5月15日の『湯河原新聞』に
  岩本たま子展の紹介記事が載っています。

湯河原新聞タイトル2

岩本たま子展湯河原新聞




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2018.05.15

25日までの開催です。 是非お出かけください。
  きょう 妻が お邪魔したそうです。 皆様にお勧めしますとのことでした。

  岩本たま子さんは、
  現在の湯河原中学校の校章の作者で知られています。


     gakkousyoumen.jpg



 岩本たま子展
 岩本たま子展目録
 
 斜め向かい 「人間国宝美術館」とあわせて ご覧下さい。
   なお、岩本たま子展は 無料です。

 地図667



2018.05.14

鎌倉幕府の始まりで
   武蔵国の国主として支配裁断した 畠山重忠の居城であった
   嵐山町の 菅谷館趾にある
   博物館で 次の展覧会が開かれている。
   何度も 出かけた場所であるが・・・

武蔵武士とその本拠

   講演会も1月に 2日間にわたって 開かれる。
  この武蔵武士達の活躍こそ
    源平の合戦時に その実力を充分に発揮したことが 
    鎌倉幕府成立の原動力となったことは知られる。
   
    例えば いち早く平家を都から追いだした木曽義仲を 頼朝の命令で攻めるとき、
    戦場となった 「宇治川合戦」や その後の「膳所・大津での合戦」でも
    実力を示したのは 相模国の武士ではなく、つまり、土肥実平たちではなく、
    「武蔵七党」と呼ばれた 彼らであったのだ。
    その後の 「一ノ谷合戦」でも同じである。
武蔵武士うら

    その 向こう見ずの戦いぶりは、 埼玉県熊谷市妻沼の地である「長井庄」を本拠とした武将 
    齋藤別当実盛が やむを得ず平家方に付いていて語ったこの言葉で、平家の武将は縮み上がったという話しだ、
『平家物語』でも 私が好きな場面である。
  
  富士川に源平兵士が にらみ合った際に
斎藤実盛が 十三束(こぶし十三個分)の 大矢を使うので、
      すごいなあ と思っていた平家の大将 維盛に こう聞かれた。
 「やや実盛、汝ほどの射手は 関東の八ヶ国に いかほどあるぞ。」と・・・・

 「実盛程度は 坂東では大矢とは言わない。力の強い者五~六人で張った強い弓を使う。
  鎧の二つや三つは 軽く射通してしまうほどだよ。そんな射手を、有力な武将ならが五百騎以上
  連れていると」。続けて 
 「坂東では 兵士は、親も討たれよ、子も討たれよ、
         それらが死ぬれば、遺体を乗り越え 乗り越え 戦ひ候。」
 「それにひきかえ 西国の軍と申すは、すべてその儀候はず。 
    親が 討たれぬれば引き退き、仏事供養し忌み明けて寄せ、
    子が 討たれぬれば  その憂へ嘆きとて 寄せ候はず。」
 「兵糧米が尽きぬれば、春は田作り。秋は刈り収めてから寄せる。」
 「夏は 熱しとて 出陣を厭ひ。冬は寒しと 嫌ふというような だらしなさだ。」

  膳所・大津・堅田の戦いでは、
  木曽義仲の 少人数ながら 死にものぐるいで 猛突進してくる時に 
    正面にいた 土肥実平軍は 真ん中を 突破されてしまったくらいだ。 

  先日 土肥会の研修会で 散歩した鎌倉幕府の周辺地で、
    鎌倉の鶴岡八幡宮の横で、
    頼朝の幕府の建物に、 
      一番近くに屋敷を持っていたのは、武蔵武士の代表、畠山重忠だった。
    石橋山合戦での 命の恩人であるからと、
      土肥実平の屋敷も その周辺と推定して来たが、一ノ谷の合戦では 実平は
      加古川付近で 逃げてくる平家軍を捕まえる役だった
  
   それに比べて 
    畠山は、 一ノ谷の断崖を降りるに、武蔵国から生死を共にして来た愛馬が、
      骨を折ったりしたら大変だと、
     馬の前足を背負って 降りたという
    image2555.jpg
   
 この話しは 武蔵武士の面目躍如たるものである。
    事実かどうかは別にして、そういう話しが伝えられたということが大事だ。

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 そんな話しを聞き達と思っていたが、
   講演会の 1月27・28日は
   て都合が悪く  出席できない。


    
2017.12.29



史上最大の運慶展 上野で

運慶展1 うら

  という キャッチにも 迷わないで、
  雨の降る火曜日。午後からも小雨で・・
  上野ー日本橋ー東京駅 を まわって帰って来た。



  評判の展覧会なので 上野駅構内の臨時の拝観券売り場も長い列で・・・
  私たち夫婦は 見送りました。
  
きょう 10月19日は 三浦半島先端の 浄楽寺の 三尊が公開の日に当たっており、
  天気が良ければ 行くつもりであったが、
  雨で 堂内は暗いし・・・

  下の 金色の三尊像は いるのだが、
  前の 二尊は すでに 初日から上野へ出ているというので・・・
  5体とも 揃って帰って来たら、帰って来た記念公開をするというので、その時に 見にいくことにした。 

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  この浄楽寺は 鎌倉幕府の武将で、
 三浦氏・土肥氏と親類にあたる 和田義盛が 建立し 
   本尊など5体を 運慶に作ってもらったもの。

  それより前の 頼朝が、妻政子の父親が建てた 願成就院に、
    贈ることにした毘沙門天像を 京都へ行った際に見込んだ 運慶に
    作らせて 贈ることにした。  漫画家さいとうまさお は、このように描いていて
   分かりやすいので 引用する。
  
     運慶さいとうたかお
   頼朝1

   頼朝2-1

   頼朝2-2

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    wada 1

  212ページの仏像は 頼朝の義父が建てた 伊豆 願成就院(がんじょうじゅいん) 
  運慶の 毘沙門天は頼朝から贈られてきていた。 さらに 北条時政が 
    本尊の阿弥陀仏らを 依頼した。  
  
    wada 2

  213ページの方は 上に書いた、きょう お寺での公開日で、今晩、梱包されて、深夜に運び出されて
  上野に運ばれているハズの 浄樂寺 三尊像の3つである。


※ 私は、この間、1186年~1189年までの3年間に、横手市満福寺にある 阿弥陀立像が
            本来 城願寺にあった 運慶の作った 本尊であったものが、横手に
            室町時代に 移されたのではないかと考えており、証拠をつかみたいと
            願っている。
  つまり 平家滅亡後、
    1185 寿永4年春~  頼朝が上京して奈良へ行って運慶の評判を知り
                     願成就院へ贈る 毘沙門天像を 運慶に作らせている。
    1186 文治2年 ~  北条時政が その他の本尊などを運慶に作らせている。
                     願成就院に納めさせる。 そのあと、
                   和田義盛が、 浄楽寺を建て、三尊像らを運慶に作らせる。
                   (土肥実平が 城願寺に阿弥陀仏立像を 運慶に作らせる)
    1189 文治5年春~  運慶 関東の作仏像を終えて 奈良へ戻る。  

    源頼朝、北条時政、和田義盛 土肥実平
    旗挙げ時の艱難辛苦、命を助け合う、宿願を達成する、メンバーとして気心が知れており、
    ちょうど 平家を倒した後で
       彼らが 鎌倉や故郷に帰って、源平合戦犠牲者の追悼で、
       鎌倉幕府を開くときにあたっての和平祈願とあわせて、造寺造仏を
       盛んにおこなっていた時期にあたり、
       関東武士の気質と、運慶らの筋肉質勇ましい 仏像は趣向が一致したはずである。   
    上の四人が建てた寺は、名前順に
       永福寺、願成就院、浄楽寺、城(成)願寺であり、
       共に 運慶作の仏像が求められたのではないかと考えている。

    成願寺の本尊も 必ずや 運慶作のものであったと考えるのが順当であるからである。





2017.10.19


きょうの インスタグラム

kato.masa.yoshi   
   いよいよ 箱根山方面 大雷鳴が聞こえ始めました!
   注意   
   2017、09、08、16:08
   湯河原   雅喜。  #湯河原 #カミナリ #雷鳴 #ゴロゴロ

IMG_3359.jpg

  このあと 30分間 以上 
  今まで 体験したことの無い 連続カミナリ音でした。 
  雷鳴が なりっぱなしの 箱根の山でした。
  湯河原は 雨は パラパラぐらいでした。 


2017.09.08
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