月曜日出かける 京都の旅は こんな風に考えていますと
  戸田市文化財研究会の篠崎会長さんへ 今晩メールしました。


篠崎 様

 天気予報が 関西は大雪と予報していますが、
 まあ、雪の京都で良い経験が出来たと思えるようにしたいものです。

1 新幹線遅れても 行くだけ 行きましょう。

2 初日 遅れる新幹線では お昼はどういう予定でしたか?お弁当を各自買って乗り込み車中で食べますか?

3 遅れ具合、京都の雪具合を見て 車中で計画を練りなおしましょう。 無理をしないで 計画を間引いて省略することで・・・早めの宿舎へ。

4 二日目も同じ。計画変更を考え 昼食の松葉の予約をやめました。どうなるかわからないので。当日でも 大きな店なのでOKです。

5 特別拝観も 人数が少ない点、当日開館しないかも知れないので 行けたら団体でなく入ることで考えています。

6 靴も 雪対策がひつようで 傘も必要。やや長靴とか 予備1足持つとか 日曜日 今から電話で参加者へ呼びかけられますか。靴下もよけいに。

7 前もって会長さん宅へ郵送した 資料は、日曜日中には 届かないかも知れないので めーるで送っています。

8 関東は 今のところ このまえの月曜日のように大雪にはならないで済むようですのですが、念のため 私はJR東海道線の始発一番東京駅6:19着か、二番東京駅7:18着で、皆さんの資料をもって行きます。


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  12月の 三条大橋での雪でした。

    
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  下鴨神社の 雪です。
  そして  東福寺の方丈の 雪あとが おもしろいですね。


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2016.01.23

寒くなった ガラーンとした空間で・・・・
   一気に読んだ 

大学院の先輩である
   中央大学教授の石井正敏さんの本
   『NHKさかのぼり日本史 なぜ、モンゴル帝国に強硬姿勢を貫いたのか』2013年刊NHK出版

空き時間に、つまみ食いのように、あちこちを拾い読みするとか、一部分だけを読むということが多い私にとって、
  一気に通読するというのは滅多に無いことであったが、
  今回、椅子に座って、一息で(2時間以上はかかったが・・・) 読み終えた。

この本では、元寇の具体的内容に比重を置かず、
  その事件の起こる前、事件後の再発対策・準備での情報収集の外交政策に重点を置いたもので、
  表題のように 事件からさかのぼっての情報把握の実態を追っており、
  まとめとして これまでの私の認識不足であったことを 二つ挙げている。
  目から鱗の感じがした。

①元寇の起こる直前の国際情勢・情報は、
  主に日宋貿易の博多商人らによってもたらされたところの、朝鮮半島の高麗国や中国の南宋国からの情報であった。
  その一つは、
    すでに征服されて属国化していた高麗国からは、「元国に従え」といったような忠告の国書と、
    その強大な軍事力等の諸情報を伝えた貿易商人の情報であった。
  二つ目は、元国の侵入と戦っていた南宋国から招来した禅僧達の情報や商人の情報であった、
    元国に批判的な心情からの情報であり、鎌倉幕府執権らの武家政権は、これを重視して対応した。

②それまで、都の平清盛政権や、朝廷・院に勤仕する公家たちが、宋国の文物・文化財・銭を入手するために、
    貿易で入手していた宋国や高麗国の情報で成り立っていたところの「外交権」は、
    頼朝の旗挙げの時から従った、天野遠景を 鎮西九国奉行人として外交拠点の太宰府へ送り込んでから、
    次第に東国鎌倉の幕府に移りつつあった。
   その後の「元寇」への対応から、特に外交国書の執筆や取り扱いには
    南宋からの禅僧の知識を必要としたため、対元国の政策立案にも彼らの意見を斟酌したものとなっていった。
    各国からの国書も
    太宰府から京を越えて鎌倉執権へ送られ、その後、京へ逆送されるという順になり、
    二度の「元寇」を経る中で「外交権」は、朝廷公家の政権から武士の政権に移って行くことになった。


【 結論 】
   日本史を高校で教えていた私が、見逃していたこと。
    それは、世界の大帝国を恐れないでの元国への強硬姿勢は、
    その国に滅ぼされた南宋の禅僧によって得られた知識・情報・そして外交文書作成までやるという価値を認めた
    必要性、信頼性があったということだった。
          
    だから、多くの南宋の僧を、京の朝廷公家衆はもとより鎌倉の北条氏は招聘したし、
    京都・鎌倉に禅宗の大寺院を建てたのだ。 
    
    私の住む湯河原の、土肥実平の城願寺が、
    鎌倉中期に土肥氏の没落で荒れたのに、土肥氏の子孫であり城願寺の壇越である土肥兵衛入道が    
    寺院を再建して臨済宗に改め、南宋からの禅僧清拙正澄(大鑑禅師)を招き、彼の弟子であった、
    やはりこれも南宋の禅僧雲林清深を復興開山として招請して再興ができた。
    
    のち再び荒廃して 戦国時代には大州育守(鎌倉海蔵寺三世)が再興し、曹洞宗に改宗して今に至るが・・・・・
    
   石井さんの この本を読んで、南宋からの禅僧、雲林清深が、鎌倉に近い城願寺の住職に招かれたのも、
   南宋国の消滅と元寇という国際情勢の流れの中で見ることで 理解できるように思えた。 
 

   それを教えてくれた、石井さん
      ありがとうございます。感謝いたします。 
      あらためて ご冥福を祈ります。
           
    

        
2015.11.21


きょうは 台風の前哨戦ということで、
       朝からの小雨が降り続く中で、荷物整理を続けていました。

大学院の授業の 履修届の用紙が出てきました。
⚫️修士1年次の講座
           森 克己 教授
           中田易直 教授
           坂本太郎 教授

⚫️修士2年次の講座
           森 克己 教授
           竹内理三 教授
           寳月圭吾 教授

昔 日本史を学んだ人ならば、だれもが知っている先生方であるし
        こんな先生方に学んでいたのだから、
        その後の自分が
               不甲斐ないと思いました。
               先生がたに 申し訳ないなと思いました。












2015.09.08
突然、休みだからと 車で 伊東温泉の豪華旅館に来ていた次男が
 お昼にやってきて、親子三人で、私の手作りで喜多方ラーメンを食べて帰って行きました。
 その若者でさえ「寒いね ここは」と言っていましたから、寒いのでしょう!
 あさがた、雪予報も出ていて、今日も、寒いですね。
 
●午後、新聞社に、紹介文掲載依頼の原稿を書いて 送りました。
 湯河原新聞、相豆新聞、小田原タウンニュース、神奈川新聞です。
 先日、土肥会会長から依頼のあった、「武者行列」のPRと「焼亡の舞」演舞のPRです。
  
 足湯で配布の 「湯河原温泉のPR」小チラシの原稿をも作り出しました。
 字を大きく見やすく、小さな紙に示すのは、なかなか難しいことです。
 せっかく、今日の午後は 武者行列の着付け練習会であったのに残念でした。

●午前中は、
 5月の土肥会歴史講演会の「後援申請」を、教育委員会社会教育課に持参しました。
 添付書類は、特にそれように出来ていないものもあるので、それなりに、
 昨晩、私の創作したものです。  (嘘はないですが・・・)

●午前中さらに、
湯河原公開講座のPRポスターのPR紙をお願いしてまわる。
  ゆうちょなど2金融機関めぐり。
 NPO法人湯河原げんき隊の定例会で、話した「 ♨足湯 のデザインを決めて 幟旗を発注しました。 
            足湯はた

  先日、足湯に入って下さった美人6名へ写真を送付しましたが、代表は、草加市のかたでした。
  そこで、草加・越谷・春日部での公開講座のご案内用郵便はがき 200枚購入です。

  
   
2013.02.27
坂本龍馬の妻「おりょう」は、勝海舟の世話で、
明治7年(1874)から2年間余,
「田中家」で働いた。
 旧東海道の旅籠「さくらや」は廃業し、文久3年(1863)買い取られて割烹「田中家」となっていた。

 その料亭「田中家」で働いて人気があったという。月琴が奏でられ、少しの英語も出来て、横濱開港後の外国人相手に重宝がられたのであろうか。
 
現在の横浜駅付近は、広重の描く浮世絵の通り幕末まで海の中であり、
 明治維新直後に高島嘉右衛門らが埋め立て事業を行い、鉄道が敷設されていく。1872年6月12日(明治5年(旧暦)5月7日) - 品川駅からの鉄道路線が開通し、横浜駅(初代)が開業。日本で最初に開業された鉄道駅の一つで、現在の桜木町駅に相当する。海はその後も現在の西口近くに「平沼」として残った。
 
 この2年後、おりょうが、横濱へ来て「田中家」で働いたことになる。店から真下に黒煙を吐く陸蒸気を見ていたはずであり、時代の流れをひしひしと感じていたはずである。

 それから140年余りたって、私がその場所を訪問し、旧東海道を見て、田中家をみて、又時代の流れを実感した。

旧東海道現状神奈川宿


明治期の田中家 明治時代の田中家 IMG_3825田中家現在の田中家


神奈川宿を江戸方面に見ると坂道
登り
長い歴史を誇る「田中家」の海岸側、坂下に、視界を遮るように、マンション新築中である。
最後の展望が見られた機会であったか。

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 1887年(明治20年)7月11日 - 横浜駅(初代)- 国府津駅間が開通。新橋駅方面と国府津駅方面を直通する列車は当駅で進行方向を反転(スイッチバック)していた。1898年(明治31年)8月1日 - 東海道本線のスイッチバック解消のために横浜駅を経由しない短絡直通線が開通。横浜以西への直行優等列車は、横浜の代わりに上りは程ヶ谷駅(現在の保土ヶ谷駅)、下りは神奈川駅停車とし、横浜 - 程ヶ谷間を連絡する小運転列車が設定。1901年(明治34年)10月10日 - 短絡線上に横浜の人の利便を図って平沼駅(現在の横浜駅に程近い位置)を設置。優等列車は神奈川駅と程ヶ谷駅に代わってこの平沼駅に停車。
2010.04.28
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