この向井潤吉の絵が   
   昭和57年 1982年 まえに 描かれたあと・・・

   春塘 向井潤吉1984

   早春の水路 新河岸川昭和57年1982


 
 この 中庭を取り巻いていた 長く コの字形に続いた醬油醸造蔵も・・・
 
   橋本家醸造蔵左


 
 母家に繋がった この 土蔵も・・・
  
   橋本家土蔵





 平成5年の 下の新聞のように 解体が決まった・・・・・

   新聞記事平成5年解体



 解体中に 建築雑誌 『ニュー ハウス』に連載を持っていた
      日影 良孝 氏が 解体中の この舟問屋、のち醬油醸造所を訪ねてきた。
      掲載されたこの記事が この建物の最後の姿であった・・・・

    日影良孝 舟問屋
 











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2017.05.09


京都の「都七福神めぐり」に 続いての
  火曜日は 東京小石川の七福神巡りでした。ただし その一つだけ

  丸ノ内線 茗荷谷駅の えびす様を 参拝しました。
       寺の名前は 深光寺 です


  小石川七福神地図

  駅を降りて 改札口を左へ回り込んで 細い茗荷谷と呼ばれる道を下ります。
  拓殖大学の建物を右に見上げて 50m 林泉寺: 縛られ地蔵と並ぶ、

      縛られ地蔵

右の大学校門の反対の 深光寺
  左手のお寺です。 坂を登ります。本堂前の右に 隊を持った恵比寿様がいます。 

    えびす
  

本堂の左手前に、長編「南総里見八犬伝」曲亭馬琴のお墓があります。

  本人は、武士を辞め商人町人として生きたので、その意味では、滝沢馬琴を使わず
  ペンネーム「曲亭馬琴」(きょくていばきん)を使っていましたね。
 
 このお寺、深光寺には 
  最上家に仕え、川越藩松平信綱とその子の旗本に仕えた
  もと武士の滝沢家の菩提寺らしく、左手に一族親類の墓が まとまっています。

        DSC09228しょう

  馬琴が、目が見えなくなって、口述筆記をして助けて、最終巻106冊まで出版できたのは
  長男の嫁のおかげといいます。
  その 「みち」のお墓も、
  馬琴の墓の左後ろの夫兄弟と同じ墓に 眠っていました。

          滝沢子供夫婦墓
   4人の戒名のうち  一番左が 路さん、右となりが 旦那さん。
   その
   旦那さんの顔は、お父さん馬琴と交流のあった、渡辺崋山が写実的に描いています。
  急度 父も このような 真面目で神経質な顔であったように思えます。

         800px-A_portrait_of_Takizawa_Kinrei_by_Watanabe_Kazan.jpg

  このような夫と、夫が先になくなったのち 義父の面倒をみた彼女に
  ご苦労様と言いました。

同じように 自分の作品に挿絵を描いてくれたことで、曲亭馬琴と仲が良かった葛飾北斎も
  同じような環境で、 北斎もまた、美人画では北斎もかなわなかった 
  実のむすめ葛飾応為こと、「えい」に 歳をとってからも世話をしてもらって画業に励んでいた。

   北斎むすめ

  この布団をかぶって絵を描く 北斎と、見つめるむすめの図を元に
  北斎美術館は 人形で再現されていました。

  お栄と北斎人形



2017.01.19


今朝の『読売新聞』の特集は 伊能忠敬の名言

  「功成り 名とげて 身退くは 天の道」

「測量隊の旅も最終的になった 68才の忠敬が、
    長崎からの娘への手紙に書いた 文章だ。」そうです。
 私には その資料を購入していませんから、
  実際に どんな部分で、そう書いたのか解りませんが・・・この文章は別にして
新聞には 伊能家の香取市佐倉の屋敷、橋、その他の写真や記事がありました。

   伊能家写真

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  インターネット 読売から

今朝の「読売新聞」の特集
  次のページには 江戸東京博物館
  「戦国時代展」の記事が紹介されていました。



2017.01.08
京都から帰ってきたら 暖かくなりましたが・・・
  週末は また 雨か雪 という天気予報のようですが、
  新幹線で 米原で 見て来た きれいな伊吹山の雪のことを思い出しながら・・・・・


むかし 二度 出かけた 古河市の博物館を見たときに
   一番 力を入れていた展示が 雪の結晶の本をだした 土井のお殿様のことでした。
 
  「春は花 夏ホトトギス 秋は月 冬雪さえて冷やしかりけり」 道元禅師  

花、月と並んで雪は日本の美を象徴するものです。雪の形状や降り方、積もり方によって様々な呼び名があるというのは興味深いところです。
 平安時代にはすでに雪を「六花(むつのはな)」と呼び、六弁の花にたとえていたという事には不思議な思いがいたします。雪の六方形の結晶を肉眼で識別していという事なのでしょうか。「立華」をそのまま「りっか」と読まないで「ゆき」と読ませる表現もあります。
 
  ◆江戸時代後期天保三年、茨城県古河の城主、土井利位(どいとしつら)は、オランダ渡りの顕微鏡をのぞき、家老であり蘭学者の鷹見泉石(たかみせんせき)の指導を得て雪の観察をし『雪華図説』という私家本を著します。日本で初めての雪の結晶の図鑑で、この記録は、江戸時代における自然科学の成果の一つとして高く評価されています。
顕微鏡を用いて観察・写生した結晶図をはじめ、結晶のできかた、雪の効用などが記されています。正続2編から成り、正編は天保3(1832)年に発刊され、続編は同11年の刊行ですが、後者には、土井利位が、天保六(1835)年12月19日に大坂城で採取した雪の結晶図が集められています。
           土井利位

 このように、土井利位は、大名の公務をぬって結晶の観察をすること20年余、
  雪が降るたびに外へ飛び出し、黒い漆器に雪をうけ、顕微鏡で検視しては結晶をスケッチしました。
  掲載された結晶図は総計183種。ふたつとして同じ形のない、繊細な雪の結晶の特徴がよくとらえられています。
 
 発刊と同時に蘭学者間で話題となったこの結晶図は、三
年後の天保六年に発刊された鈴木牧之(すずきぼくし)の『北越雪譜』(ほくえつせっぷ)にそれが転載され、

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庶民も雪の結晶の美しさに目を見張ります。やがてこれは図柄として、様々なものに取り入られてゆきます。それは本書の刊行によって雪の結晶の神秘的な美しさを知った当時の人々の間で、着物の図柄や器物の装飾などに雪華の模様をあしらうのが大いに流行したことになります。デザインは観察・筆者の土井氏の官名であった「大炊頭(おおいのかみ)」にちなみ、「大炊文様おおいもよう」とも呼ばれたそうです。


土井家所蔵「雪華模様訪問着」
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土井利位「雪華図説」
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博物館所蔵「雪華模様の印籠」 


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 こんな科学的な図柄を、きものや調度品、菓子にまで使う好奇心と美意識に感服せざるを得ません。
はかなく消え入る雪の結晶は、それだけに美しい文様「雪の華」として、多くの人々の心をとらえたのですね。

  結晶を観察していた 手に入れていた顕微鏡は、資料によるとこれです。

                  Culpepper-Microscope.jpg


 
2016.01.27
NHK大河ドラマ 
    花 燃ゆ 

松陰の妹の 文 が、 上司の家に持って行くお菓子に、自前で作った羊羹を持参する。
  その あいさつの台詞に
   「江戸で評判の 船橋屋の羊羹にならい 作って見ました・・・・」と
  差し出しました。

この時期 文化年間に 江戸深川の佐賀町で 船橋屋さんが 練り羊羹を発明したことで評判になり
  江戸だけでなく お土産として、地方へ持ち帰った参勤交代の大名・武士の手によって広まった。
  レピシも 伝わって試作する地方の菓子屋もあったのだろうし・・・ 身内が江戸にいて評判を伝えてきた家では なおさらであったと思う。  瓦版や、平賀源内 山東京伝の名コピーライター、 蔦や重三郎、十返舎一九の「○○道中膝栗毛」など戯作文学出版が 幕末に盛んになったことも影響したと思われるが・・・・


この大河ドラマで
  吉田松陰の松下村塾の教え子が 妹の 文 の助力もあって 江戸へ行っていたので、菓子作り好きの 文 へ
  レシピを送ってきたであろうことは ドラマ作家のアイデアであろうけど。
  貧乏家臣の娘に そんな材料が 揃うかどうか 砂糖が使えたか、小豆が使えたか疑問点が多いけど・・・

 ① それまでは 羊羹は 今の「水ようかん」風の 水っぽい羊羹であったから、笹や竹の皮に包んで蒸した。
 ここからは 
 ② 羊羹を 砂糖・寒天で 堅く煮固めて 冷やし保存性を高めたし、包まなくても 羊羹それだけで手に持てた。
 この②羊羹は 作るのは手間がかかり 高価だから 贅沢なお土産品である。 
 今でも「虎屋」の羊羹の紙袋が 中身は食べてしまっても、ステータスとなっているようなものだ。
 それまでの①の羊羹は 近江八幡での繊維業や出歩き行商の見習いが お盆時期に田舎へ帰る時のお土産に持って帰った 
 今も使われる、火祭りに行った時には 私も買う「丁稚羊羹でっっちようかん」が 今も残る貧乏人のお土産羊羹(失礼!)である。 
 
  ※いま、「船橋屋」といえば、亀戸の「くずもち」で有名な店を指すが・・・・ 羊羹の船橋屋とは違う店で 関係はありません。 
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2015.03.30
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