同じく 小学校6年生 中学受験問題・・・・・・・・・・・・

設問
17世紀に入ると,
九州の有田で焼かれた陶磁器は、日本の国内・国外へ運ばれて、その製品の質の高さで大好評となり、生産が多い増えましたが、有田で焼かれているので「有田焼」と呼ばれたのですが、何故か外国では「伊万里焼」と違った名前で呼ばれることが多かったようです。その理由を下記の略図や絵を見てその理由をかきなさい。


   伊万里地図

   これも なかなか難しい 日本史の地理の問題。


                                         ありた

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2017.08.13


私の好きな TV番組
 「ぶらぶら美術・博物館」

  今晩8時から BS 4 チャンネル 「戦国時代展」の紹介です。

 ぶらぶら


2017.01.20




昨日 戦国展を見て アンケート用紙にも答えたのだが、こんな感想を持った。
戦国時代展CM

   ① 会場が、狭い

      ・文書が並ぶケース前では、人が並ぶ。近くに寄れない。
     ・釈文や口語訳文の展示表記が見えなくなるので、余計に立ち止まる。
     ・関心を持っている人が多いので、長く止まって、字間に隠された武将の
                  心意気まで感じ取ろうという戦国武将フアンの心情を理解しない、
                  隣の展示品との間隔が接近した展示になってしまった。
     ・人気の刀の展示コーナーの部分は、特に、流れが悪くなり渋滞。隣と間隔をあけてほしい。

  ② 会場が暗い
    展示物を 痛めないためとは承知しているが・・・・

      ・見学者が 年寄りが多いので、足元が不安。
   ・展示物だけに、スポットが当たっていて、目が慣れない。
     手元から展示物に目を移すと まぶしいので、しばらく字が読み取れない。

 ③ 作品の説明文が 丁寧で量が多い掲示で良かった
   
   ・しかし、字が小さいのには 上の②の関係で、読むのに苦労した。

 ④ 音声ガイド 550円を きいて
   いつもは、私が 解説をする役目をやって来たので、初めて借用したので、的外れもあるだろうが・・・   

音声ガイドPR
ガイドリスト

   ・ 戦国武将の4人がセリフを分けて会話調にするという設定は、ねらいは斬新だと思った。
       戦国の武将ファンには たまらない形態の説明だと思った。
   ・ 年寄りには ちょっと こり過ぎかな!? たんなる解説だけだと思って面食らったかもしれないね。
       でも、これからは こういう形態になるのかもしれないと思ったね。  
   ・ 武将の声を4人が もっと声質に差があって区別できれば良いけど、聞く側では、誰の声か覚えてられない。
       誰と誰の会話なのか 区別が付くときには 会話が終わってしまっている。
   ・ 対策として 解説の司会係が、「○○なのは 謙信君、その時どう考えていたの?」と
       名前を言って質問を振ると 理解しやすく助かる。
   ・ 音声ガイド番号の掲示が 展示物に目を向けていると、次の 説明番号が わかりにくい。 
   ・ 会話調なので、掛け合いが早口で、聞き取りにくい。もっとゆっくり。
   ・ アンケート用紙に この音声ガイドの感想を聞く設問があっても良かったのではないかと思った
アンケート1


 ⑤ 「分国法」の展示で、領国の百姓・商人への対応の仕方や
     民衆の立場からの戦乱の苦しさに関するものや宗教に頼る展示解説も あって良かった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ※ 続いてみた 「すみだ北斎美術館」の 常設展示での
     タブレット説明板を使った解説文掲示も、新方式で
     私には 将来の説明の仕方かと思った。
           


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2017.01.18

土曜・日曜に 京都でも 大雪が降る前に、晴天の中で見て来た
   修学院離宮・仙洞御所・桂離宮 でしたが、
   その庭の造営に関わる 後水尾天皇、光格天皇、小田原藩主大久保忠真の調査です。
   中でも、造営の美的造園のセンスを発揮したのが、光格天皇であり上皇です。
   
   ことし最初の、私の「マイブーム」は、光格天皇です。

          
光格天皇肖像
    肖像画では 今の天皇さまに 顔が似ているような気がします・・・それは後述


土曜日の 雪の中で行われたセンター試験
 その 「日本史B」の問題 第4問は 文化史で、
      史料Aや文章Bを読んでの設問です。

  ※下の新聞発表の問題写真に マウスを置いてクリックすると拡大して読めます
      センター試験日本史上
    センター試験日本史下

拡大  上の問題文章を拡大して見ますと、光格天皇のことをこんな風に評価しています・・・・

  光格天皇評価文章センター
       22番の解答で正しい組み合わせは ① が正解です
       ・「紫衣事件」は 紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が、朝廷から賜った。朝廷にとっては
          返礼が収入源の一つでもあった。これに対し、江戸幕府は、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。
          にもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。これを
          知った将軍・徳川家光は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして、紫衣着
          用の勅許を無効にすることにし、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
          この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。
       ・「尊号一件」は、一番下の「閑院宮系図」のように、天皇になったことのない父・典仁親王に、一般的には天皇になった
          ことのある場合におくられる「太上天皇」の号をおくろうとした光格天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざ
          るを得なかったことをさす。 

   なお、問題文中にある「京都御所を困窮した庶民が取り囲みグルグル廻り窮状を訴えることをした」意味の文章は「御所千度参り」事件を指すが、高校教科書にも載せられていない事件で、私も教えたことが無い。今回、仙洞御所を訪問することになり、京都所司代、大久保忠真、光格天皇、仙洞御所、一升石などを調べていて、詳しく知ったほどである。幕末の討幕運動の一環としての意味が語られている「おかげ参り」「ええじゃ無いか」は、有名だが、この「御所千度参り」も、重視して良いのではないかと思う。庭園の美に寄与した話しとか、美談のように語られる、一升石を贈った京都所司代大久保忠真と、光格天皇・上皇の関係も再調査すべきなのではないかと思う。展の住む御所の周囲に大量の困窮民が集まるというのは、自然発生的で無いことは、「お札が降った」と伊勢神宮におかげ参りに行く動機を、御師を動かすだけでなく、お札を撒く画策をした下級貴族の岩倉具視の名があがっているが、この「御所千度参り」は、天明7年6月7日の数人から始まり、6月10日には3万人、18日には7万人という事態になったのだから、誰かが企てたのだと再研究が必要である。
 この事件の結果はどうなったか? 

一書に、こう説明される
 ◆御所千度参りは、天明7年6月7日頃から始まった。初めは数人だったが、その数は段々増えて行き、6月10日には3万人に達し、6月18日頃には7万人に達したという。御所千度参りに集まった人々は、京都やその周辺のみならず、河内や近江、大坂などから来た者もいたという。京都は人であふれ、後桜町上皇からは3万個のリンゴ(日本で古くから栽培されている、和りんご)が配られた。他にも、有栖川宮や一条家などでは茶が、九条家や鷹司家からは握り飯が配られた。この事態を憂慮した光格天皇が京都所司代を通じて江戸幕府に飢饉に苦しむ民衆救済を要求する。これは、禁中並公家諸法度に対する明白な違反行為であった。そのため、天皇の叔父でもある関白鷹司輔平も厳罰を覚悟して同様の申し入れを行った。これに対して幕府は米1,500俵を京都市民への放出を決定、法度違反に関しては事態の深刻さから天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。
  この背景には、天明の大飢饉や、同年4月に徳川家斉が将軍に就任した事から徳政を求める意味もあったと思われる。また、朝廷の行動が実際の救済行動に結びついたことで、尊王論の興隆の一因となった。と、 

           



光格天皇(こうかくてんのう)明和8年(1771) - 天保11年(1840)

 
 ◆江戸時代の第119代天皇(在位:1780年 - 1817年 幼名を祐宮(さちのみや)という。諱は初め師仁(もろひと)としたが、死人(しにん)に音が通じるのを忌み、践祚と同時に兼仁(ともひと)に改めた。
  傍系の閑院宮家から即位したためか、中世以来絶えていた朝儀の再興、朝権の回復に熱心であり、朝廷が近代天皇制へ移行する下地を作ったと評価されている。実父閑院宮典仁親王と同じく歌道の達人であった。

    ※下の新聞発表の問題写真に マウスを置いてクリックすると拡大して読めます
    
光格天皇系図

 ◆閑院宮典仁親王(慶光天皇)の第六皇子。母は大江磐代(鳥取藩倉吉出身の医師岩室宗賢の娘)。曽祖父に東山天皇(第113代)。前帝・後桃園天皇(第118代)の父の再従兄弟である。践祚前の安永8年11月8日(1779年12月15日)に危篤の後桃園天皇の養子となり、儲君に治定される(実際には天皇は前月中既に崩御しており、空位を避けるために公表されていなかった)。桃園天皇と後桜町天皇はまたいとこである。

 ◆江戸幕府将軍徳川家治の御台所倫子女王は、実の叔母(実父の妹)に当たる。つまり、光格天皇は将軍家治の義理の甥でもある。

 ◆天明の大飢饉の際には幕府に領民救済を申し入れて、「ゴローニン事件」の際には交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に務める。博学多才で 学問に熱心であり、作詩や音楽をも嗜んだ。また400年近く途絶えていた石清水八幡宮や賀茂神社の臨時祭の復活や朝廷の儀式の復旧に努めた。

 ◆朝幕間の特筆すべき事件として、尊号一件が挙げられる。天皇になったことのない父・典仁親王に、一般的には天皇になったことのある場合におくられる太上天皇号をおくろうとした天皇の意向は、幕府の反対によって断念せざるを得なかったが、事件の影響は尾を引き、やがて尊王思想を助長する結果となった。

 ◆文化14年3月22日(1817年5月7日)、
仁孝天皇に譲位。翌々日の3月24日(5月9日)に太上天皇となる
   つまり、今話題となっている天皇退位問題では、2017年1月現在で 最後の上皇
であった。
   この時の住まいが 「仙洞御所」で、一升石に関わってくる・・・

仙洞御所絵葉書
   天保11年11月18日(1840年12月11日)、崩御。宝算69歳。 
   京都泉涌寺 後月輪陵。(※昨年 お参りに行って来た)

 ◆系図のように 仁光天皇・孝明天皇・明治天皇・大正天皇・昭和天皇・今上天皇とつづく現在の皇統は、光格天皇から続いていることがわかる。また、幕末に、宮廷より幕府へ嫁いだ皇女和宮も光格天皇の孫になる。

  ※下の新聞発表の問題写真に マウスを置いてクリックすると拡大して読めます

閑院宮家系図



 

 以上、今年のセンター試験 「日本史B」の問題は、上記のように かなり専門的である。 

 その光格天皇の動きを 受けて、
 つぎの問題では、
  『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵の動きを 史料で読ませて 幕末への動きを読み取らせる問題だった。

長谷川平蔵出題
 
これでは・・・ 
 昨年末に 中村吉右衛門が主演してきた『鬼平犯科帳』のTVドラマが終了したが、
 20161203232542.jpg   

その時期にあわせて
 これをヒントにして問題を作った 先生
   (例えば 東京大学の藤田覚教授だろうか!?)に、 


  「新しい分野に切り込んだ問題づくり」に 敬意を表する気持ちになった。










2017.01.16


仙洞御所の[一升石]については
  湯河原での言い伝えや
  小田原の実物保存石など
集められた ここ真鶴半島周辺の 多くの人が知っているように思いますが、
  資料的には、正確なことが解りません。

  領主の大久保忠真様は、ここの州浜石を寄進するために、集めようとして、領民に命じて、
  「この石一個に付き 一升の米をくれた」というのが
  一般的に残されている 相場の話しではあるが、
   (湯河原駅前の 説明看板に 三島由紀夫の文章を引いて そうある)
IMG_1592.jpg
               IMG_1593.jpg

  私には信じられない話で、 これまでも たびたび、ここでお話しをしています。


そこで、先ずは一見!

  DSC09033州浜1

   写真の後方に、仙洞御所の南池の周囲にある「州浜」の一升石がある。

       靴と石

   行ってみると 思ったより、小さい! 私の 靴先と比べてみて欲しい。
   真鶴の半島のあちこちに広がる浜、(例:大浜浦)などの石に比べて、「小さい、そして丸い
   平板では無くて 俵の形に近く丸い。 大げさに言うと俵形のお稲荷さんという印象だ。

  それが、
  このように「 約11万1千余個 南池の西側岸に敷かれている。」という説明が行われている。
  池の中にまで続いているが見えるが、水が濁っているし、泥が蓄積している様なので
  この池の底の全体がこの石に敷き覆われているのかの言及は、これまで聞いたことがない。
 
       州浜2


  結論: 現在、真鶴半島の海岸に多くある 石と比べて
                平板では無くて かなり小さくて 丸いという印象である。

大浜浦2
※ 上下の写真、 真鶴半島 大浜浦の石群れ
一升石

             色は、全体的には 黒いが、
                 水に洗われて、土ぼこりが こびりついて、「黒い」とは言えない。
                 真鶴半島には 玄武岩的黒色もあるが 花崗岩的な灰色も交じっている。

      さあ そこで、現場のパンフでは どうなっているのだろうか
          また、案内では、毎日、どう説明されているのだろうか? 
          ガイドさんの 案内の言葉を 聞くのが楽しみですね。

           →  次回 一升石 新知識 ー3ー へ
                
2017.01.12
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