旧暦では 5月17日から27日の間にあたる、
  きょう 
  新暦の7月3日から13日までの間に
  
松尾芭蕉は 曾良と 『おくのほそ道』行脚のうち、
  尾去沢の商人 鈴木清風をたづねて、知り合いの寺 養泉寺の境内に 初夏の暑さをしのいでいました。

  2011年10月25日 越谷春日部の公開講座の皆さんと 私は 村田清風家跡の資料館にいました。

     鈴木清風宅

  そのあと 鈴木清風宅から 500m位 離れた 町外れの「養泉寺」を 訪ねました。

    養泉寺

  境内の「涼し塚」という 芭蕉の句にちなんで立てられた 句碑を みんなでのぞき込みました。

      「涼しさを わがやどにして 寝まるなり  はせを」
 
      涼し塚

  この養泉寺の門前を通る「羽州街道」をとおり 芭蕉と曾良は 鈴木清風に勧められて、
  この新暦7月13日に、南下して 「山寺」へ向かいました。 
  
  二人のいた この寺は高台にあって 写真の羽州街道の下、田んぼから吹いてくる涼しい風に助けられました。
     (写真は 行ったのが 10月末だったので、稲刈りが終わっての 黄色い田園風景でしたが、
     芭蕉と曾良が目にしたのは、田植えが終わっての 緑の水田であったし、畑には「紅花」のオレンジ色の花が
     満開に近づいていたはずです・・・・ 
 
     羽州街道

  朝早く出て、6時間ばかりの徒歩で、夕方前には 山寺こと「立石寺」へ到着して、宿坊に荷物を置き、
  早速、急で長い階段を上り始めました。 蒸し暑い山中の木々に鳴く 蝉の声が うるさいほどでした・・・・

   山寺

  芭蕉像が、写真左手に造られ、後に 曾良の像が 右手に作られて・・・・ その前で写真撮影をしました。
  芭蕉と曾良は きょう 12日に支度をして 13日早朝に 山寺へ向かって出発しました・・・・・
 
 

 こうやって見ると 懐かしいですね。 しばらく 公開講座をお休みにしていますが 皆さんお元気でしょうか?



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2015.07.12
何気なく TVを 見ていた・・・ 歩き回りながら・・・・
  それは 
今朝の 4ch 日本テレビ
  「ぶらり途中下車の旅」
は 東京スカイツリー線

途中下車の旅

 散歩者が、橋を渡っていくシーンがあり、絵柄が・・・何処かで見たことがある!? 
   橋を渡って 左折した・・・・   わかった!  
   これは 東武動物公園駅で降りて歩いているんだ

 そして この右の店の前で 「良いにおい 風情あるお店・・」の声


        burari_26631.jpg
    
  
 そうです、 「うなぎ 高橋屋」でした。

       高橋うなぎ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 そこで 散歩者が 何を食べたかは ・・・ TVを見ることを やめてしまいましたから、わかりません。
 さっそく、 越ヶ谷の公開講座で、『おくの細道』を 北千住から歩くことをやっていて、
 その参加者に電話して確認しました。

あれは・・・ 平成25年11月24日でしたね。 春日部駅から日光街道を歩きました。
    参加された皆さんの解散場所から、この高橋屋の前を 
    においを かぎながら帰ったことを思い出しますね。

           春日部宿まえ

 そんなことを 話していたら、思い出しました。

戸田市文化財研究会の 8月5日の佐原の昼食を 予約できるかを 問い合わせることが仕事だった。
  希望のソバ屋さんへ電話しようと 店の案内を見たら 

  なんと、予約したい 8月6日は水曜日で 定休日だったのです!
 
  これで ソバ屋さんが こちらも うなぎ屋になりそうなので・・・  
                 
                           
      以上 ウナギの話 二題でした 


 
 
2015.06.20
敦賀の第二日目、8月10日である

朝、浜出、詠ム。日蓮ノ御影堂①ヲ見ル。
十日 快晴 巳刻、便船有テ、上宮②趣、二リ。コレヨリツルガヘモ二リ。ナン所。帰ニ西福寺③へ寄、見ル。申ノ中刻、ツルガヘ帰ル。夜前、出船前、出雲や弥市良④へ尋。隣也。金子壱両、翁へ可渡之旨申頼預置也。夕方ヨリ小雨ス。頓 而止。


日蓮ノ御影堂①

開山堂
今の県道から 色ケ浜の集落へ右に下りると本隆寺の開山堂があります。 日蓮宗の日隆上人を開基としており、それを祀ったのが開山堂です。この集落の中程にある本隆寺の本堂境内には 御影堂がないので、
  曾良は日蓮宗の偉人の御影堂という意味で、開山堂を見て 日蓮の御影堂と思ったのかもしれません。

上宮②
常宮神社monn 常宮神社
  正式には、「常宮神社」と書きますが、よみの「じょうぐう」の当て字なのでしょう。気比神社の奥宮という存在ですから、曾良も わざわざ 色ケ浜の本隆寺からの帰り道 舟で立ち寄ったのでしょう。
  上の鳥居の写真にもあるように、海岸沿いに参道のある神社のため、私も 県道に沿って石垣があるので すぐに分かりました。曾良についで 数日後にやって来た芭蕉でしたが 残念ながら その 芭蕉句の碑文は読めません。

西福寺③
   この夏の門前に ひまわりが咲きます。書院の庭園は名園です。
    敦賀西福寺夏 西福寺庭園

出雲や弥市良④
     出雲や芭蕉宿泊
   別々に 敦賀へやってきた曾良が宿泊したのは 「やまとや」で、
      芭蕉がこのあとやってきて泊まったのが、隣の「出雲や」でした。
その理由は?
  A はじめから予定していた旅籠「出雲屋」が、曾良が行ったときは 満員だった。冠婚葬祭行事で部屋が開いていなかった。
  B このあと、芭蕉も泊まるのが「大和や」の予定だったが、あまりにも しつらえが良くなく、部屋が狭い汚いなど・・だったので、曾良は自分の体験から 芭蕉のことを考えて、隣の「出雲屋」に変更して予約していった。

  そこで、曾良は、一両のお金と、伝言の手紙を書いて、隣の「出雲屋」を予約して、次へ向かったということになります。残念ながら、その旅籠の様子は、今は 写真・絵図などで見ることが出来ません。
  こんど 私の大学の先輩で 敦賀にお住まいの多仁さんに、問い合わせてみましょう。 

 

2014.07.20
『曾良随行日記』  1689年(元禄二年)8月 (文中太字は地名人名)

 一 九日 快晴。(中略)
  未ノ刻、ツルガニ着。先、気比へ参詣シテ宿カル。唐人ガ橋大和や久兵へ。食過テ金ケ崎へ至ル。山上迄廿四五丁。夕ニ帰。カウノヘノ船カリテ、色浜へ趣。海上四リ。 戌刻、出船。夜半ニへ着。クガハナン所。塩焼男導テ本隆寺へ行テ宿。

 敦賀写真
   ※写真地図の上にマウスをおいて クリックすると拡大します
こんな訳をしました

 1689年8月9日
 未ノ刻=14時に 曾良は敦賀に到着して、まず、気比神社を参拝しました。北から南下している彼にとって、町に入って最初に出会う大きな建物が気比神社①であったから、当然です。参拝の後に、西へ100m歩いて、唐人町・唐人橋と呼ばれていた、現在の相生通りにあった、やまと屋きゅうべいの旅籠②に泊まることになります。おそい昼食を取ってから、
北方の金ケ崎へむかい、「金前寺」③ まえから、山に登り、距離2.5kmで古戦場「かながさき城跡」を見に行き、夕方には いったん宿へ戻った。
 そこで、敦賀湾の流通船輸送の組合であった「川舟座」・「河野屋座」のうち河野屋の舟を借りて、色ケ浜④=種ケ浜=いろが浜へ送ってもらうことにした。舟旅で湾の中を4里=20kmであった。夜8時に舟出して、ついたら夜0時過ぎになっていて、4~5時間で着いた。ここへは陸上を歩くのは難所⑤である。到着して、色ケ浜の塩焼きをしている男に案内をしてもらい、本隆寺⑥へ行って宿泊した。


気比神社① 朱塗りの大きな鳥居
   気比神社鳥居 気比神社拝殿

相生通りにあった、やまと屋きゅうべいの旅籠②

   出雲や芭蕉宿泊    出雲や碑
   左の駐車場奥にあるのがソースカツ丼で有名な「ヨーロッパ軒」敦賀店。その右にあるレンガ風の造りが
   ウメダ喫茶店で、その前に芭蕉の宿泊した 「芭蕉翁宿泊 出雲屋跡」の石碑が建つ。その隣が その数日前に
   宿泊した「大和屋」であったというが、駐車場がそのあとかは不明。もちろん曾良宿泊の碑は建っていません。

金前寺③ 
 
   金前寺  鐘塚前

色ケ浜④
     敦賀半島写真
     色が浜沖島
   
陸上を歩くのは難所⑤
  曾良も 遅れてやって来た芭蕉も、色ケ浜へは、道を歩かず舟で行ったことが知られる。
   曾良は 日記に「陸は難所」つまり「陸路は難所つづきだから」と書いている。
   戦前までは 1車線の狭い路で、崖くずれも多く、冬の北風にも悩まされた半島の道路であって、江戸時代以前と同様に、舟で湾内を行くのが、安全早道だったことが分かる。
   県道33号線
  現在は、このように二車線の舗装道路で 敦賀市内から30分ほどで 色ケ浜へ行くことが出来る。 その道路整備の契機は、道路標識のような 敦賀原発・美浜原発の建設工事・点検補修作業のための大型機材搬入の必要性からであった。
  この浜へ行った 西行も 曾良も 芭蕉も、想像も出来なかったことだろうと思う。

本隆寺⑥
今の県道から 色ケ浜の集落へ右に下りると本隆寺の開山堂があります。  日蓮宗の日隆上人を開基としており、それを祀ったのが開山堂で、 堂脇の左に 曾良、そして芭蕉が ここを尋ねる契機になった・・・
 「潮染むる ますほの小貝ひろふとて 色の濱とはいふにやあるらむ」西行の歌碑と
 「寂しさや 須磨にかちたる 濱の秋」芭蕉の句碑があります。記念写真を撮りました。

    本隆寺まえ   色ケ浜芭蕉句碑

                              開山堂の前の小路の先には色ケ浜が広がります
     ironohama-hama.jpg    色が浜を見る



2014.07.20
これまで 何度も前を通ったことのある 奈良県の天理大学図書館に所蔵されている
 復刻版表紙  右は「奥の細道」屏風 与謝蕪村画の曾良・芭蕉 
soranikki_1.jpg basho_hiraizumi_buson.jpg

その、芭蕉の遂行者である曾良の日記は、私のような歴史地理好きの者にとっては、
 時に 芭蕉の「おくの細道」よりも 興味津々である旅行メモなのです。その、

最後の部分は、敦賀から大垣へ向かう部分が下のような内容となっています。


『曾良随行日記』 一六八九年(元禄二年)八月 (文中太字は地名人名)

一 九日 快晴。(中略)
 未ノ刻、ツルガニ着。先、気比へ参詣シテ宿カル。唐人ガ橋大和や久兵へ。食過テ金ケ崎へ至ル。山上迄廿四五丁。夕ニ帰。カウノヘノ船カリテ、色浜へ趣。海上四リ。 戌刻、出船。夜半ニ色へ着。クガハナン所。塩焼男導テ本隆寺へ行テ宿。
 
朝、浜出、詠ム。日蓮ノ御影堂ヲ見ル。 十日 快晴 巳刻、便船有テ、上宮趣、二リ。コレヨリツルガヘモ二リ。ナン所。帰ニ西福寺へ寄、見ル。申ノ中刻、ツルガヘ帰ル。夜前、出船前、出雲や弥市良へ尋。隣也。金子壱両、翁へ可渡之旨申頼預置也。夕方ヨリ小雨ス。頓 而止。
 
一 十一日 快晴。天や五郎右衛門尋テ、翁へ手紙認、預置。五郎右衛門ニハ不逢。巳ノ上尅、ツルガ立。午ノ刻ヨリ曇、涼シ。申ノ中刻、木ノ本へ着。
 
一 十二日 少曇。木ノ下(本)ヲ立。午ノ尅、長浜ニ至ル。便船シテ、彦根ニ至ル。城下ヲ過テ平田ニ行。禅桃留主故、鳥本ニ趣テ宿ス。宿カシカネシ。夜ニ入、雨降。
 
一 十三日 雨降ル。多賀へ参詣。鳥本ヨリ弐里戻ル。帰テ、摺針ヲ越、関ケ原ニ至テ宿。夕方、雨止。


いやー 是非 自分の目で見てみたいと思う部分です。
 特に、この部分は 
 山中温泉で 別れた芭蕉と曾良の旅行でしたが、敦賀までは、芭蕉は金沢からの同行者が付いて来ていて、
 彼が帰えったあとには 敦賀に大垣から弟子が迎えに来ていたので、結局、芭蕉は独りぽっちにはならなかったのです。
 でも、曾良は、体調不良というので、数日前に早く 住まいの名古屋へ戻るというものであったのに
 この日記では、自分より遅れてくる芭蕉の世話をしてくれと頼み、お金まで置いていることの分かる部分です。
 あくまでも、曾良は弟子。芭蕉は先生でした。
 それを分からせてくれる内容の部分です。

これまで 多くの皆さんと一緒に読んできた『おくの細道』では、とびとびでした私の歩行部分を、少しでも狭めたいと
 出かけたくなる部分ですよね。
 それでは、次回敦賀(つるが)から・・・・


2014.07.19
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