忘れていた 恋ダンスの 星野 源さん 
  彼の衣装ファッションで気づくことがあるかという 私の質問の
  回答が遅れていました。下のファッションですね。

  代官山のTUTAYAでは、 昔 その代官町・猿楽町にあった

   地元の名会社 ①「ヨット鉛筆」の大々的な復活(?)と 
   ②「ヘンミ 計算尺」の展示販売。 そして ③ もう一つは?
   星野さんのファッションに関係する③も あわせて大々的な復活を(?)させては?                                                        
      というのが 私の提案でしたが・・・ それはなんでしょうか?

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   それは コレです。
    私も 若い頃に 使っていた ③ サスペンダーです。
    とにかく 格好良くなりましたよね。
  
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「松直商店」 日本最初の本格的ズボン吊り(釣り)会社である

 
  松岡直次郎
   13歳で 新潟県上越市から、 浅草で空樽屋を営んでいた祖父を頼りにして上京。車の後押しを手伝う。
   手伝いを求めて、唐物屋へ小僧奉公に入ったが、店が破産してしまうも、二十円の高額金を手にする。
   これを資本として洋品雑貨の行商をする。
   そのモットーは、
    「健康と精勤が何よりの資本である。誠実と信用は元手である」
    「買った物は現金で払う」。  次第に 問屋から誠実さを認められることとなる。
    
    行商をしている中に、唐物のガーターやズボン釣り(サスペンダー)について色々な批評を耳にした。
    ①色が派手すぎる、②図柄が大まかだ、③デザインが悪い、④ズボン釣りの股の部分が破れやすい。
     これらは全て輸入品に頼っており、日本人向きのものはなかった。
    
    直治郎は、「日本人向きのものを考案し、製造すればきっと喜ばれるに違いない」。
     今こそ、日本人向けの製造をするべきだと思った。
   そこで 
    1906年(明治39)正月、浅草瓦町に小さな家を借り、今まで地道に貯めたお金でミシンを購入した。
    2、3人の男女工に、ガーターやズボン釣りの製造の手伝いをしてもらいつつ、自らも製造に加わり、
    材料の仕入れから製品の売り込みの全てを行った。
     商標は「谷渡り人物印」とした。 両端を吊ったその上を人が綱渡りしても大丈夫だとの意味であるという。 
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   国内初のサスペンダーブランドとしてガーター(靴下止め)、裄吊り(アームクリップ)、腕輪(アームバンド)などにも
   使用され人気を博した。
  1914年(大正6年) 日本橋馬喰町に「松直商店」を設立。
   しかし、当時は世界大戦が勃発し、舶来品の途絶に、国産品の海外品に代わるものをという一般情勢を考え、
   今までの工場と設備だけでは、とても注文に応じきれないということで、ズボン釣りその他の部分品
   一切を自家供給するべく 渋谷(それが 代官町に近かったことになる)に工場を建てた。
   ところが、この新事業は欠損が続き、3年、4年経って好転しなかった。
   普通であれば投げ出すところを、諦めずにねばった。 5年目にしてついに好転したという。
   
  1920年(大正9年)ズボン吊り事業が好転した頃、友人が経営をしていた東洋文具鉛筆製作所が、
   不振に陥り、応援していた直治郎が 援助した。場所が近所ということが 理由の一つのようである。

   発展しだした ズボン釣りの会社を弟子に任せ、自分自身は この鉛筆工場の再生に乗り出す。
   全く方面違いの事業であったが、負けじ魂と商才とは、やがて、この赤字続きの工場を改善させていった。
    製産工程に、販売にも、思い切った進歩的な方策を施した。昔の自分の仕事のように、自らが 
   文房具店を訪ねて廻り、評価の低さを改善すればよいと、奮闘して、
   新製品 「ヨット鉛筆」の開発に成功した。
 
   ヨット鉛筆は人気が出て、注文が殺到。目黒の工場(代官山の場所を指すのか不明)
   だけでは手狭となり、'1932(昭和7)年川口市
   (そうじゃなくて 川越街道 朝霞の方だと思ったが・・・)に 大工場を建てるまでに成長した。
   ここでもズボン釣りと 同じ精神が流れており、自社工場一貫生産、芯の製造(ゾル製・特許芯)
   から素材の加工処理、鉛筆への工程、乃ち 材料の製造から完成品まで自給自足が行われた。
   
■二つの会社は 共に株式上場を果たし、ズボン釣りの松直商店株式会社
   ヨット鉛筆株式会社の社長を兼務した。
   ズボン釣りその他、洋品雑貨に於いては、品質の精良と研鑽を以て知られ、年商百数十万円を稼ぎ、内地だけでなく
      海外にまで及び、名実ともに東洋一を誇った。
   ヨット鉛筆に於いては日本五大鉛筆工場の一つとしてシェアを拡大。
      海外に輸出するまでとなり、従業員数は500名を越えていた。    
   ▲ 回顧録では・・・
   「学問も無かった。財もなかった。背景もなかった私であるが、今日あるのは私に異常な根気のよさが有ったからだ。」
    享年57歳。  墓地 多磨霊園 16区 1種 3側   同名のに代目の息子の建立である。





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2017.04.20


松下村塾の吉田松陰と、日露戦争の乃木希典大将は、
親類であったことは、 何度もお話したことがあります。

だから、
小田原中学の吉田初代校長が 吉田松蔭の甥であった時に、
湯河原で静養中の乃木大将に、
開校式典招待状を出したのだろうし、
そこに行かずに、 203高地での勝利を伝える、
  そして 
  同時に
    戦争の無残さ も書いた
     有名な漢詩を 初めてしるした 
   
  その ハガキを
次の世界を受け持つ生徒たちのいる 小田原中学へ出したのだろう。

其の日露戦争に、子供二人が戦死して
  203高地では 多くの兵を殺すだけだった 戦争能力、判断力の無かった将軍というった
  評価をあびた彼は、

  台湾の総督府の長官に任命されて 台湾に渡った。
    日露戦争の英雄という印象だけで無く
    乃木大将のその施政は、
      勿論 現役の大将という武官としての強権的な面も否定できないが
      1年半ほどの短い期間であったが
      多くの産業を興し、農業を振興させてくれたという印象を残すことになった。
    その印象は、今も残っているようで、
    乃木大将を 悪く言う人はいない。

  その総督府の建物が残っているというので 見に出かけた。

1280px-Presidential_Building,_Taiwan_(0750)

     私は、彼が、あえて 台湾への赴任を受け入れたのは・・・・、
          日露戦争との距離を置きたいという思いも否定できないが、

     ( ここまでは 何度も お話ししたが、 以下 またの機会に・・・・ )

           私は 別にもう一つ理由があったと思っている。
  
とにかく のちに、
    乃木大将は 日本へ戻り、学習院の校長になり、明治天皇が亡くなった折に、
    妻と一緒に
    殉死したことは 有名である。 
 
 




2016.12.17
今朝の 地方紙「タウンニュース」には、NHK大河ドラマで放映された
  群馬県令になった 楫取素彦が、群馬へ向かう以前に、

  馬車群馬へ

  楫取素彦は、足柄にいたということ、その仕事ぶりを伝えています。

タウンニュース
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  これについては 私も 『相豆新聞』に 今年の2月14日と15日に、投稿したことがありますので、
     明後日、韮山ハイキングでもお話しし、さ来週の戸田市文化祭でもお話しする予定です。
     一昨日も その資料を作っていました。

  今日の「タウンニュース」は 要点を端的に、良くまとまった記事になっています。
  皆さんに知られて良かったです。
   と、
  多田編集長さんへメールを送りました。

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夕方 メールを見たら 多田さんからの返事でした。
  筆者へ転送してくれたそうです。 ありがとうございます。




2015.10.23
今日 午後から 湯河原町観光会館で実施された講演会
  中央大学教授 佐藤元英さんの
   『昭和天皇と牧野伸顕の226事件』です。

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観光課長紹介
 ■観光課長さんによる あいさつと紹介

町長あいさつ
 ■冨田町長による あいさつです


講演1 講演2

 
 ■講演会のあと、「光風莊」 でも ・・・ 観光ボランティアの皆さんと意見交流をしていました。

光風莊まえ

佐藤先生が 史料収集・編集に携わった、『昭和天皇実録』の 9月のプレス発表のコピーも配布されて、
    資料小

 ①「紀年日時分の順に整理されての記述であり、宮内省の編集方針は宮中祭祀、天皇行事、実績などを、次の天皇の参考になるよう作られた教科書的意味を持つ実績記録といったものである。今回も天皇の言葉を直接書いてはいない。」

 ②「これまでに知られた史料・資料に加えて、この実録は、時間系列で明示されており、昭和天皇の情報収集・判断・指示や思想形成の順序が明確になったことが特色である。」

 ③「新たな資料の発見には至らない。むしろ これをつかって、さらに正確に、天皇の意志決定が 誰の行動を聞いて、どう決定されたのかを、考えるために有益である。」といったことを 説明してくれました。
 なるほど。
私達の習った平安時代の『三代実録』等も まさにそのような先例集としての 先の天皇の実績集ということでした。
 私たち夫婦のお仲人の飯田瑞穂先生や野沢温泉村の出身である森 克己先生に、授業で読むのに、良く叱られましたね。よく読めなくて・・・・。
 

 佐藤先生との そんな昔物語も 話題になる きょうの講演開始前の控え室でした。
 → なぜなら、佐藤先生は
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私と同じ中央大学大学院の後輩なんです。 
 女房とも同級生なのです。「りっぱになって・・・・40年ぶりに、今日あいました。」と、話を聞いた後で、あいさつしていました。
 佐藤先生 ありがとうございました。


 
2014.11.05
ある方のブログから・・・勝手に引用します。写真を拝借します。

 私が大学に入った頃から、気になってしょうが無い 美しい駅の架線支えの列でした。
 水道橋駅でした。 

 真ん中のY字形のホーム屋根と架線の支えは、古レールのリサイクル芸術作品です。

   水道橋駅

わたしは、当時、気づきませんでしたが、こんな説明板があるそうです。
 
   水道橋駅古レール説明

  1886年製 ドイツ 「ドルトムント・ウニオン」社

水道橋駅の、あのレール群は、
 東海道線熱海駅の上りホームの屋根を支える古レールと、1年違いのお仲間でしたのですね。


こういうことに気づく人もいるのですね。
 そして、興味を持って調べる人もいるのです。
 嵐さんのページです。 
「古レールのページ」(c) ARASHI Michihiro, 1999-2006.

そこには、1885年製の熱海駅のレール、これと同じ1885年ドイツドルトムント・ウニオン社のレールは、
 関東地方JRでは
  (能登川),(飛騨古川),(熱田),(飯田),(小田原),(岡谷),(小淵沢),(新宿),(御茶ノ水),(大宮工場),(田端),(成田),(下仁田)の駅で、再利用されていたと報告があります。
 
※このかたは、熱海駅には調査においでにならなかったようで、もれていますし、
 報告にある、小田原駅の利用は、駅の新築で消滅しました。
 下の写真のように、イイ雰囲気の玄関のようでしたのに、残念です。
  その方の撮影した小田原駅玄関のひさしです。写真を拝借してご紹介します。
     odawr_jr.jpg
    綺麗なカーブですね。素晴らしいです。この支えは。

  小田原駅東口
 
   この赤丸部分を撮影したのですね。小田原駅東口です。
 

 


 
2014.01.12
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