FC2ブログ


    湯河原新聞30.8.

    鎌倉奉納記事30.9.19湯河原新聞抜粋

  ※紙面の上にカーソルを置いて クリックすると 詳細画面になり 読めます。

 拡大文・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

焼亡の舞保存会  16日 鶴岡八幡宮の例大祭で舞を奉納
              初めて鎌倉で武者名乗りを披露する

 今から八三八年前に、源頼朝が平氏追討の旗挙げをし、石橋山合戦に敗れてから、箱根山中を案内する土肥実平たち少数の武将に守られて岩海岸から房総半島へわたることができたことで、鎌倉に入り平氏討伐の大号令を発したことは、この地域の皆さんには良く知られた話である。

 が、鎌倉市民や観光に訪れる国内国外の観光客にも知ってもらおうと、今年も14日~16日に開催された「鶴岡八幡宮、例大祭」のうち、16日(日)には、鈴木公子焼亡の舞保存会会長、羽石勝英顧問、岩本和巳副責任者、動画記録係の池田和男土肥会事務局長、湯河原町教育委員会社会教育課丸山さんの付添いを得て、琵琶:二見嘉香、舞い手は頼朝:小林静子、実平:川島朋子、安達:小泉浩子、田代:西原美和子、土屋:李 美順、岡崎:武井久美子、新開:室伏由美子さん焼亡の舞保存会の会員が、『源平盛衰記』の七騎落ちに根ざす「焼亡の舞」を加藤雅喜土肥会理事の進行で無事奉納し終えた。

  この鶴岡八幡宮を創建した頼朝だが、土肥郷での6日間余の土肥実平が案内した逃亡により頼朝の命が永らえなかったら、この鎌倉幕府の開幕や鶴岡八幡宮の創建という大業がなされなかったということから、これまでも毎年「焼亡の舞保存会」が招かれて舞殿で舞を奉納して来たが、一時中断したものの関係者の努力で数年前に復活したもの。

  保存会では、焼亡の舞にも武者行列と同じように武将の名乗り口上をおこなおうと考え、土肥会加藤理事に原稿を依頼し、能楽協会理事大蔵彌太郎氏の指導を受けて口上の発声技術を磨いてきたが、8月の「三嶋大社」での頼朝公旗挙げ行列の演舞で初披露して、つぎに城願寺での開運出陣祭でも披露され、今回は三度目の披露となった。
 当日、人気の流鏑馬神事のあと、外国観光客には英語の説明チラシも配られて、午後4時から元大銀杏の前で大勢の観衆を集めて行われた。  
 
  抑揚のむずかしい口上を、緊張しながらも全員が鎌倉武士の姿を彷彿とさせるように名乗り終えて、スムーズに演舞に入ることができたので、舞い終わると大きな拍手がおこった。この「焼亡の舞」演舞の前後45分間にわたり、凡そ50組の外国観光客や七五三の家族、観光バスの参加者などと一緒に写真撮影する交流時間を設けたことで、多くの人達に思い出を残すだけではなく、「湯河原にもいらっしゃい」と声をかけ、湯河原温泉のPRをおこなった。

    20180916鶴岡八幡宮焼亡の舞奉納小
   
    焼亡の舞2








スポンサーサイト
2018.09.19


さて、この人は 大磯の吉田茂である。 
  昭和41年(1966)4月29日 天皇誕生日で 皇居へ向かう時の 
  大磯自宅前の写真である。  息子さんが撮影したのだろうか、杖を持っている。
 
   shiryo01.jpg

  今も  再建なった大磯吉田邸に保管され 時に 展示される杖であるが、
  彼が 88歳になっていた、米寿のお祝いに、前年、昭和40年(1965年)10月15日に
  昭和天皇から つまり 宮内庁から、贈られた杖である。
  拡大アップすると
  羽根を広げた鳩が 付け根に彫られ、その上には 菊の紋が彫られていたことが解る。

 shiryo07.jpg

 
住んでいた場所が、平塚・伊勢崎と大磯では 近いからといっても、
   平安京の時代、今でいう「敬老の日」に 80歳になったもらえる お祝いの杖とは違うようだ。
   それは 
   中国伝来の風習、80歳の高齢者には 鳩の杖を贈って長生きを祝うというモノとは違っている。
   こんな
   「はと杖」だったことが解っている。   こんなイメージだろうか。

   鳩杖-334x442img_4.jpg

『弘仁式』に規程があっただろうか? 「はと杖」




2018.09.19


 先週 亡くなった 希林さんは、
    自分の人生を 精一杯 まっすぐ生きた女性だった気がする。

 考えてみれば なんでも 受け入れた女性だった。
  よっぽど 内田が 好きだったのだろうとは うちの妻も言っていたことだ。

            m_postseven-387283.jpg

             U3904P28T3D3323683F328DT20110601182500_20180918213801130.jpg

  その死を知った日は、
    私は、源頼朝、土肥実平の 「七騎落ち」=「焼亡の舞」に関する原稿を書いていたので、
    「希林さん夫婦のことを思い浮かべると いつも 歳取った内田裕也が思い出される。
    それはね、 『マンガ頼朝・実平』を 描く大蔵さんに イメージを語るとき、
    どうしても、実平の義弟、岡崎城主の岡崎四郎義実を連想してしまうんだよね。
    彼も、歳とっていたし、杖を持っていたんだよね。」

       imagesD46C6E8V.jpg

    『吾妻鏡』に、すでに、頼朝も実平も死んでいて、
    80歳過ぎの おじいさんになっていた 岡崎義実。

    平塚・伊勢原の岡崎城主も とっくに 息子に譲っていた岡崎義実は、
    鳩(はと)の握りの杖をついて、尼将軍といわれたいた 鎌倉の政子の元へやって来た。

    「石橋山合戦で、息子の佐奈田与一義忠を失い、佐奈田霊社の建立など、菩提を弔うために
     多くの喜捨をして 財産を失ってしまった。生活が苦しいので、所領なり、年金なり
     お恵みをほどこしてほしい。」と、願い出た。 

    石橋山敗戦後、頼朝と七騎で、土肥の山々、箱根の山を逃げ延び、
    岩海岸から 舟出して、房総半島にわたり、鎌倉に入ってから、兵を集めて
    平家追討の中心になった あの土肥一族の生き残りが なんという みすぼらしい
    姿を さらしているのかと 政子は思ったはずです。
    夫が天下を取り 鎌倉幕府を開いた、最初の恩人達だったはずなのに・・・・

    泣く泣く訴える じいさん岡崎は、年金を無心にきたのでしょうが、
    政子は、岡崎じいさんの面倒見るはずの、佐奈田与一が死んだあと
    岡崎義実の兄貴の 土屋三郎宗遠に養子に行った 息子土屋義清に、
    鎌倉五山の第3位寿福寺の「本願主」という 名誉職を与えた政子。

 ※これを、曽我兄弟仇討ちが バックに頼朝暗殺計画があったとしている
  永井路子さんらは、政子の 意趣返し=仕返し策であるという考え方を
  している。この名誉職は実益を伴わないとしているが、私は賛成できない。
  
  頼朝亡き後、政治主体を北条氏にしていこうと考えていた政子の考えにあると思う。
  その北条氏の敵になる、夫、頼朝を助けた 幕府草創の功臣達の家々、
  つまり土肥・土屋・岡崎・大庭・三浦・梶原・和田・・・といった武将達の子孫の
  芽を摘むねらいであると 私は考えているが、
  必ずしも、北条義時のように厳しく実行するのではなく、一応は 昔 世話に
  なったことも 考慮した政子の与えた 名誉職の付与だったと考えている。
  
  その職は、今で言うと お寺の檀越代表である。檀家総代である。
  息子をこれに付けるということは 老人の岡崎義実一人の介護費用ぐらいは
  充分であったと考える 私であるが・・・・・・・・・


れはそれとして、今日の話は、
  鳩の杖をついて 政子を訪ねて哀願した岡崎義実が、老人だったということ。
  それを象徴的に表すのが 「鳩の杖」であったということである。

若いときの昔は、銀色のドクロ頭を付けた 杖を使っていた 夫の内田裕也であったが、
高齢になってからは、写真のように銀色のT字形の握り手をつけた杖を使っている。
  それで今回も、 
     きょうも、彼のように、 杖を持つ 昔は威勢の良かった白髪の老人

 
 
私は それが 岡崎四郎義実の鳩杖=内田裕也の杖 という
                    イメージを持っていたことだ

  


  
   
2018.09.18


だいぶ 昔に作成した 湯河原駅の歴史年表です。

小田原から 湯河原経由 熱海までは、
  江戸時代以前の「徒歩」から 明治になって「人力の人車鉄道」、「蒸気機関車の軽便鉄道」、
そして、熱海線、のちに これが御殿場線に代わって、東海道本線と呼ばれるようになりました。
この熱海線開通で、小田原~熱海へ 大型蒸気機関車の引く、今のJR東海道線の為に
湯河原駅が開業するハズでしたのに、10月1日開業1ヶ月前の9月1日に、「関東大震災」が発生。
多くの犠牲者を出したし建物・鉄線路の施設被害も大きかったのですが、1年後には
国府津ー小田原ー湯河原ー熱海が 復旧開通して 湯河原駅も開業しましたから、1924年10月1日が
湯河原駅開業と なっているはずです。  今年 95年目になりますか。
  
   このエクセルの表は 一目でわかるので 製作した自分も 割と気に入っています。
  

湯河原駅93年目

 この表を 出発点にして、駅や駅前のようすを、
 いわば「インターネットで見る湯河原駅、駅周辺」ということで
 コピーを集めて 30枚くらいの写真で、流れを追うという試みは
 きのうまでに 下のように レイアウトしました。 まあ、この2倍以上は枚数があるのですが、
 戦争中の写真が 見つかりません。
    段々 充実させていきたいので、写真コピーの複写や情報の提供を呼びかけます。

写真展前期

写真展後期

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2018.09.18


 ジージは 鎌倉へ出かけている間に
   孫娘達は お友達と 
   夏の気分を味わうために 
   サマーランドへ 出かけたようで、

o1080081014267205906.jpg

  こんな楽しそうな 写真が アップされていた。

o0810108014267205903.jpg

  ゆうちゃんの お誕生日だね、  おめでとう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今年は 暑かったので 海に 散歩ぐらいは 行きたい気分だったけど、

台風やら 急な豪雨もあって、 救急車がひっくり返ったり 海近くの ホテルやマンションで ガラスが割れて
  怪我人がたくさん出たりして、 湯河原の 海の家も 壊滅的な被害で、その機会を失いました。

私は 日曜日 鎌倉へ出かけたのですが、帰りの海岸道路は
  材木座・稲村ヶ崎・江ノ島・烏帽子岩・大磯・真鶴・湯河原と
  海岸の砂が大きく流され 削られて、波が直接 コンクリ護岸にぶつかる様子が
  全部の海岸で 見られました。

  ちょっとした 台風でも 大潮でも 大波でも、被害が出るように思いました。
  とお浅という状態ではなく、
  砂浜に ねそべって・・・・などは 無理な 関東の砂浜海岸になったという印象でした。

その様子は
  昔の新潟の海岸を思い出します。
  砂山を 幾つも越えないと 海岸に行けなかった 大正生まれの父親の時代。
  最後の砂山しか残っておらず それも テトラポットで固めないと削られる 私の子供時代。
  新潟地震の津波で また 一層 その傾向が顕著になった気のする いま。





  


  


2018.09.18
 | HOME |  NEXT PAGE »