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金曜日に 戸田市文化会館でおこなった お話しの写真が
  主催の 戸田市文化財研究会会長の篠崎さんから送られてきました。
  ありがとうございます。

   講演会1

  講演会2

   参加のみなさま ありがとうございました。

    当日は 上の写真のように お話しを始めました。 
        下は 参考資料  レジメの 1枚目です。・・・・・・・・・・・

 
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   全部で A4 サイズ 10 ページです。
   「西郷どん」に興味があり、 お読みになりたかったら、
   as5j5s@bma.biglobe.ne.jp まで お知らせ下さい。
   プリントに印刷して、またはPDFでお送りします。  




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2018.11.12

 雨になってしまった
 金曜日の午後、 
 戸田市文化会館の301号室

会場
 今回は、
    ①西郷隆盛の裏面、東京での住まい、
    ②弟の西郷従道、弟の吉二郎。子供の西郷菊次郎、教え子、明治天皇、大久保利通などの人間関係
    ③とくに、明治天皇との関係を、
      一週間前に 私が訪問した北信州の町の例にして、
      日清戦争の台湾で病気になり、湯河原で温泉療養の近衛兵へ、
      明治天皇の勅使を見舞いに派遣したことを例に挙げて 
      積極的だった習志野大演習、反対に消極的だった新橋停車場鉄道初乗車の西郷から
     彼の人柄を 導き出してみました。
    ④新潟の三条の五十嵐川土手で、戊辰戦争長岡城での戦いで、西郷の弟が戦死した時の
     近くにいたのに 駆けつけられなかった西郷の話。その悲しみは
       それ以降の新潟北部から山形庄内藩の戦いで見せた 戦後処理の情実さにつながるということ。
    ⑤みんなが知っている、または、行こうと思ったら日帰りできる
       関東地方の西郷の行った場所、地図と解説。 上野の銅像を巡る不思議数点をお話ししました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 戸田市民の方、文化財研究会のみなさん、越谷市での公開講座受講者のみなさま、
 多くの方々に 足を運んでいただきました。
 ありがとうございました。

 市民の方で、会場に来ていただき 「今日のお話の先生は 有名な人なのですか?」と
 受付に聞いてくれた方も いらっしゃいました。
 如何でしたでしょうか?

 また、開催場所の
 戸田市文化会館の小河館長さんも 来ていただき、
 最後まで聞いていただきありがとうございました。
2018.11.09

今日は 10時に出かけて
 13時 受付での 講演会を受け持っています。 
 湯河原は 早朝から このように雨ですが、 
   
 戸田市では それほどではないのでしょうか? 
    足元が不便でしょうが 是非お出かけください。強調文

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資料を作り おえました。
  ※ カーソルを 画上に おいて マウスをクリツクすると拡大されて読めます。

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次は 資料地図です。

資1
資2
資3
資4





2018.11.09

資料:1 堀 辰雄『浄瑠璃寺の春』

堀辰雄夫妻が奈良の浄瑠璃寺を訪ねたのは昭和18年4月です。太平洋戦争が始まって一年五ヶ月後のことです。厳しい世相の中での奈良訪問です。奈良へは これまで作品作りなどで 一人では 度々来ていましたが、結核の堀は、加藤多恵子と結婚して数年目の新婚旅行で、そしてこれが最後の奈良旅行となります。昭和19年以降、喀血が続き、体調が悪化したからです。
「大和路・信濃路」の一部である”浄瑠璃寺”は「婦人公論」の昭和十八年七月号に掲載されているようですが、
この「浄瑠璃寺」は、後に「浄瑠璃寺の春」と改題されて 教科書にも載りました。私もそれを読んだ記憶があります。小説ではなく、体験による随筆です。

  アマゾンで 購入しました。 この文庫本には 丸岡 明の解説があるが、私の欲しい浄瑠璃寺を書く 経過や言われなどが
  全く解説されていないのは 残念です。 HP「東京紅團」の解説が はるかに勝っています。
   
          堀辰雄 浄瑠璃寺の春

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◯年表では
 昭和18年(1943)太平洋戦争ガダルカナル島撤退 私の父は この島を最後に脱出した部隊です。堀辰雄年齢39歳
 4月 婦人加藤多恵子と軽井沢別荘から木曽路を経て奈良に向かう 
 5月 京都に滞在、奈良も訪問
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 堀辰雄の「大和路・信濃路」(新潮文庫)から 「浄瑠璃寺の春」


 この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。
 そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英(たんぽぽ)や薺(なずな)のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。…
 …最初、僕たちはその何んの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃(ひもも)の木のうえに、突然なんだかはっとするようなもの、――ふいとそのあたりを翔け去ったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔の錆ついた九輪だったのである。
 なにもかもが思いがけなかった。― さっき、坂の下の一軒家のほとりで水菜を洗っていた一人の娘にたずねてみると、「九体寺やったら、あこの坂を上りなはって、二丁ほどだす」と、そこの家で寺をたずねる旅びとも少くはないと見えて、いかにもはきはきと教えてくれたので、僕たちはそのかなり長い急な坂を息をはずませながら上り切って、さあもうすこしと思って、僕たちの目のまえに急に立ちあらわれた一かたまりの部落とその菜畑を何気なく見過ごしながら、心もち先きをいそいでいた。あちこちに桃や桜の花がさき、一めんに菜の花が満開で、あまつさえ向うの藁屋根の下からは七面鳥の啼きごえさえ のんびりと聞えていて、ーまさかこんな田園風景のまっただ中に、その有名な古寺が ー はるばると僕たちがその名にふさわしい物古りた姿を慕いながら山道を骨折ってやってきた当の寺があるとは思えなかったのである。
「なあんだ、ここが浄瑠璃寺らしいぞ。」僕は突然足をとめて、声をはずませながら言った。…

… 僕は再び言った。「おい、こっちにいい池があるから、来てごらん。」
 「まあ、ずいぶん古そうな池ね。」妻はすぐついて来た。「あれはみんな睡蓮ですか?」
 「そうらしいな。」そう僕はいい加減な返事をしながら、その池の向うに見えている阿弥陀堂を熱心に眺めだしていた。

 阿弥陀堂へ僕たちを案内してくれたのは、寺僧ではなく、その娘らしい、十六七の、ジャケット姿の少女だった。
 うすぐらい堂のなかにずらりと並んでいる金色の九体仏を一わたり見てしまうと、こんどは一つ一つ丹念にそれを見はじめている僕をそこに残して、妻はその寺の娘とともに堂のそとに出て、陽あたりのいい縁さきで、裏庭の方かなんぞを眺めながら、こんな会話をしあっている。
 「ずいぶん大きな柿の木ね。」妻の声がする。
 「ほんまにええ柿の木やろ。」少女の返事はいかにも得意そうだ。
 「何本あるのかしら? 一本、二本、三本……」
 「みんなで七本だす。七本だすが、沢山に成りまっせ。九体寺の柿やいうてな、それを目あてに、人はんが大ぜいハイキングに来やはります。あてが一人で(も)いで上げるのだすがなあ、そのときのせわしい事やったらおまへんなあ。」
 「そうお。その時分、柿を食べにきたいわね。」…

…「あこの塔も見なはんなら、御案内しまっせ。」少女は池の向うの、松林のなかに、いかにもさわやかに立っている三重塔のほうへ僕たちを促した。
 「そうだな、ついでだから見せて貰おうか。」僕は答えた。「でも、君は用があるんなら、さきにその用をすましてきたらどうだい?」
 「あとでもええことだす。」少女はもうその事はけろりとしているようだった。
 そこで僕が先きに立って、その岸べには菖蒲のすこし生い茂っている、古びた蓮池のへりを伝って、塔のほうへ歩き出したが、その間もまた絶えず少女は妻に向って、このへんの山のなかで採れる筍だの、松茸だのの話をことこまかに聞かせているらしかった。…
… その夕がたのことである。その日、浄瑠璃寺から奈良坂を越えて帰ってきた僕たちは、そのまま東大寺の裏手に出て、三月堂をおとずれたのち、さんざん歩き疲れた足をひきずりながら、それでもせっかく此処まで来ているのだからと、春日の森のなかを馬酔木の咲いているほうへほうへと歩いて往ってみた。夕じめりのした森のなかには、その花のかすかな香りがどことなく漂って、                
ふいにそれを嗅いだりすると、なんだか身のしまるような気のするほどだった。だが、もうすっかり疲れ切っていた僕たちはそれにもだんだん刺戟(しげき)が感ぜられないようになりだしていた。そうして、こんな夕がた、その白い花のさいた間をなんということもなしにこうして歩いて見るのをこんどの旅の愉しみにして来たことさえ、すこしももう考えようともしなくなっているほど、―― 少くとも、僕の心は疲れた身体とともにぼおっとしてしまっていた。
 突然、妻がいった。
 「なんだか、ここの馬酔木と、浄瑠璃寺にあったのとは、すこしちがうんじゃない? ここのは、こんなに真っ白だけれど、あそこのはもっと房が大きくて、うっすらと紅味を帯びていたわ。……」
 「そうかなあ。僕にはおんなじにしか見えないが……」僕はすこし面倒くさそうに、妻が手ぐりよせているその一枝へ目をやっていたが、「そういえば、すこうし……」
 そう言いかけながら、僕はそのときふいと、ひどく疲れて何もかもが妙にぼおっとしている心のうちに、きょうの昼つかた、浄瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い小さな花を手にとりあって見ていた自分たちの旅すがたを、何んだかそれがずっと昔の日の自分たちのことででもあるかのような、妙ななつかしさでもって、鮮やかに、蘇らせ出していた。…



 ▼堀辰雄夫妻が歩いたのは、二人は高級な「奈良ホテル」から浄瑠璃寺に向かいますが、戦争末期のご時世があったのか、バスではありません。夫妻は浄瑠璃寺まで2時間掛かったと書いていますので、交通機関を利用したのではなく、徒歩であったと思われます。
 昭和13年4月 室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵子と結婚して、ちょうど5年目。おそい新婚旅行でもあったのでしょうか、高級「奈良ホテル」からと、奈良街道を北に向かい、佐保川石橋の手前を右に折れて、月瀬街道に入ります。月瀬街道の中ノ川付近から山道を、浄瑠璃寺に向かえば、距離は5.8Km程ですから、ゆっくり歩いて2時間だとおもいます(JR奈良駅からは6。5Km位です)。帰りも般若坂=奈良坂を越えて、「奈良ホテル」に帰宿しています。その通路は、上記のように 東大寺三月堂を通過して、疲れた足を引きずりながら、春日の森を、馬酔木を見ながら帰っているので、その道は「下の禰宜道」であった可能性が高いように思います。 信州富士見高原療養所入院や鎌倉で喀血して鎌倉の額田保養院に入院している結核の堀辰雄にしては、よく歩いたのではないかと思います。

  → 私たちの今日のコーストは、一部重複するので あとで 想像できる地図を示します




資料:2  『顔』 丹羽 文雄

 「顔」は昭和34年1月1日から翌年の2月23日まで毎日新聞に連載された新聞小説だそうです。
主人公耕の恋人衿子が、耕の父親の妻になり、父親の死去後の二人の関係を描写した物語です。
 この小説の後半に「浄瑠璃寺」が登場しています。主人公と彼女は二人で、京都岡崎の旅館からハイヤーを呼んで、車で浄瑠璃寺を訪ねます。
 新聞連載小説ですから、随筆ではないのですが、連載回数が多く、筆者が見聞したことを詳しく書き込んでいます。

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  『 顔 』  丹羽文雄

… 「君が運転してくれるのか」
 玄関をでて、耕はハイヤーの運転手に声をかけた。昨日の運転手であった。
 「浄瑠璃寺を知ってるだろうね?」
 「いったことはないのですが……」
 宿の女中も、道を知らなかった。
 「県境から右に折れるということはきいてますが」奈良と京都の県境であった。
 「途中できけはいいだろう」
 衿子がコートをきて、車にはいった。耕がならぷと、
 「いいお天気ですから、きなくともいいかも知れませんわね」…

…「どこへつれていかれるのか、心細い気がしますわ」
 冗談のように衿子がいう。
 「鎌倉前期につくられた吉祥天像や、九躰仏をみることは、つけ足しです。ぼくのねがいは、九百十何年前につくられた、淋しい山寺のなかに、あなたをおいてみたかった」…

… 耕は車をでて、国鉄バスの標識をながめやった。こんな淋しいところまでバスがかよっていたのか。四、五軒点在しているわら屋根をみる。かすかに水の音がしていた。衿子は、不安そうにあたりをみまわしていたが、浄瑠璃寺の七堂伽藍をあてにしていたようである。この山寺は、特殊な貴族の現世利益や現世逃避のために建てられたものでなく、地方の豪族がその領民たちの幸福をねがって建てられたもののようである。はるか前方に小さい門があった。いかにも山寺の門にふさわしい簡素なつくりだった。足もとに、大きな石がある。往時をしのばせる何かの礎石のようである。山門まで二百ヤードはあるだろう。ふたりは、山門にむかった。…

…浄瑠璃寺の本堂といわれる阿弥陀堂は、寄棟の本瓦葺だった。正面の桁行十一間、側面の梁間四間という横に細ながい、涌洒な建物にむかったとき、衿子には、耕がわざわざここに案内した理由がわかったような気がした。
 「藤原時代ですわね」
 「そう、藤原の和様建築の典型的なものです」
 もとは、入母屋の檜皮葺だったという。耕は、衿子をかえりみた。そして、苦笑をうかべた。
 衿子は、見とれている。藤原時代の和様建物の印象が、どこか衿子の印象にかようものがあると思ったからだ。瀟洒であり、ひどく趣をことにしているのだ。衿子のすがたからくる滴酒な線の類似だったろうか。阿弥陀堂の背景は、自然のすがたにかえっていた。自然はひっそりと、山寺をとりかこんでいる。人間臭がひどく稀薄である。風変り、な、横に細ながい本堂までが、人間臭から超越しているようである。
 「池の向こう側からながめると、いっそう阿弥陀堂の美しさがわかるでしょう。静かな池の面に、本堂がさかさに映っているら櫺子窓や、白壁や、板扉がうつる。極楽浄土の理想境を、ここにあらわしているんですよ」
 「ひっそりとして、人かげもなくて、時計がとまってしまったみたいな気持ですわ。うごいているものも、なくて…」…

… 方丈に声をかけてから、阿弥陀堂に上るべきだったろうが、だれもいるように思われないので、ふたりは本堂の階段を上った。衿子は堂内にひと足ふみいれて、頭からおしかぶさるような大きな金泥の仏像におどろいた。座高七尺四寸余の中尊と、ほかの八鉢もいずれも座高四尺六寸ほどの大きさだった。一列にずらりとならんでいる。おなじような大きな仏が、どうして九躰も必要なのか。衿子は、藤原時代に流行した、仏説の九等級の往生をあらわした千仏思想のいわれを知らなかった。九人も大きな仏が昔のままにならんでいるなど、いまでは浄瑠璃寺だけにのこるものである。
 金泥のはげ落ちた仏の顔は、円満具足のおだやかな表情である。和様彫刻のもっとも典型的なものである。衿子は、天井をながめた。天井の垂木がまるだしになっている。ほかに、四天王像があった。地蔵菩薩像もあった。厨子におさまった吉祥天像には、期待していたほどの感動はうけなかった。そばの九躰仏があまり大きすぎるので、吉祥天女像がことさら小さく、貧弱にながめられる。衿子は何かバランスをうしなった気持で、とおりいっぺんの鑑賞しかできなくなった。馬頭観音像や、不動明王と二童子像を拝しても、それらの上にただながい歴史が感じられるだけであった。九百年の歳月が、つめたい静寂をただよあせている。耕もだまって、各仏像をたんねんにみてまわっている。本堂の右のすみで、仏像の写真が売られていた。…

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昭和34年1月 丹羽文雄『顔』の連載開始ですから、
 上記の 堀辰雄夫妻が訪れた時より 敗戦、戦後復興を経た期間を挟む、15年以上の差があります。
今は奈良交通の運行ですが、当時は国鉄バスが通っていました。
 お金持ち、かつ不倫らしい雰囲気の 訳ありの二人は、京都からハイヤーを使って来たという設定です。
本堂の中の阿弥陀仏の様子も よくかけています。
 帰りに本堂脇の売店で、仏像写真が売られていたと書かれていますが、今もあります。50年たっても変わりません。

 → ここ数年 池の改修工事が続いていて、昔には見えなかった 池の中島への細い石橋や 一升石ぐらいの大きさの白っぽい丸い石が敷き詰められる「州浜」形式になったのは、あの京都仙洞御所を思い出させる、目立ってしまって、あまり 古くからの隠れ浄土風景のお寺というイメージを損なう いただけない景色になってしまったのは残念です。
 池の修理作業と同様に、この7月からは、九体の阿弥陀仏のうち 毎年2体づつ修理のため 持ち出されるようです。
 九体仏・九体寺という名に価しない時期が続くようです。 どこも 修理 修理 保存ですね。

 → 私たちは 今回 雨帰りで 参道の クーラーボックスの中にあった 日野菜の漬物を全部購入してきました。
  おいしくいただいています。




 感謝 私が これまで 都内や松戸ほか 各地を巡る際に、いつもお世話になった
     「東京紅團」さんの資料を お借りしました。 ありがとうございます。



   
2018.06.22

 19日 20日の
 たった 2日間の 旅行案内でしたが、
 こんな資料を 皆さんへ配っての案内を致しましたが

いく前日の 震度6の地震、
 当日 2日間の 豪雨の連続で
   思うように 外で 立ち止まってお話しが出来ませんでした。

※資料の上にマウスを置いてクリックすると拡大されて 読むことが出来ます。 


表紙1

奈良2

奈良3

奈良4

奈良5

奈良6

奈良7

奈良8

奈良9

奈良10

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奈良12

2018.06.22
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