え

東武動物公園駅 8時42分発  準急 中央林間行半蔵門線直通・乗換え無し
春日部駅    8時49分発  ↓ (春日部から片道640円) 
越谷駅     9時09分発  ↓
新越谷駅   9時11分発  ↓
草加駅   9時16分発  ↓
北千住駅   9時30分発  ↓
  三越前駅下車9時52分着(半蔵門線)
集合地図
  
 半蔵門線三越前駅ー最後尾B 6出口地下に10時に集合。資料配付のあと地上に出て

ー日本橋魚市場発祥地碑(旧魚河岸)ースルガ銀行前ー按針町碑(三浦按針旧居)ー江戸橋方向へ、ー江戸橋ーコレド日本橋アネックス(白木屋跡・白木屋の名水跡)ー榮太樓総本舗ー後藤縫之助(呉服商)ー呉服橋跡ー北町奉行所跡(東京駅新幹線北口)ー一石橋・一石橋迷子しらせ石標ー常盤橋をわたりー見附跡・石垣ー日本銀行本店(金座跡)ーー三町年寄樽 藤左衛門/奈良屋市左衛門/喜多村弥兵衛屋敷ー越後屋(三越百貨店)ー三囲神社-地下の「熈代勝覧」絵巻ー(12時40分~13時40分まで昼食解散1時間をとります。各自 三々五々)ー木屋ーコレド室町(にんべん)ー三井本館(三井信託銀行)ー日本橋三井タワー(三井記念美術館玄関と千疋屋)ー須原屋書店跡ー長崎屋跡(阿蘭陀カピタン)ー時の鐘旧跡ー大安楽寺ー十思公園(石町・時の鐘、伝馬町牢獄跡)ー大丸呉服店跡ー通油町耕書堂跡(大伝馬町・蔦屋重三郎)ー 
 
 日比谷線小伝馬町駅 15時すぎ解散予定(1時間弱で春日部駅まで直通で帰れます)

 ※解散後、近くの開いている安酒場で御神酒を交わす予定でおりますので、ご希望の方はご参加下さい。
2011.12.30
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