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  今 豚コレラの流行が、関東で広がっている。
     その伝染力・死亡率・死へ至る時間など。
      人間を恐れさせてくれる コレラは 
  今から 161年前に、関西から 爆発的に流行して 沼津・三嶋へ達した。 

  関東地方の人々の不安は、ものすごい モノになっていた。 
  神や 仏に すがるにも いくつかの方法があった。
    おまじないの赤札を 玄関にハルから始まって
    京の吉田神社を分祀してもらう行動を取った村
    湯河原では 各村の代表者が、浄土へ迎へに会に来てくれる 33観音石仏を作り
    城願寺に建てて、西国へ行かなくても おまいりが出来るようにした。

  城願寺に 施餓鬼・施食会で 来る人に、この33観音の由来を説明しようと思いました。  

平面図

33観音1
33観音2
33観音3
33観音4

    地元の新聞にも 短くして 投稿します。 あした 短く構成し直して 27日にでも。



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2019.09.23


昨日の会議の後に、会長から
  伊能忠敬測量隊の石碑の建立 
  お披露目の日を決める 来賓の調整が 難航している事を知り、
  一昨日 私が聞いた 
  碑を立てさせてもらった家の都合、情報を 会長へ伝えましたところ、
    それで 一層、日程を組むのが難しくなったようですが、
  会長は調べていなかったからのようなので・・・

  たとえ、町長は 後回しにしても、
  まずは
  建てさせてもらうお宅の ご都合を聞く事が優先だと考えて
  昨夜 葉書を 作り
  予定日を挙げて、そのうちの都合が良くない日があったら 
  会長に直接 伝えてくれるよう
  9月4日 朝 郵便局から出しました。

葉書案内1

はがきその2

 もちろん 会長にも 同じ葉書を出して
 このような葉書を出したので ☎連絡が来るかもしれない事を知ってもらいます。



ところがどっこい、そういう 希望を聞くことができなくなったのです。

今日 9月4日の昼に、廣澤さんのお宅を訪問して
  「焼亡の舞」の鎌倉出張の話をしていたら・・・ 
  会長から 電話があって 
    「あ、あの石碑の件だけど、10月14日(月)の10時からに決まったから。
       町長の都合を調整してもらって。」
  呆然! 

   じゃあ、上の 葉書により 「町や土肥会の希望日のうちで 
     そちらさんの不都合な日があったら 連絡を下さい。」という、方策は
    失敗したことになる。
  お互いの 都合の良い日と都合の悪い日を出し合って、
  ぶつからないように調整して 日にちを選ぶことが出来るのに
  やろうとしないのか。 
   
顕彰に値する先人のお世話。 町がそれを認め、その子孫が、碑を立てる土地を提供してくれたのだから、
  完成式の集会は、そちらさんが主役という理屈が通らず、 
  建ててやるんだから、町長の都合にあわせて、この日にするから・・・という、
  私の最も嫌う決め方になってしまっている。
  お役所仕事の典型だね。   

あわてて 10月14日で 良かったのだろうか? 聞きもしないで
  ① 10月14日10時~に決めたこと。
  ② これから届くだろう うえの葉書を破棄してくれるよう
  お詫び旁々 うかがって家の人へ渡してきた。





2019.09.04

 小田原市の北東にある図書館
   「かもめ図書館」へ 昼から行ってきました。

  湯河原駅~鴨宮駅に 電車に乗って、
  2時間の講演を 2時間 往復の費用を かけていってきました。

駅から15分近く歩いて 会場へ行ったら
  ロビーにある 掲示板に 貼ってある ポスターを
  熱心に読もうとしている おじさんを見つけましたので、こっそり 一枚。
  来週 湯河原へ来てくれるかしら・・・

ポスターを見る




 さて 講演は・・・
 小田原市にある、山県有朋と田中光顕の別荘にちなみ、二人の仲の良さは長く続き、目白の椿山荘とその隣家、
 護国寺の墓地も隣どおりといった具合であった。 
 
 幕末の勤王の志士のなかでは、1番若い土佐藩士、1番長生きをして、昭和14年に亡くなるので95さい
 「最後の幕末志士」と呼ばれる。

田中光顕講演会小

 幕末を知る、語る、最後の志士という意味では、幕末を生きた最後の藩主とも言うべき浅野長勲ともども、
 話を聞く 昭和の兵士達にとっては、その語り口、経験談のどれをとっても、
 重みがあり、「敵をたたッ斬る」といった言葉に実感が伴うように、昭和の下士官達には聞こえたようで
 「明治維新」の生き証人の言葉は、若者にとって 「昭和維新」という言葉を使わせることになり、
 意見の合わない上官は、たたき斬ることもやむなし、幕末の下級武士出身のエネルギーのようなものを
 感じたことが、

 226事件がおきる 若者の心の支援となっていた。 また、そのように祭り上げられていた感があるとおもった。
 実際に、若者達を鼓舞したわけでもないし、226事件に直接クーデターを指示するような口出しをしたわけでもないが
 90歳を過ぎた 彼の取り巻き連中や秘書達は、彼の威光をカサにして、若者をたきつけた所なきにしもあらず。
 
実際に、226事件の発生後は、
 事件を起こした青年将校らの助命を願うために、田中光顕と浅野長勲は助命運動をしようと動いたが、
 成果をあげることは出来なかった・・・・ 若者に信頼されてるところがあると思ったからであろう・・・
 そんな風に思っていた人物なので、
 聞きに行った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 しかし、今日の講演は
 それらに触れることは ほとんど無かったが、
 若い先生は 声が高く 歯切れが良い声で
 きちんと 勤王の志士、若者の心情を 明確に話してくれて たいへん良かった。
 
 話しの内容は、 さておいて・・・
 
    清水裕介講師

  自分が 中央大学大学院生の頃、
  自分のまわりは こんな 切れる院生だらけだったことを思い出した。
  特に近現代史は、読む史料そのものが すぐに理解出来る。
  賛同者・反対者の意見も、資料ですぐに読めるということもあり、テンポ良く
  持論を展開できることもあって、 
  議論を徹底的に戦わせることができることを 古代史専攻の私には、うらやましく思っていたことを
  久しぶりに
  思い出した。

  明治大学を出て、中央大学大学院の博士課程を出ている 清水先生には
  私の同級生である  松尾先生や佐藤先生は どう関わったのか
  聞きたかったが、
  質問者が多く、
  終わってからの 質問が出来なく 帰宅した。 
  
  手紙でも出してみよう。



2019.03.02


ここは どこ? 訪ねてきた人は誰でしょうか?
        他人の評価はそんなものか! というお話を 書いていた途中で
   うっかり、キーボタンに指先が触れて 全面の入力部分が 消えてしまい、
   また、今日になって 書き直しです。
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 地図には首都高速道路と十字に交わる道路の交差点があります。左上に「ミッドタウン」があります。地下鉄の駅もつながっていますから左下には「六本木ヒルズ」「テレビ朝日」に続きます。

六本木現在

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この交差点には、昭和50年代地図を見ると、昔世代にはなつかしいピンクの看板「ALMONDE」が左下にあり、「ミッドタウン」は、もと「防衛庁」がありました。

今

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明治時代には、下の地図のようになっていました。
一番下の江戸時代「切り絵図」と比べると、

①「ミッドタウン(その前は防衛庁)」の位置は、陸軍第一旅団の兵舎が並ぶ場所になっていましたが、元は「長州萩藩毛利家の下屋敷」であったことがわかります。

②左下の東名高速渋谷方面から入ってくる首都高速道が通る道は、江戸時代には町屋が並ぶ狭い道で、行き止まりであったことがわかります。「芋洗坂」から下りてくる道に合わさって、「外苑東通り」からは江戸城・皇居方面には行けませんでした。
 

明治

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 今の交差点から高速道路下に、(この切り絵図は幕末の制作ですが)
当時、宮崎県延岡市にあった七万石の延岡藩内藤能登守政義(まさよし)の下屋敷が元禄時代以前からありました。このお殿様の住んでいた上屋敷は、今の霞ヶ関虎ノ門、文部科学省の場所にありました。彦根藩から養子跡継ぎに来たお殿様で、大老井伊直弼の弟にあたります。

内藤家下屋敷切り絵図

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 さて、最初の質問、
   この六本木の 延岡藩内藤家下屋敷には、元禄時代に 
  お殿様の兄さんであったのに、お家騒動に巻き込まれて殿様になれなかった、
  内藤義英(よしひで)という隠居さんがいました。 
  家中の政治に口出しもせず、延岡にも仕事がありません。
  この江戸の下屋敷の部屋住みで、毎日やることがありません。

趣味を持たないと やってられません!
  この人を 息抜きの会合に 誘い出した 人は誰でしょうか?
  
2018.11.28


土曜日だったか
  土肥会 深澤会長がやって来て、
  先日の役員総会の議案書を届けてくれた。

  同時に
  土肥会会費の領収書も、持って来てくれた。
  届けるよう頼まれて渡した、二人の方にも それぞれ二年分や今年度分の領収書が届いたようで、
  あまりにも遅くなったことに お詫びします。
  (もともと、会費領収書の発行は 私の仕事ではないので、私が謝ることでもないだろうけど)


それで 出発が遅れた 横浜行きだが
  横浜駅地下街の「有隣堂」書店の 壁に貼ってあった
     このポスター・・・・
   『伊能図大全』(巻別版)

     無題

  むかし 分冊販売はしないという高額出版であったのが、
  今回は 分売可 というPRである。

湯河原の吉浜・門川の宿泊昼食のお宅について 調べたこともあって、
  今度は 湯河原が出ている一巻を 購入したいと思っていたが、
  この ポスターに 値段が出ていない。
 
  書架の何処かに 既刊の一冊くらいはあるのかと思って、旅行ガイドブックや新刊書や
  歴史書コーナーを 廻っても 見当たらない。大きな本だろうに・・・・と思って、
  レジのお姉さんに聞いたら
  「見本のような扱いで、書架にはおかず、レジの奥の事務デスクに、しまってあります。」と言う。

  「そんなに高額本なの?」
  「いえ、それほどでは・・・・   確か 1万8千円くらいでした。 今探してお目にかけます。」という。
  値段を聞いて 今さら 要らないとは言えないので 
  「町の図書館で買って貰おうかなあ・・・・ 湯河原が出ているページがあるんだろうね、見て良いかな?」と
  言いながら 私は 探しました、ページをめくって。
  ありました
  でも この門川・吉浜付近の伊能測量隊の地図の精密度は、解像度が低い写真です。
  これなら、インターネットで公開されている写真解像度と同じだと判断して 取りやめて帰って来ました。
  「それにしても 高いね。」と 言いながら・・・・

帰りの電車の中で、会長が届けてくれた 役員総会の議案書には、
  8月23日の出陣祭前に、町の援助で城願寺に建てられる
  「伊能忠敬測量隊参拝の記念石碑」の除幕式が予定されていたハズ。

出かける直前に受け取ったので、
   そのまま持参して駅まで走り、持って来た
       もらった大封筒内の議案書を取り出して  見てみると
  
  「伊能・・・・・・参拝記念碑完成式典」の次第という印刷物が あった。
   私が 司会をやることになっている。

     挨拶する人の名前が並んでいるけど、
     この記念碑を建てる経緯を説明する時間と人を設定していない。
  これでは 町の予算を投入した意味がないというのが、私の実感である。
  「やっぱり 必要経費として 1万8千円を投入して、1冊買って、資料を作り、式典来賓、参列者、土肥会役員、町民の参加者に配布しないと 税金の有効活用にはならないなあ・・・」と 思いながら

  「やはり、高額でも 土肥会の予算を立て替えてでも、きょう買って来るべきだったかな。式典が終わったら、町立図書館に寄贈すれば良かったのだから・・・・」
  そう思いながら 湯河原に帰って来た。 


   さて、どうするかねえ・・・・

  
  
  


  
2018.07.02
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