あさ、スーパーへ買い物に行く。 そのあと、ジムにも行く 時間も無く・・・

昨夜 作成した原稿 
  すなわち、
23日の「開運出陣祭」で参加者に 有料300円でお買い求めてもらう
    頼朝「出陣の歌」、「焼亡の舞」の説明につづき、城願寺の文化財についてのレジメの清書原稿
  を持って、コピー屋さんを訪問。

  「即刻 100枚づつ コピ-して 丁合いして欲しい」と依頼。 これで他の仕事が出来る。
  一人でやる仕事の直前は、いつもこうだ。

  早速 駅前看板立てる許可が出たとの会長連絡があり 設置に行く。

             IMG_3227.jpg

午前・午後とは、当日、土肥氏墓地に掲げたい「伊能忠敬測量隊」の参拝から200年という
  説明板の制作に取りかかる。
  記載事項は 下記の資料の抜粋であるが、すでに、他のレジメ原稿は、今朝出したので、
  自宅で、2ページ×100枚を印刷。

今日の最後に 
  今夜 つくった 
  土肥氏墓地に来た伊能忠敬測量隊を紹介する レジメ文章を 掲げておきましょうか。



2016年1月は伊能忠敬測量隊の宿泊から二百年目でした。
                   地元紙『湯河原新聞』への寄稿増補 土肥会理事 加藤雅喜
      
 二百年前、湯河原を歩いた男達がいた。「伊能忠敬測量隊」である。全国を廻り測量をして日本地図を製作した伊能忠敬が率いる測量隊七・八人である。鎖国をしていた江戸幕府が、幕末に日本近海に出没する外国船に対する警戒から、江戸湾には真鶴から石を運んで大砲を据える台場を作ったことや、真鶴半島三ツ石を見下ろす岬上に大砲を置いたことは、地元に住む私たちにとって馴染みのある歴史話となっている。
 が、その外国船警備には最も必要な海岸の地図を急いで作る必要に迫られた幕府の特命を受けたのが、千葉県香取市の佐原町名主を勤め、九十九里の干鰯を肥料として深川に運送販売をしていて、五十才で隠居し深川に住み、第二の人生を浅草の幕府天文方で天文測量学を五年間学んだ技術と気力体力と資金も持つ伊能忠敬であった。五十五才で幕府に測量を委託されて、それから十五年間の測量旅と描図作業が続くことになる。
 長崎出島の医師シーボルトが密かに持ち帰ろうとするほど精密であった伊能忠敬らの製作した大型地図の存在が知られて公開されてきたが、昨年、十五年間におよぶ大記録である「測量日誌」が、「伊能忠敬e史料館」よりインターネットでダウンロード販売されるようになり、その全容を知ることができるようになった。
 今般、私もそこより購入して研究を始めたばかりであるが、測量隊が湯河原を測量しながら通過したこと、吉浜に三度宿泊していること、温泉場、門川で昼食休憩を取っていること、城願寺の土肥実平一族墓地に関心を持っていたことがわかる部分があるので、土肥会役員でもある私は、伊能忠敬研究会名誉代表の渡辺一郎先生の解読や戸村茂昭幹事さんの話しもあり、地元民しか分からない事も加えて皆さんにこの紙面を借りて紹介しようと考えた。なぜなら、湯河原町内を測量したのが旧暦十二月十八・十九日。新暦で一八一六年のこと。なんと二百年目という記念すべき年月日であったからである。

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伊能忠敬測量隊日記(第二十七巻) 第九次測量

 伊能忠敬測量隊にとっては、享和元年(一八〇一年)の第二次測量から、十五年ぶりの土肥郷再訪で、測量隊の中には、この地、吉浜や門川などには顔見知りの者もあったはずだが、残念ながら伊能忠敬、本人は体調不良により遠出を止められて江戸御府内の測量や資料整理をしており、最後の測量旅となった第九次測量隊は引率していなかった。 しかし、江戸の忠敬は測量隊から頻繁な報告を受けて逐一指示を出していたので、吉浜村名主彦右衛門には、前回の厚遇のお礼と再会できないとの伝言があったはずで、彦右衛門も大変残念がったと思われる。この年、測量隊は伊豆七島測量を終えて下田・熱海・伊豆山から北上してきた。

文化十二年(一八一六年)

▼十二月十八日 (前略)(この日は、門川から吉浜午頭天王社まで測量をするが、昼休みは、門川村名主の与次右衛門の家でとった。)
 沿海総測は一里三町九間。八ツ時半(午後三時)頃に着く。止る宿は名主彦右衛門と百姓源兵衛(当時の吉浜村名主と組頭役)宅である。

▼十二月十九日 
 晴天西風。同所に滞留し測量する。六時後(午前六時)に出立し十町(1キロ)ばかりは測量を行わず歩く。相州足柄下郡大久保領門川村に「○にユ」印の目印の旗を立て測量を始め、温泉場までの測量を打上げるまで測量する。町中の左右には、小田原街道と下田街道がある。字(あざ)出所に人家あり、左の西川の向いの山すそに禅宗「潮音寺」がある。右の六町半ばかりの山すそに禅宗「万年山城願寺」がある。土肥郷堀ノ内村の内で、此の寺の内には、土肥次郎実平、法号は実渓大真大居士、建久元庚戌年(1192)三月二十五日、歳八十六で逝去する。同じく実平の長男弥太郎遠平、法号は一笑大喜大禅定門、建保五丁丑年(1217)九月十三日、歳六十八で逝去する。嘉元二年(1304)七月に墳墓を建立したという。中に五輪塔あり。其の左右には同人の墓及び一族等、合せて三十二塔が配列してある。如何にも古墳と見えたコケむした様子である。此の寺の下、田畑中に同人の屋鋪跡がある。そこも堀ノ内村の内である。「城山」は此の寺の上にあり、土肥二郎実平の古城跡である。今なお石段や石壁がホボ残っている。その城構えは四方三町(三百メートル)ばかりという。
 この小田原藩大久保領では、宮下村の宇山口に人家あり、字沢に人家あり、字宮ノ前に人家あり、右へ十二間ばかりの森の中に「八幡宮社」(産土八幡社)、右に鎮守「五所大明神」(五所神社)、前同領の宮上村。此の辺の名所の日金山は高し。西川(千歳川)の向い、伊豆国内に飛地がある。同村の内の字泉に人家が山裾にあり。同じく川向に、禅宗「肥田山保善院」という寺があり。幕府の黒印高拾石壱斗七升七合の支給を受ける。昔、故北条家より寄附の後、江戸時代の稲葉美濃守より現在の大久保家という小田原家代々が寄附している。此の所に末寺三ケ寺あり。「福泉寺」、「永林寺」、「天寿院」である。字下ノ庭に人家あり、字西ノ庭にも人家あり、左には、「熊野権現社」、左また五間ばかりの界川、藤木川の落ち合う場所は、是より一筋、川下にては西川という。此の界川は、即ち伊豆国・相模国の界にて、左の山間凡そ二十町(二キロ)ばかりに水源が分れ入る。是より右方向に行先より流れ、藤木川に添う。字湯ケ原に人家続く、字下ノ湯というあり、温泉場一ケ所でる。藤木川は大体に河原巾共に渡巾十五間、水巾九間計、側に仮橋あり。右の字中ノ温泉壷には借座敷や人家があり、字上ノ温泉壷前に至り温泉までの測量打上げ終る。昔古、水戸黄門公、此所に来り温泉に浴したまいしといい伝う。温泉壷は方四尺計りで湯加減よし。即ち此の温泉、江戸廻り(江戸市中へも湯河原薬湯と名付けて樽に詰め海路を船で芝浜松町や日本橋横山町などへ運ばれ、銭湯より高値でも評判)となる。この株持ち(権利を持つ者)江戸に三家あり。また、谷奥は四方が高山にて田地・人家とも是より先は道が無い。ただ、樵夫(きこり)の通う細路や小田原箱根辺へ山越の道ありといえども、いたって難所であるゆえ、時おり往来通行も絶えることがあるという。昼休、温泉借屋の字湯ケ原内の市右衛門宅で取る。測量打上げの通計は一里(四キロメートル)二町三十五間(263メートル)。それより帰りは測量せず、「願城寺」に立ち寄りて土肥氏の墳墓を見に参拝して、一里ばかりを行って、七ツ時(午後四時)前に、吉浜村名主の彦右衛門、組頭の源兵衛宅へ帰宿した。

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  《追 記》

(1)翌日12月20~21日は、真鶴半島を測量して、さらに小田原宿本陣片岡栄左衛門宅に宿泊。翌日、熱海初島の調査のため南下する12月24日には、再び吉浜村名主彦右衛門宅で昼食休憩を取ることになるが、この真鶴の部分は別の機会に紹介させていただく。

(2)日記のように、わざわざ戒名や没年、墓を建てた年まで記しているのは、伊能忠敬や、部下の測量隊の関心が、湯河原温泉と城願寺の土肥実平・遠平墓地にあることは明白です。前日に昼休みをとった門川村名主の与次右衛門の家は、現土肥会理事、冨岡一夫さんの先祖で、冨岡与次右衛門正和といい、土肥一族墓地のすぐ下の墓に眠ります。土肥実平の子孫として系図を持っていたこともあり、昼休みの話題となり、翌日の参拝意欲をより高めることになったものと推測できます。
 また、吉浜村名主彦右衛門の家に三回も泊まり、昼食休み一回をとったが、そこは湯河原町ヘルシープラザが現在建っている大きな敷地を占めていた家で、今もそこに住む向笠進さんの先祖の本家で英潮院に墓がある。冨岡・向笠さんに各々お話しを伺ったが、この沿岸地域は、関東大震災津波で大きな損害を受けており、両家とも資料は残っておらず、測量隊のことは初耳であるということでありました。



    また あした 


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2017.08.18





 三原市の やっさ祭りに 出かけてから、 一週間たちましたね。

   いやー 三原の 暑かったことー   思い出しますね。
   お疲れ様です。 
   三原市長や お世話になった方々への 写真も送りました。


   そうそう 帰りに 土肥会菅沼顧問から 買って貰った
         豊橋駅 名物の 「山サ  ちくわ」です。
       中にワサビも入っていて おいしくいただきました。

          IMG_3223ちくわ


2017.08.18

今朝の「朝日新聞」 神奈川版
箱根 塔ガ沢・湯本の旅行のレポです。

 私たち夫婦は 昨年の初夏に 参加しました。
 最後は 吉池旅館で 大きな庭を見学して 解散となりました。  
 ※紙面の拡大は、マウスのカーソルを 紙面の上に置いて クリックすると 大きくなり 読めますよ。


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a href="http://blog-imgs-108.fc2.com/0/6/0/060636/201708181200245df.jpg" target="_blank">散歩 吉池

 23日の「頼朝実平 開運出陣祭」

   講演をする予定の 私は この中で、
      吉池旅館で亡くなった 仏画家 鈴木空如のお話しをします。
      彼は この吉池旅館の経営者である鈴木家の親族でした。
      横手市の郷土史家からお借りした 
             彼の描いた 金泥仏画を紹介することを導入として話を進めます。

   そんなことになるとは思わず
     昨年 この旅館を訪問し、
     今年またこのような事で 鈴木会長さんにお話しを伺いました。
     この縁に驚いたものです。



2017.08.18

今日は 
  朝から メタボの特定検診で 湯河原胃腸病院へ 二ヶ月ぶりに。採血検尿などを実施する。
  看板づくりのために 城願寺の倉庫へ行って 2枚持ち帰りました。

  城願寺サルスベリが 咲いていたので
  写真を撮って インスタにアップ

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kato.masa.yoshi
 湯河原 城願寺文殊堂前の
  「大鑑禅師示寂塔」のサルスベリが真っ赤な花をつけました。

 大鑑禅師は、鎌倉末期に執権北条高時に招かれて来日した清拙正澄という中国宋の高僧で、鎌倉建長寺、円覚寺、京都南禅寺、建仁寺など五山の住職を歴任した最高位の禅宗僧です。
土肥実平の子孫が、城願寺復興に招きたいと要請したので、同じ来日僧の愛弟子、雲林清深を城願寺住職に派遣しました。清深は、のちに師の大鑑禅師が京都建仁寺で亡くなったので、1339年に分骨を得て、城願寺に埋葬して示寂塔( 墓 供養塔)を建てたものです。 その墓への道標がこの石なのですが、残念ながら、墓石は文殊堂建設で下に埋もれたのか、墓地に埋もれたのか不明です。
 1375年に、高僧義堂周信が城願寺に来た時に、案内をしたのは 留守であった雲林清深の子供二人でした。その時まで、城願寺は 宋からの来日僧の雰囲気が流れていたのですね

 今日17日にも 土肥氏の墓地はどこですか? という参拝のご夫妻があり、私がご説明ご案内しました。
 土肥会理事 加藤雅喜

 #城願寺 #土肥会 #土肥実平 #サルスベリ #yugawara #紅い #夏のいろ




2017.08.17


 真夏というのに  毎日の 雨の中 

   今日の 
   土肥城山が 白雲でいっぱいです。  私は仕事が 山積みです。

   くも


   きょう 頼まれた仕事を 一つ 二つと 片付けましたが まだまだ。
    そのうちの一つが 先日出かけた 三原市のやっさまつりで撮った写真を
    関係者へ 贈るという仕事です。

    三原市長や 湯河原町長を始めとした 皆さんへ 郵送や直接お届けしました。   
    「見番」へも出向いて 湯河原のきれいどころ 芸妓さんへも お届けしました。

       湯河原芸妓さん



2017.08.16
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