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1920年代の現代住宅
トウゲントハット邸

1920年末の建設とは思えない!

チェコ ブルノ市の ユネスコ世界遺産指定
第二次大戦 間近で 主人一家は
ユダヤ人資産家だったために 危険を察して
新設6年で放棄して スイスへ去った。

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コルビジェや
ライトと
三本の指に数えられる
建築家 ミース-ファンデル
の 作品。

中の 家具 椅子のデザインも、
シンプルながら
今も デザイン基本で使われている!
大きなガラス窓
崖に建つので
三階が道路からの玄関があり 下る。
一番下が 機械室。
そしてなだらかな芝生の庭。

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2019.06.26

久しぶりにNHK「日曜美術館」を見た。
  「決闘写真」を撮った男 林 忠男ということで、
  戦後の社会、いわゆる 「カストリ時代」を撮り、有名な文学者の「素顔」を撮影した人物で、
  その撮影の仕方が、
  対象者と「決闘」を挑む カメラマン(自分)の
  戦いが、写真を撮るということと云う人物で 知られている。

太宰治、川端康成、坂口安吾、谷崎潤一郎といった、気難しい作家達の日常を撮った写真
   についての 苦労やエピソードが、
   息子や兄弟の話から鮮明に知ることが出来た。

坂口安吾
坂口安吾




また、カストリ時代(終戦1945~戦後1955)の、
   貧しい女性・たくましい子供たちの様子を撮った写真も紹介された。

   ▼大人ぶって タバコ加える子供        ▼腹の空いた子供が 腹空いた犬を背負っている   
林忠彦写真1 林忠彦写真2

 特に 太宰治の写真は 昔から有名だ。
   今年 出た本から 同じ写真を表紙にしている 二枚をあげた。
   バーの 奥のカウンターに 高イス上に足を上げて座り込む 若い太宰治である。


太宰治表紙 林忠彦写真集

 太宰治と言えば いつも こんな顔をしている人物だが・・・・
   それとは全く違う 若いときの 苦悩のないような 飲み屋の様子である。

  200px-Dazai_Osamu.太宰治   無頼

  今年、右上の「林忠彦 生誕100周年作品BOX『無頼』」新潮社 12万円が、
                                                                        オンライン販売されました。
  フジフィルム写真歴史博物館でも、林忠彦の写真展が開かれました。

  このNHK番組と、新潮社PR誌「波」2018-9で、息子さんが語る文章で、
  写真展にも行けず、本のBOXも買えない自分には、多くのことを理解できて良かった。

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新潮社PR誌「波」2018-9月号の 息子の写真家 林義勝さんの文章をアップします
太宰治 全体写真

  ※ 文章の写真上に マウスを置いてクリックすると 拡大鮮明に読めます

右

左

  バーの店主や息子さんが語ります。 織田作之助を追って バー。・ルパンにやって来た 林忠彦は、
  バンバン 織田のストロボ写真を撮り続けていたら、奥にいた若造が「作之助ばかり撮っていないで、オレも 撮れよ!」といったので、アレはだれかと聞いたら、太宰というヤツだというので、 まあ 念のために撮影しておこうと思ったら、
  もう、ストロボ電球が一つしかなかったので、慎重に構えて撮ろうとしたが、
  奥の隅にいて、構図がうまく行かず、
  ついには、自分の後の 便所のドアを開けて、便器の上をまたいでしゃがみ、撮影した。
  その日のストロボ最後の写真で、
  太宰の最初で最高傑作の写真になったというのです。 
撮影位置図

  一緒に呑んでいた 織田作之助の写真はこれです。 
  織田は 太宰より 早死にします。
 
織田作之助 ルパン


  
2018.12.10

箱根湯本で、古写真を大量に 
  叔父や父親から引き継いでおられる人が いらっしゃいます。
 その方に 色々と伺って見たところ 
 お返事をいただきました。

 ①和歌山の「大正印刷」という印刷屋さんは、鳩のマークを使用していました。
 ②櫻木良平、櫻木四郎が勤務していました。
 ③「福浦八景」は、櫻木商店で販売したものと思います。
 ④城願寺の土肥氏墓地の写真については知りません。

それにしても 昨年調べていた・・・・・
  遠く、 和歌山県和歌山市の写真屋さんが、
  何故に、昭和10年頃 神奈川県 湯河原町福浦漁港の
  関東大震災の復興を記念した 築港記念の 
  絵葉書「福浦八景」を 発行できたのだろうか不思議でした。 

こんな 箱根に 大きな因縁の ヒントがあったのです。

  水曜日に 訪問させてくださいと お願いしました。




2017.10.16

 忘れていた 恋ダンスの 星野 源さん 
  彼の衣装ファッションで気づくことがあるかという 私の質問の
  回答が遅れていました。下のファッションですね。

  代官山のTUTAYAでは、 昔 その代官町・猿楽町にあった

   地元の名会社 ①「ヨット鉛筆」の大々的な復活(?)と 
   ②「ヘンミ 計算尺」の展示販売。 そして ③ もう一つは?
   星野さんのファッションに関係する③も あわせて大々的な復活を(?)させては?                                                        
      というのが 私の提案でしたが・・・ それはなんでしょうか?

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   それは コレです。
    私も 若い頃に 使っていた ③ サスペンダーです。
    とにかく 格好良くなりましたよね。
  
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「松直商店」 日本最初の本格的ズボン吊り(釣り)会社である

 
  松岡直次郎
   13歳で 新潟県上越市から、 浅草で空樽屋を営んでいた祖父を頼りにして上京。車の後押しを手伝う。
   手伝いを求めて、唐物屋へ小僧奉公に入ったが、店が破産してしまうも、二十円の高額金を手にする。
   これを資本として洋品雑貨の行商をする。
   そのモットーは、
    「健康と精勤が何よりの資本である。誠実と信用は元手である」
    「買った物は現金で払う」。  次第に 問屋から誠実さを認められることとなる。
    
    行商をしている中に、唐物のガーターやズボン釣り(サスペンダー)について色々な批評を耳にした。
    ①色が派手すぎる、②図柄が大まかだ、③デザインが悪い、④ズボン釣りの股の部分が破れやすい。
     これらは全て輸入品に頼っており、日本人向きのものはなかった。
    
    直治郎は、「日本人向きのものを考案し、製造すればきっと喜ばれるに違いない」。
     今こそ、日本人向けの製造をするべきだと思った。
   そこで 
    1906年(明治39)正月、浅草瓦町に小さな家を借り、今まで地道に貯めたお金でミシンを購入した。
    2、3人の男女工に、ガーターやズボン釣りの製造の手伝いをしてもらいつつ、自らも製造に加わり、
    材料の仕入れから製品の売り込みの全てを行った。
     商標は「谷渡り人物印」とした。 両端を吊ったその上を人が綱渡りしても大丈夫だとの意味であるという。 
           img_01_20170420205949f5c.jpg
   国内初のサスペンダーブランドとしてガーター(靴下止め)、裄吊り(アームクリップ)、腕輪(アームバンド)などにも
   使用され人気を博した。
  1914年(大正6年) 日本橋馬喰町に「松直商店」を設立。
   しかし、当時は世界大戦が勃発し、舶来品の途絶に、国産品の海外品に代わるものをという一般情勢を考え、
   今までの工場と設備だけでは、とても注文に応じきれないということで、ズボン釣りその他の部分品
   一切を自家供給するべく 渋谷(それが 代官町に近かったことになる)に工場を建てた。
   ところが、この新事業は欠損が続き、3年、4年経って好転しなかった。
   普通であれば投げ出すところを、諦めずにねばった。 5年目にしてついに好転したという。
   
  1920年(大正9年)ズボン吊り事業が好転した頃、友人が経営をしていた東洋文具鉛筆製作所が、
   不振に陥り、応援していた直治郎が 援助した。場所が近所ということが 理由の一つのようである。

   発展しだした ズボン釣りの会社を弟子に任せ、自分自身は この鉛筆工場の再生に乗り出す。
   全く方面違いの事業であったが、負けじ魂と商才とは、やがて、この赤字続きの工場を改善させていった。
    製産工程に、販売にも、思い切った進歩的な方策を施した。昔の自分の仕事のように、自らが 
   文房具店を訪ねて廻り、評価の低さを改善すればよいと、奮闘して、
   新製品 「ヨット鉛筆」の開発に成功した。
 
   ヨット鉛筆は人気が出て、注文が殺到。目黒の工場(代官山の場所を指すのか不明)
   だけでは手狭となり、'1932(昭和7)年川口市
   (そうじゃなくて 川越街道 朝霞の方だと思ったが・・・)に 大工場を建てるまでに成長した。
   ここでもズボン釣りと 同じ精神が流れており、自社工場一貫生産、芯の製造(ゾル製・特許芯)
   から素材の加工処理、鉛筆への工程、乃ち 材料の製造から完成品まで自給自足が行われた。
   
■二つの会社は 共に株式上場を果たし、ズボン釣りの松直商店株式会社
   ヨット鉛筆株式会社の社長を兼務した。
   ズボン釣りその他、洋品雑貨に於いては、品質の精良と研鑽を以て知られ、年商百数十万円を稼ぎ、内地だけでなく
      海外にまで及び、名実ともに東洋一を誇った。
   ヨット鉛筆に於いては日本五大鉛筆工場の一つとしてシェアを拡大。
      海外に輸出するまでとなり、従業員数は500名を越えていた。    
   ▲ 回顧録では・・・
   「学問も無かった。財もなかった。背景もなかった私であるが、今日あるのは私に異常な根気のよさが有ったからだ。」
    享年57歳。  墓地 多磨霊園 16区 1種 3側   同名のに代目の息子の建立である。





2017.04.20


松下村塾の吉田松陰と、日露戦争の乃木希典大将は、
親類であったことは、 何度もお話したことがあります。

だから、
小田原中学の吉田初代校長が 吉田松蔭の甥であった時に、
湯河原で静養中の乃木大将に、
開校式典招待状を出したのだろうし、
そこに行かずに、 203高地での勝利を伝える、
  そして 
  同時に
    戦争の無残さ も書いた
     有名な漢詩を 初めてしるした 
   
  その ハガキを
次の世界を受け持つ生徒たちのいる 小田原中学へ出したのだろう。

其の日露戦争に、子供二人が戦死して
  203高地では 多くの兵を殺すだけだった 戦争能力、判断力の無かった将軍というった
  評価をあびた彼は、

  台湾の総督府の長官に任命されて 台湾に渡った。
    日露戦争の英雄という印象だけで無く
    乃木大将のその施政は、
      勿論 現役の大将という武官としての強権的な面も否定できないが
      1年半ほどの短い期間であったが
      多くの産業を興し、農業を振興させてくれたという印象を残すことになった。
    その印象は、今も残っているようで、
    乃木大将を 悪く言う人はいない。

  その総督府の建物が残っているというので 見に出かけた。

1280px-Presidential_Building,_Taiwan_(0750)

     私は、彼が、あえて 台湾への赴任を受け入れたのは・・・・、
          日露戦争との距離を置きたいという思いも否定できないが、

     ( ここまでは 何度も お話ししたが、 以下 またの機会に・・・・ )

           私は 別にもう一つ理由があったと思っている。
  
とにかく のちに、
    乃木大将は 日本へ戻り、学習院の校長になり、明治天皇が亡くなった折に、
    妻と一緒に
    殉死したことは 有名である。 
 
 




2016.12.17
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